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国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( “時の最高権力者”に対して諌暁せよ )
しかし、このような考えが逆に、現代において戒壇建立を想定するとき、大聖人当時のような天皇制や幕府体制が存在しなければならない根拠は決してありえないと信ずる。
およそ仏教教義には、純粋な真理、教法、修行等の成仏に関する部分と、社会現象との相関関係にある部分とが存在する。注意すべきは、後者、即ち、社会現象とのかかわり合いのある部分であって、外的な条件の変化によって、そこにはおのずから一線が引かれなくてはならない場合があるということである。
例えば、大聖人は、時の最高権力者である皇室や執権に対して諌晩あそばされた。現代において我々が、大聖人の御遺命どおり国家諌暁を行なわんとするとき、皇室や執権を相手にしなくてはならないと考えるのが時代錯誤の論であることは、だれでも納得するであろう。
第一執権などは既に存在しないし、皇室は、新憲法下では主権者たる立場ではない。正しく解するならば、大聖人の御正意は、“時の最高権力者”に対して諌暁せよということであって、“最高権力者は誰でなくてはならない”ということまでは規定しようとされていない。
そして、今日、最高権力者は、主権者である国民であることは論をまたない。つまり、国民一人一人への折伏こそ、現代における国家諌暁たるゆえんである。時の最高権力者の地位を占めるものが皇室か幕府か国民か、あるいは自由主義者が天下をとるか、社会主義者が政権をとるかということは、仏法の本質とは何らかかわり合いのない純然たる政治の世界で決まるべきことである。
大聖人の仏法として関心を持つべきは、これら最高権力者が妙法を信仰し尊崇し、これを根底として行動を行なうという点につきるのである。もしそうでなければ、最高の俗間を超えた次元にある仏法が、低次元の政治によって規定され、支配される結果となるであろう。又、特定の権力機構や政治体制を認めないものは、信仰できないということになる。
かかる政治上の信条如何により御本仏への純粋なる信仰を妨げることは、仏法の普遍妥当性、万民救済という本質をねじまげる結果となろう。御在世当時の最高権力者が皇室であったから、大聖人はこれを国主、或いは王と呼ばれたのであって、いつの時代も永久に、そうであるべきだということまで規定をされたのではないのである。
たしかに、「外的な条件の変化によって、そこにはおのずから一線が引かれなくてはならない場合がある」というのは、そのとおりでありましょう。そしてもちろん、いまは「執権などは既に存在しない」ことでした。
さて、阿部教学部長は「大聖人の御正意は、“時の最高権力者”に対して諌暁せよということ」だ、と主張するのでした。そして「最高権力者は、主権者である国民であることは論をまたない。つまり、国民一人一人への折伏こそ、現代における国家諌暁」なのだ、と。
一見・なにげにもっともらしく聞こえることですが、論理の短絡の“謂いよう”でありましょう。阿部教学部長ご自身にして、自らが“主権者である国民”であればまさしく“時の最高権力者”なのであって、それならば“時の最高権力者”たるご自身に対して諌暁をなされるがよろしいでしょう。
歴史的に形成された主権概念には、様々のフェーズがあることは後に詳しく見ることになりますが、国家の体制がどうであれ“統治主権”と“国民主権”とは「そこにはおのずから一線が引かれなくてはならない」こと、でありましょう。その両者を<同一視>し、“最高権力者は主権者である国民”なのだという“短絡的”な阿部教学部長の思考は、国家の本質にくらいことを自ら白状していることでした。
”最高”ということは、他の”諸高”をさしおくが故に「最高」なのでありましょう。大聖人は「国主は但一人なり、二人となれば国土おだやかならず、家に二の主あれば其の家必ずやぶる」(報恩抄)と述べられて、阿部教学部長のような短絡的な思考とは無縁でありました。
たとえばサンフランシスコ講和条約は、日本全権代表たる当時の吉田茂首相がこれに調印し、締結されたのでした。そして国家間の条約が結ばれた以上、それはすべての国民を規制・拘束するものでありました。阿部教学部長ひとり、種々の政治的プロセスを無視して短絡的に国民たるわたしは“最高権力者”だといくら強弁しても、最高権力者として国家意志を代表するの人でないことは、自明でありましょう。
日蓮大聖人の仏法は、「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」(諸法実相抄)であって、個人救済のフェーズがまずは前面に出ることでしたが、必ず「剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(同)であり、最終的には「三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法」(三大秘法抄)に帰結することでありました。
大聖人の時代は、北条幕府が事実上“時の最高権力者”でありましたが、大聖人は国家諌暁と同時に四条殿・富木殿を始め武士や百姓に至るまで「二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり」と、折伏・弘通の手を休めることはありませんでした。しかし、庶民・民衆への折伏・弘通と最高権力者への諌暁を、阿部教学部長はあえて“混同”してみせては、今日における諌暁の意義を亡失せんとするのでありました。
「日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん」時、はじめて「勅宣ならびに御教書」たる国家意志の発動を以て「本門の戒壇」を建立せよ。それまでは決して建ててはならぬ、それが大聖人の御遺命だったのではなかったでしょうか。しかるに阿部教学部長は創価学会による政府照会への回答を助け、宗門としてそれをオーソライズするため正本堂を御遺命の「本門の戒壇」なのだと云いくるめんと、さまざまな詭弁を弄しては“短絡的”な論理を以て、御遺命の戒壇を国家とは無縁の“民衆立”だと強弁するのでした。
そして、人類の叡智のたまものであったはずの今日の“政治体制”をして「低次元の政治」だと貶めては、先にあれほど主張した“最高権力者は主権者である国民”だという言説と、支離滅裂の不整合を来すのでありました。
( 平成十五年一月二十七日、櫻川
記 )
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