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訓諭
日達先きに日淳上人より、昭和三十四年十一月十六日・丑寅の刻に血脈相承をうけ、十二月二日・日蓮正宗管長の職につき、総本山六十六世の法燈をつぐ。
宗門の現状は詢(まこと)に旭日昇天の勢にして、日本仏教界を独走すると言うも過言ならず、然ながら此れに伴なって、三障四魔ふんぜんとして来たるは聖語のむなしからざるを証するものである。
宜しく宗門の僧俗は一致して広宣流布の願行に徹して、克く開山上人以来の伝統を護持せねばならないと信ずる、此処に大いに教育の興隆を期して宗門の竜象(りゅうしょう)を養い、宗風の刷新と僧俗一致の実をあげて弘教に精励する由縁がある。
日達・徳薄垢重と雖も、忝なくも富士の法器となって茲に猊座に登る、只今よりはひたすら宗開両祖の遺訓を奉じて身を謹み、歴代諸師の遺風を仰いで実践に移し、異体同心の緇素によって挙宗一致、日蓮正宗の宗勢拡張を期するものである。
冀(こいねがわ)くば、日淳上人の僧俗一致の言葉を帯して日蓮(ママ)が赤誠を諒せられ、身口意三業を謹んで和衷協力、各自その分を尽くして宗門の願行たる戒壇建立に勇猛精進せられんことを。
右 訓諭す
昭和三十五年一月一日
日蓮正宗管長
細井 日達
この昭和三十五年・登座直後に発せられた訓諭に謂うところの、「宗門の願行たる戒壇建立」とは、いかなることであっただろうか。
細井師はこの訓諭を出したその同じ日に、身を謹んで「宗開両祖の遺訓」を奉じ「歴代諸師の遺風」を仰いで、御遺命の本門寺の戒壇・事の戒壇を嚇々と宣揚して云く。
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華 昭和三十五年一月号)、また「真の世界平和は、国立戒壇の建設にあり」(大日蓮 昭和三十五年一月号)と。
そしてまた翌年には、「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する、本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は広宣流布の時の、国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和三十六年五月号)と、堂々の言明をしていたことでした。
しかし悲しいかな、後には身を謹むことなくして「宗開両祖の遺訓」たる御遺命の、本門寺の戒壇・事の戒壇の法義を歪曲。
「歴代諸師の遺風」をもまた踏みにじって、池田会長の「意」のみを仰いで阿諛追従。諌臣・争子の諫めあるにもかかわらず、あたら正本堂をしてどこまでも「御遺命の事の戒壇」とたばかりつづけ管長の権威を以てして大誑惑を実践、ついに正系門下の二つの大事(御遺命・御相承)を亡失したのでした。
「三障四魔ふんぜんとして来たるは、聖語のむなしからざるを証する」とは、まさしくその通りでありましょう。三障四魔の競い起るは余所ではなくして、「外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし」(佐渡御書)でありました。
二代の貫首に渡って、「日蓮智者に非ずと雖も第六天の魔王我が身に入らんとするに、兼ての用心深ければ身によせつけず」(最蓮房御返事)の用心に欠くるは、国立戒壇建立への一道程として時のしからしむるところ、だったのかもしれません。
(
平成十三年十二月五日、櫻川 記 )
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