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    国立戒壇論の誤りについて

 
四、国立戒壇論における国家観の誤謬

  (
他義をまじえず 大聖人の御真意を

 また大聖人ご自身も必ずしも天皇のみではなく、時の北条幕府の最高権力者をも王、国主と呼ばれているように固定化して表現されていないことにも注目すべきである。
 我々は、かかる原則の上で、今、まさに戒壇建立を夢物語ではなく現実の問題として、具体的にその性格や次第を論ずべき立場にあるのである。

 この場合仏法の解釈としては
他義をまじえず、あくまで大聖人の御真意を誤まってはならない。また、対象となる社会は、(もちろん未来への展望をはらんだ意味での)あくまで現実の社会を認識しなくてはならないのである。
 広宣流布のときは鎌倉時代の封建体制や、明治憲法の君主主義を復活せよなどという主張は、時代認識を誤っているということの他に、大聖人の仏法の教義に、それ以外の要素を持ちこんで教義とするということであり、大変な誤りとなる。この点、御法主上人の深い御内証としての、四月二十八日の訓諭を拝さなくてはならないと考える。

 以上述べたところから明らかなように、過去において、ばく然と抽象的に述べられた国立戒壇の論議は、その時代や社会体制を背景として考えられ得る戒壇について、宗教的願望として述べられたものであって、(時代背景と思潮について、多少のずれがありうる。いわゆる下からの主体的変革のときは、思潮が時代に先行するが、他から与えられた形での変革では、変革後も前代の思潮がしばらく残存する。戦後しばらくの間、国立戒壇の考え方が残っていたのも敗戦による他動的な変革の故に、明治憲法的感覚が残存したものであろう)
 それが後代の政治体制のあり方までを拘束するものではないということである。まして、戒壇の現実的考察がこれによって規定されるものではない。



 まさしく、「
仏法の解釈としては他義をまじえず、あくまで大聖人の御真意を誤まってはならない」ということこそ、重要な“問題”なのでありました。この<明言>は後々おおいに、引用・活用をさせていただくことになるでしょう。
 阿部教学部長ご自身は、日本国憲法という<他義>を基として(まじえて)大聖人の御抄・御遺命を解釈し、もしや“大聖人の御真意を誤まって”はいなかったでしょうか。この点は今後さらに、じっくりと検証をしていきましょう。

 はてさて、「広宣流布のときは鎌倉時代の封建体制や、明治憲法の君主主義を復活せよ」などという“夢物語”の主張を、どこの誰がしているというのでしょうか。誰も言っていない言説をでっちあげて、“時代認識を誤っている”などと否定してみて、いったい何になるのでしょう。まさかそんな見当違いな論理で、国立戒壇を否定しているつもりに、もしやなってでもいるのでしょうか。

 「戦後しばらくの間、国立戒壇の考え方が残っていたのも敗戦による他動的な変革の故に、明治憲法的感覚が残存したもの」なる阿部教学部長の“言辞”は、まことに見えすいた、ゴマカシの謂いようでありましょう。
 「敗戦による他動的な変革の故に、明治憲法的感覚が残存」などとは、いったいどんな証拠・論拠を以てして言い得るのでしょう。その“明治憲法的感覚”の払拭と「思想改造」のため、占領統治下におけるGHQの検閲・統制は、きわめて過酷なものでした。GHQは歴史教科書に墨をぬらせ・自虐史観を植え付け、極東軍事裁判・憲法授与等の具体的施策をもって、“明治憲法的感覚”たる「国家神道・国体思想」の排除をすみやかにほぼ完璧に遂行し、国家総動員の苦難の戦時体制から解放されたと実感した国民もまたそれを歓迎し、“明治憲法的感覚”たる国体思想」などたちどころに雲散霧消したことでありました。

 阿部教学部長が宣説する「敗戦による他動的な変革」や「明治憲法的感覚が残存」といった根拠薄弱な理由による、「戦後しばらくの間、国立戒壇の考え方が残っていた」などという架空の“
ストーリー”は、とうてい成立しえないことでしょう。
 むしろ大聖人の御遺命を<重し>として、「ばく然と抽象的」に「七百年近くの間・ただ夢のごとく」に述べられてきた、「広宣流布・国立戒壇建立」を「どうすれば広宣流布ができるのか」と問い、「やさしい仕事では断じてない」と承知した上であえて「国立戒壇建立」を掲げて実践した人こそ誰あろう、“戦後”に立ち上がった創価学会・戸田会長であったことでした。

 「
こうした同宗の戒壇論を、具体的なタイム・テーブルの上にのせたのは戸田であった」とは、西山 茂・東洋大学教授の指摘(「教義解釈の変更をめぐる一仏教教団の葛藤過程」)するところでした。かの智学居士の「国体」と関連して論じられた“国立戒壇論”にしても、いまだ・はるか遠き“夢”にすぎませんでした。しかして、大聖人滅後・はじめて「広宣流布・国立戒壇建立」に向けて、本格的・現実的・具体的に論じ・かつ実践した“仏弟子”こそはまさしく戸田会長その人であり、そして戸田会長没後の一時期における池田会長であったことでした。
 たしかな“歴史的事実”を踏まえてみるならば、阿部教学部長の「戦後しばらくの間、国立戒壇の考え方が残っていた」などという“空想的”・“でっちあげ”の釈明は、なんとも“無理筋”の謂いようでありましょう。

 加えて述べておけば、宗門が「国立戒壇放棄」なる・いわゆる“公式宣言”をしたのは、政府から“御遺命の戒壇”について諮問・照会されるという、“千載一遇”ともいうべき機会であった昭和四十五年のことでした。昭和四十五年と言えばすでに戦後から、はるか四半世紀を過ぎた時代であったことでした。それはいくらなんでも、「戦後しばらくの間」などという期間では、もはやありますまい。
 阿部教学部長こそ、戦後から四半世紀を過ぎた昭和四十五年五月という・まさに“その時”において、それまで「国立戒壇の建立 こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願」、「真の世界平和は国立戒壇の建設にあり」と声を大にして叫んできた宗門が、何故にして突如「明治憲法的感覚の残存」だと正反対に方向転換したのか、その「評価軸変更」の事情・経緯をでっちあげの釈明などでなく、しかと説明・開示すべきでありましょう。

                          ( 平成十五年一月三十日、櫻川 記 )


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