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国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( “国民主権”の内容はきわめて複雑 )
しかしながら現代の民主主義社会をみると、単にそれは主権者が交替したというだけではなく、権力構造、社会構造そのものに大きな変動があったことを知るべきである。
一口に国民主権といい、民主主義という概念にも、憲法論的なあるべき側面と、政治学ないし社会学的な現にある側面とがある。(以下原田鋼・政治学原論三四四頁より要約)
「国民主権における国民とは何であるか。もとより理念的には、主体的個人の集合概念である。しかし実在論的には、解答は必ずしも単純でない。この意味における国民は、固定的なものでなく分析的にみるならば、国民のすべてではなく、最高の政治意志につらなるものは、限定された選挙民団体であることもあるし、さらに限られた議会構成員であることもあろう。すでに考察した権力構造内の各社会階層も、政策決定過程で主権的な機能を果すことができる。また国民を、主権的な国民の意味において政治的範疇としてかんがえるならば、そこにおける人的な要素が蒸発して、むしろ国家機関としての『議会』となったり、あるいは一層根滞的な、しかもある意味において、一層抽象的な『世論』としてしめされる場合もあろう。のみならずまた、主権的な契機は、一層浮動的な政治力として、あるいはまた、経済力としてもあらわれ、それらが主権的な意志形成に加わってくるであろう。…(中略)…
このように国民主権の内容は、きわめて複雑な実在論的分析をゆるすものである。この点に関するかぎり、主権の帰属点は、カント的な範疇表を使うならば、特称的でなく、全称的である。すなわち主権の帰属点は、基盤社会の状勢変化に応じて、究極において国民主権の理念性を前提としながら、君主、選挙民団体、議会構成員、議会、政党勢力、経済力、最高裁判所、世論、組合勢力等きわめて複雑なものとして分析される」
このような社会構造の複雑化は、当然のこととして、価値観の多様な分化をも来たしている。いわゆる政治権力の枠外に位置している宗教、文化、学問などがこの社会構造の中では重大な影響力をもつようになっているということである。しかも、これらの現象は単に一国内にのみとどまらず、広く国際間においても新著な傾向である。中世国家は、政治権力のみが社会を動かし、統制する力を独占していたといっていい。
阿部教学部長が敬う 「日本国憲法」において、”国民”とはいかなる<概念>で用いられているのでしょうか、見ておきましょう。
第一、国家の構成員としての“国民”、すなわち日本国籍を有する者全員。
第二、主権者としての“国民”、天皇(および皇族)は除く。
第三、国家機関としての“国民”、実質的には有権者。
では、阿部教学部長が引用する原田学説に、すこしく解説・敷衍をしておきましょう。“国民主権”には、二つの性格があると考えられています。
1) 正当性の契機 : 国家権力の正当性の究極の根拠が国民にある
2) 権力性の契機 : 主権者たる国民が国の政治のあり方を最終的に決定する
まず、「正当性の契機」から “国民主権”=“憲法制定権力”とすると、“最高法規”である「憲法」をつくる権力が“国民”にあるということで、“国民主権”の筋が通ります。
しかしながら憲法学者たちの間では、そこに以下のような「問題」が指摘されています。
(1) ひとたび憲法が制定されると、憲法に主権者の意思が封じ込められてしまい、却って“国民主権”にそぐわない。
(2) 憲法が制定された後は、国民・有権者の代表である国会も憲法に拘束され、憲法の破棄もできずして、むしろ“国民主権”にそぐわない。
(3) 上記に従えば、実在する国民多数はむしろ「主権者でない」ということが帰結される。
次に 「権力性の契機」から “国民主権”=“有権者主権”とすると、またしても以下のような問題が指摘されるのでした。
(1) 有権者は公職選挙法で定められ、法律で主権者の範囲が確定されるのは、“国民主権”にそぐわない。
(2) 国民の中に有権者とそうでない者(未成年者等)があり、“国民主権”にそぐわない。
(3) 有権者が選挙で国会議員を選んでも有権者の意思が必ずしも国会に反映されないし、国会に反映されたとしても憲法に違反することはできず、したがって国民の意思が最高ではなく、“国民主権”にそぐわない。
(4) 有権者が選挙によって示す「国民の意思」が憲法をしのぐ“最高の意思”だとすれば、“法秩序”が維持できず“立憲主義”が崩壊する。
こうして“国民主権”の意義は、憲法学者たちによりさまざまな意見が錯綜していて、原田氏が語るように「きわめて複雑」であって、その了解はなかなか容易なことではないのでした。
こうしてみると、阿部教学部長は本書において「王法」を論じては、一貫して”統治主権”を排して“国民主権”を<金科玉条>の如く奉って、安易にも 「今日、最高権力者は、主権者である国民であることは論をまたない」等として来たのでした。しかして、そうした言明の“粗雑さ”が自ら引用した原田説によって、却ってここに浮きぼりにされたことでありました。
さて、阿部教学部長は「価値観の多様な分化」を、今度はことさら強調するのでした。その故は、続いて“仏法の解釈”に「価値観の多様化」という<他義をまじえ>て、さらなる誑惑・韜晦を重ねる為でありました。
( 平成十五年二月二十七日、櫻川
記 )
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