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第十三回寺族同心会大会 細井管長説法
( 国家権力に依らず仏法を弘む )
(略)そこで桓武天皇が新しい仏教、即ち伝教大師の仏教をもって国を治めて行こうと云うことをお考えになったと思われます。その伝教大師を大いに採用して京都に新しい菰を作るとともに伝教大師の法華経を大いに盛んにしたのでございます。
そういうふうに昔に於いても仏教は国法に依って護られて来たのでございます。
明治に於いて国家勢力が盛んになったならば、仏教もその国力に依って勢力を盛んにして行こうとした。然し明治の初年に於いては、あまり徳川時代の末期に於いてやはり僧侶が堕落し寺院もみな堕落しておった為に、この仏教を抑えて新しくキリスト教を入れて盛んにし仏教を抑えて行こうとした。
それは勿論、為政者の働きである。その前にも有名な織田信長の政策がそうでありました。比叡山や興福寺等の勢力を抑える為に、あのキリスト教を盛んにせしめようとして仏教の寺院を焼払った。
これは皆宗教は国法に依って国家権力に依って利用されておる。だから我々がその国の力を得、仏法を盛んにしようとすれば易い様だけれども非常に後に弊害が残るのであります。明治時代には国立戒壇と云うことを盛んに言って布教してきた。今日になると、それが却って弊害になって来ております。
大聖人様は「仏法を国王に付す故に、国王に依って仏法は弘まるべし、然し国王に依らずとも仏法は弘まることがある。然しその時は大難がある」と、こう云う事を御書に書いてあります。今何の御書であるかはちょっと覚えていませんが、そう云うふうに国家権力だけに頼って仏法を布教する事は易い様だけれども、また後の弊害が恐しい。この国家権力に依らず仏法を弘むる時は、始め色々の苦難があっても必ず弘まるのである。此処に力を入れて考えなければならないのであります。
故に我々は今迄国立戒壇だとか云うふうな考えを捨てて国の為の仏法でなく、仏法は全ての人々の為の仏法である。総ての民族の為の仏法である。こう云うふうな生き方からして説いて行く時には必ず民が盛んになる。世界の国々がみな盛んになって行く事は当然であります。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )
織田信長が「キリスト教を盛んにせしめようとして仏教の寺院を焼払った」という、細井管長の歴史観はどうかと思いますが、それはさておき..。
細井管長は国立戒壇を否定するため、ここでとんでもない詭弁を弄されるのでした。国立戒壇とは、「国家権力だけに頼って仏法を布教する事」であり、それは「また後の弊害が恐しい」と。そして、「国家権力に依らず仏法を弘む」べきであり、故に「明治時代には国立戒壇と云うことを盛んに言って布教してきた。今日になると、それが却って弊害に」なったのだ、と。
正系門家貫首の、このような支離滅裂の強弁を聞くこと、富士門徒として悲しくつらいというのほかはありません。
武家・諸侯が実力・武力を以て国を盗り・治めた幕末までの時代と、憲法と選挙制度が確立した明治以後の時代とでは、国家意志の決定プロセスが全く異なることは、自明でありましょう。勅宣・御教書を以て国家的に戒壇を建立するためには、明治以前は将軍・天皇の帰依が不可欠でしたが、明治以後はその前提としてまず大多数の国民の帰依が不可欠となったのでありました。明治時代に、細井管長が述べられるような「国家権力」によって布教しようとした大石寺僧俗が、いったいどこにいたというのだろうか。
しかるに富士門家においてなを、広宣流布のあまりの困難さから「七百年近くの間、ただ夢のごとく言いならされてきて、大部分は単なる理想境とし、実現不可能事とせられ」(戸田会長、大白蓮華 昭和三十一年四月一日)ていたのでありました。
そして先の昭和の大戦の悲惨を経て、国立戒壇の建立を「日蓮門下の重大使命」と論じ「創価学会の唯一の大目的」と号令し「具体的なタイム・テーブルの上にのせた」のは、明治の御代などではなくして、わたしたちの記憶にいまだ新しい在家の指導者・戸田創価学会会長であったことでした。
この歴たる事実を見ぬふりをして、国立戒壇をして明治時代の「国家権力だけに頼って仏法を布教する事」などと貶めること、悲しくも幼稚・粗忽の言辞でありましょう。
細井管長果たして、戸田会長の「以上、国立戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命であることを論じた。しかし、重大使命であるとしても、もし国立戒壇が、現在の状態で建立されたとしたら、どんな結果になるであろうか。一般大衆は無信仰であり、無理解である。単に国家がこれを尊重するとするならば、現今の皇太神宮や、明治神宮のごとき扱いを受けるであろう。しからば、『かかる日蓮を用いぬるとも、あしくうやまはば国亡ぶべし』とのご聖言のように、国に災難がおこるであろう。ゆえに、国立戒壇建立の大前提として、本尊流布が徹底的になされなければならぬ。日本全国の津々浦々まで、この御本尊が流布せられ、知識階級に深刻なる理解を持たせねばならぬ」との血を吐くような言明を、直視なされることができたでありましょうか。
(
平成十四年六月十九日、櫻川
記 )
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