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    国立戒壇論の誤りについて

 
五、世界的宗教としての仏法

  (
国教論や国立戒壇をのべることは時代錯誤

 それが果して仏教の精神であり大聖人の御本意であろうか。いな大聖人の御正意も立正安国論の趣意も決してそうではない。大聖人当時は為政者自身が邪教を保護し信仰し肩入れをしていた為に、先ずその謗施を止めしめるべく諌暁を加えられたのである。

 しかるに現在は当時と全く様相が異なり、為政者が公人として特定の宗教を保護することは憲法によって禁じられている。また主権者の意志によっての謗法禁断は全く不可能な状態である。かかる場合その表面相の一部のみをとって国教論や国立戒壇をのべることは、時代錯誤であり、まさに舷(ふなばた)に刻するに異ならないのである。

 再び言う。日蓮大聖人の仏法は世界民衆救済の宗教である。撰時抄には「
彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国国に八万の王あり、王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(全二五八)と世界広布の大確信が示されている。また法華取要抄に「是くの如く国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からんものか」(全三三八)
 また波木井三郎殿御返事に「
然りと雖も本門の教主の寺塔、地涌千界の菩薩の別に授与したもう所の妙法蓮華経の五字未だ之を弘通せず(中略)当に知るべし残る所の本門の教主・妙法の五字一閻浮提に流布せんこと疑い無き者か」(全一三七二)等の鳳詔を拝する。

 まさに真の世界宗教としての下種仏法の意義を明示あそばされたものであろう。すなわちあらゆる人種と国境を超越し、主義や思想の対立を止揚して一切の世界民衆が救済されて行く大仏法である。人間生命の本源的な改革をもたらし、真の幸福を教導する大宗教である。しかる故にこそ日本において、国教とか国立とかいう如く一国の殻にとじこもる考え方は世界各国における妙法広布を阻害するものに外ならない。

 その理由はかかる国家的宗教に対する各国の危惧と嫌悪を招来することが火をみるより明らかだからである。権力に依存するのでなくたゆまざる折伏教化によって、一人より一人と、人間本来具わる正信を湧現せしむることこそ正法弘通の本来の姿である。しかも、今正に世界広布の時が来ておる。本仏大聖人の三大秘法は世界に流布し、海外数十万の民衆が歓喜に燃えて信仰に励んでいる。終戦前において何人が此の姿を想像しえたであろうか。そして一昨年五月三日の猊下の御宣言こそ、かかる事態を背景とされての一閻浮提広宣流布の方略を大きく決定あそばされたものと拝すべきである。



 「王法イコール政治をふくむあらゆる社会生活の原理」だ、とさんざん持論を主張してきた阿部教学部長でしたが、ここでは大聖人当時の”為政者”やら現在の“為政者”等、と述べるのでした。この“為政者”を「王法」の意義で用いているのだとすれば“人”がイコール“原理”であるはずもないことでしょう。
 その場しのぎのコジツケで<他義をまじえ>て、大聖人の御抄の意義を歪曲して来た阿部教学部長の論理は、随所で一貫性を欠いて自ら破綻していることでした。

 ではここで 「国教」と「国立」の問題について、すこしく見ておきましょう。
阿部教学部長は、大聖人の日本国一同に日蓮が弟子檀那と為り」(諸人御返事)、「日本国一時に信ずる事あるべし」(上野殿御返事)の厳たる仰せを、いったい信用するのでしょうか・しないのでしょうか。もし信用するなら、一国同帰の暁において・なを他の諸国に遠慮して敢えてわが国の「国教」としての受納を拒むというのは、怯懦の人でありましょう。
 もし「一国同帰」が信用できないなら、いわんや「
その国国に八万の王あり、王王ごとに臣下並びに万民までも(略)広宣流布せさせ給うべきなり」(撰時抄)や「一閻浮提に流布せんこと疑い無き者か」(波木井三郎殿御返事)の「一閻浮提同帰」をして、どうして信用できましょう。こうして阿部教学部長の「仏教は世界宗教」なる主張は支離滅裂を来し、赫赫たる大聖人の「一閻浮提同帰」の言葉を、ただの「世界宗教」としか理解できないのでありました。

 大聖人の仰せは、その他にも速に実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰んや」(立正安国論)、「法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか」(撰時抄)、「日本乃至漢土月氏一閻浮提に、人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」(報恩抄)、「本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱えさせ給う」(下山御消息)、「妙法蓮華経の五字、末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき」(種種御振舞御書)、「此の人末法に出現して、妙法蓮華経の五字を一閻浮提の中・国ごと人ごとに弘むべし」(妙密上人御消息)と。「日本国並びに一閻浮提に広宣流布」との言葉は、枚挙に暇がありません。

 一閻浮提の国々(八万の国々・王々)が、自国と自国民の繁栄の為に三大秘法に帰依するか否かは、またそれぞれの国・国民が自ら決めることでありましょう。「日本において、国教とか国立とかいう如く一国の殻にとじこもる考え方は世界各国における妙法広布を阻害」や「各国の危惧と嫌悪を招来」などという阿部教学部長の主張は、一閻浮提の国々が大聖人の仏法に帰依し国教にしても、最後まで日本国だけは仏法に帰依してはならず国教にしてもならないという、異様な事態に帰着するところとなりましょう。
 阿部教学部長のそのような異常な配慮こそ、
却って宗祖・大聖人の三大秘法の“法を下げる”ことでありましょう。

 かかる誑惑以前の宗門においては、日淳師は「真に国家の現状を憂うる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮、昭和32年1月号)と指南され、戸田会長また「日蓮正宗を国教として、天皇も帰依して戒壇を建立するようになった場合、戒壇の御本尊さまを、どこの宗派がだせるか。(略)シシン殿御本尊さまを、どこの宗派が天皇にさしあげられるか」(大白蓮華、昭和35年1月号)と。
 一閻浮提の一切衆生に授与された、無上宝聚・不求自得の大法たる「戒壇の本尊」を守護し奉ることこそ、三大秘法・有縁の日本国の使命であり、「守護付嘱」に中るのでありましょう。「
是の故に諸の国王に付嘱して、比丘・比丘尼に付嘱せず。何を以ての故に、王の威力無ければなり」(立正安国論)と。もし「国教」や「国立」の意義を誤解する“外道の人”あれば、阿部教学部長こそ堂々と日本国民の為だけでなく「三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法」(三大秘法禀承事)たる意義を、むしろ説くべきの任にあったのでした。

 しかして、このとき真摯に阿部教学部長が<問題提起>すべきだったことは、いかなる宗教と雖も“国教”となったなら、それは必ず“機関”・“制度”となり “官僚化”し“自己目的化”し、やがて“精神的枯渇”に至るという指摘(自己批判)であったことでしょう。さらにまた 「
権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」(J・E・アクトン)ということ、でもありました。
 “暴力装置”であり“抑圧装置”でもある「王法」が“聖なる”「宗教」と冥合し、批判の許されぬ「絶対的権威」に支えられた「絶対的権力」と化したとき、やがてこの世に“収容所列島”等の<悲惨>が現前するであろうことを、人は歴史から学んできたはずでありました。「国教」・「国立」の論議に於いて、この<難題>を如何にして回避し得るのか。もし阿部教学部長がそう<問い>得たならば、宗内においてあるいは意義ある議論がなされたことかもしれません。

 近代国家はこうした“権力の腐敗”をあらかじめ前提して、腐敗を構造的に防ぐ制度として「三権分立制」を採用したのでした。しかしながら、この「三権」とても所詮は“国家権力”に他ならないのであって、そこにあっては癒着・腐敗・官僚化・自己目的化・独善化から、ついには免れ難いことでありました。そして権力の腐敗”とは“国家権力”に限ったことでなく、また”宗教権力”においてもまったく同様の“事態”だったのでありました。
 そうした“権力の腐敗”をかろうじて牽制する<役割>をにない得るかもしれない<何か>とは、あるいは“NPO”であり、あるいはまたこうした<サイト>を含む“各種メディア”、なのでありましょう。

                          ( 平成十五年三月十二日、櫻川 記 )


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