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             破邪新聞 昭和五十年一月二十四日号 (第4号)

             特集 妙信講 デマと歪曲の数々
    特集4 いわゆる十月三日、聖教新聞の訂正記事云々について

 浅井らは「昭和四十七年九月学会代表と話合った結果学会側が非を認め、同年十月三日号の聖教新聞紙上の理事長談話で訂正記事を出した」勝った勝ったと宣伝しております。
 しかし、この記事をみても、どこが訂正なのか、どの点で妙信講が勝ったのか、はなはだ理解に苦しみます。
 この点について、事に当った学会幹部の話をもとにまとめると、次のとおりです。

  「 猊下の意を体した宗務院の指示のもとに、昭和四十七年九月十三日から九月二十八日までの間に前後七回にわたり、学会幹部が浅井父子を説得しました。学会側の必死の説得にもかかわらず、浅井父子は、自説を執拗にくりかえし、もし容れられなければ、妙信講の青年部を動員して、暴力で、御遷座を阻止し、正本堂落慶法要を血でよごすと脅迫をつづけました。しかし、こうした不当な暴力に対して学会側の一歩もひかない姿勢とねばり強い説得で浅井らは次第に折れてきました。

 結局、双方合意の上で次のような報告書を猊下に提出し、一応の解決をみたのであります。(この報告書は猊下のお手もとにあります)

   御報告
 内事部の通達にもとづいて、創価学会及び妙信講は去る九月十三日以来会談をつづけましたが、ここにその御報告をいたします。
                
) 三大秘法抄、一期弘法抄の解釈については、双方に見解の相違があり一致するに至らなかったので、今後折をみて更に誠意を持って話し合う。
) 広布達成、御遺命達成の如何については創価学会機関紙上に、未来にわたることである旨を明記した論文(但し、一の点については双方の意見の相違を考慮してふれない)を掲載する。
) 正本堂の落慶に伴う儀式については、総本山の行事であり、信徒としては干渉しない。
) この会議の内容については一切公表しない。
) 今後双方一致して広宣流布をめざして戦う。
 以上の通りでございますので、総本山におかれましても私共の意中をおくみ戴き宜しくお取りはからい下さいますようお願い申し上げます。

  昭和四十七年九月二十八日 
                        秋谷栄之助
                        浅井甚兵衛

 既に、広布達成、完結ということが未来のことであるが、その時には、正本堂が、本門寺の戒壇堂、即ち、御遺命の戒壇たるべき大殿堂であることは、訓諭に示されており、御報告の第二項は、そのことを確認したのにすぎません。
 とにかく、宗門の公式決定を守られ、又、正本堂落慶法要も、大成功裏につつがなく終えられたことは幸いなことでありました。
 なお、浅井らは、この説得により、創価学会の総本山に対する忠誠をよく理解し“今後戒壇論について教義上論議し合うことはつづけても、圧力をかけたとか、訓静を曲げたとかいったような信徒相互に傷つけあうような形のけんかは絶対にしない”と約束したという報告を受けております。

 又、次に話合うときまで、混乱をさけるため互いに戒壇について主張をしないことを約束した上で“この報告書のような解決では、これまで講中をあおりつづけてここまで来たのに拍子抜けの感になり、ふり上げたこぶしの下ろし場所がなくて何とも説明がつかない。従って一度だけ勝った勝ったという話しで講中に報告するので目をつむっていてほしい”という浅井からの申出を、さわぎを起こさず解決するためにはやむを得ないということで、学会側は無視することにしたとのことです。この経過を見ても、明らかなとおり、学会側が涙を流して手をついて謝ったなどというのはウソであり、むしろ、浅井の方こそ、最後の段階で興奮して取みだし、涙ぐんだりすることがあったということです。

 これらの経緯は、互いに口外しない、という申し合わせでしたが、浅井の側において、信義をふみにじり、既に事実を曲げて話している約束違反があるので、それに対応する範囲で、学会側の当事者が公表を認められたものです。いわゆる十月一日付の和泉理事長談話は、こうした経過の上でなされたもので、その内容は、一読すれは明らかなとおり、国立戒壇を認めたことでもなければ、訓諭に述べられた正本堂の意義を否定したものでもありません。これをみても、浅井の云うことが、歪曲と欺瞞にみちたものであるかが明らかであります。その後しばらくの間、浅井らは、学会幹部と定期的に連絡会談をもつことにより、比較的平静にしておりました。(以上、宗務院発行パンフレットより)

 以上明らかな如く、双方の意見の違いがあることも認め合って、今後話し合いをしようと決めたので、それが何で妙信講の云い分を認めたことになるのでしょうか。おそらく当時浅井らは、正本堂落慶をもって、そのままただちに御遺命の達成、本門戒壇の建立と宣言されるのではないかと錯覚しておったようで、何としてもこのことを防ぎ、ひとまず建物はできても意義の上での達成は未来に属する、ということをはっきりさせることで、勝負は先にしよう、と考えていたようです。

 しかし、訓諭でも、その後の猊下の御指南でも明らかなとおり、宗門の方針は一貫しており、浅井さんの思惑は邪すいでしかありません。
 そして、この訓諭の線を再確認したのが、十月三日付の聖教新開の理事長談話であり、そのものをよめば、浅井らの歪曲はおのずからあきらかになります。この談話に正本堂とは別に建物をたてるとか、国立を認めたという語は一語もありません。

 和泉理事長談話の一部
 「大聖人の仏法は、本因妙の仏法である。全民衆を救おうとの大聖人の大精神に立つならば、現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は、なお未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。ゆえに正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、ご遺命は達成してしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。また、この正本堂には信心強盛の人のみがここに集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって、正本堂は広宜流布のその日まで信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない。」


 
 どこが訂正なのかとは、『
これまで学会は正本堂を指して「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇」といい、この建立を以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と云い続けてきた。今その誑惑を、自ら「誤りである」と明言したのである。また「正本堂には信心強盛の人のみが…」以下は、正本堂を奉安殿の延長と規定したものである。明確な訂正であった 』ということでした。

 「双方の意見の違いがあることも認め合って、今後話し合いをしようと決めた」ということこそ、正本堂をして三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇とは決しないということでありました。
 しかし破廉恥にも池田会長は、
正本堂落慶奉告大法要の後、下山のバスの乗客に池田先生の伝言として 「
本日、七百年前の日蓮大聖人の御遣命が達成されました。ありがとう」と伝えさせたのでした。



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「 冨士大石寺顕正会の基礎知識 」サイト運営責任者 櫻川 忠