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破邪新聞 昭和五十年一月二十四日号 (第4号)
特集 妙信講 デマと歪曲の数々
特集3 いわゆる”確認書”について
浅井らは、「昭和四十三年九月、学会側は妙信講の言い分を容れて確認書を作った。しかし、これに違約した」とさかんに宣伝しています。しかし、これも歪曲はなはだしいことです。
たしかに妙信講説得のため、宗門のみならず学会も話合いをしました。そして、その結果、九月十一日に、学会を代表して、和泉理事長、森田、秋谷両副会長、妙信講を代表して、浅井父子の合計五名の名前で、猊下に報告書が提出されました。
その内容は「御報告」という標題で「お互い信者の間で話し合いの結果、誤解がとけ、 相互に友好均な理解と合意に達したので御報告を申し上げます」として「一、正本堂は三 大秘法抄、一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは現時において断定はしない」 というものであり、同時に「今後異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進することを お誓い申し上げます。」との猊下に対する誓いでありました。
この報告の趣旨は“正本堂が、御遺命の戒壇であるか否かについては、両者の問で、そ の時点(昭和四十五年)において、断定はしない”ということであり、決して浅井父子の いうように「御遺命の戒壇でない」ということを確認したものではありません。
ましてや、信者の猊下に対する御報告という体裁から見て、猊下のお立場を拘束するものでないことは、火を見るよりも明らかであります。
そもそも正本堂の意義は、信徒同志で論争して決定するものではなく、猊下が重々の秘伝と御内証にもとづいて決定されるべきものであります。このことを認め合って、お互い信者同志で勝手な主張をしない、というのが合意の内容だったのです。このことは、去る昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会での御説法の趣旨をふまえ、ひいては後に出された訓論の趣旨にも合っています。
ところが浅井らは、これを、今日では「確認書」云々と、あたかも学会が、浅井らの言い分に従ったかの如く歪曲した宣伝をし、講員をあざむいてきました。そして、いち早く約束を破り、講中に対して、勝った勝ったと国立戒壇論を公言しました。その上「正本堂に就き、宗務院当局に糺し訴う」「正本堂に就き、池田会長に糺し訴う」等の文書を宗内に配布し、誤った主張を繰返すに至ったのです。
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御遺命守護の事情を熟知している妙信講員に向けて
「ところが浅井らは、これを、今日では「確認書」云々と、あたかも学会が、浅井らの言い分に従ったかの如く歪曲した宣伝をし、講員をあざむいてきました」などと云ってみても、説得力なさすぎですが、「確認書」の存在という事実の前には、このようにしか言えないのでしょう。
『昭和四十年以来、正本堂を「御遺命の戒壇」と断定し続けてきた学会が、ここに「断定しない」といい、また「今日すでに広宣流布」と偽ってきた学会が、「今後
・・・・・ 広宣流布達成をめざして」と訂正したのである。(略) この確認書こそ、誑惑の主犯たる学会と、これを糺した妙信講が署名し、さらに誑惑に与同した宗務当局が立ち会い、そして細井管長のもとへ収めたものであれば、誑惑訂正の全宗門的合意を意味していた。まさに学会の圧力から“猊座”をお守りしたものであった」(日蓮大聖人の仏法)と、妙信講が云うのは当然でありましょう。
そして「確認書」に対する“違約”について、後に山崎氏はその著書の中でこう語ったのでした。『創価学会から森田、秋谷両副会長らが出て、東京都宗務課に提出した回答書のことは伏せたまま、妙信講の浅井父子と話し合い、「現時点において、正本堂を“事の戒壇”と断定しない」ということで妥協した。しかし、その後も、創価学会側では、「正本堂は民衆立の戒壇であり、その完成は、日蓮大聖人御遺命の事の戒壇の建立である」という趣旨の表現を改めなかった。そのため正本堂落慶間近の昭和四十七年初頭より、再び妙信講が日蓮正宗宗務院と創価学会に対し、行動を開始したのであった』(盗聴教団)と 。
『浅井らは、「昭和四十三年九月、学会側は妙信講の言い分を容れて確認書を作った。しかし、これに違約した」とさかんに宣伝しています。しかし、これも歪曲はなはだしいことです』の言こそ、歪曲はなはだしいと云うべきでしょう。
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