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国立戒壇論の誤りについて
六、三大秘法抄の戒壇の文意
( 「王臣一同」とは今日では「民衆一同」 )
また今日、王仏冥合は、境智冥合と同じように、冥合で一つの熟語と考えることも可能である。というのは、一般的にも冥合で一つの熟語を形成していたと思われるからである。
大漢和辞典(諸橋轍次著)には、冥合とは「ふかく合一する」とある。
すなわち、この立場からいえば、王法と仏法とが深く合一することが、王仏冥合である。深く合一するとは、生命の奥深い所で合一するということで、仏法がそのまま生の形で王法にあらわれてくることではない。
それは、仏法が仏法の使命に生き、王法が、その理想実現に専心していくとき、結果として自然に冥合するということなのである。したがって、今日、王仏冥合と政教分離とが抵触するものでないことは明白である。いずれにせよかかる冥合の文意において国立なる趣旨は全く見出しえない。
この「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」は“法”について述べられたものであるが、どうしてもそれを推進していくには“人”が大切である。そこで次に「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」と仰せられたと拝するものである。
王法が仏法に冥ずるためには、王法の当事者が妙法を持たなくてはならない。そうしなければ、その当事者の生命の内に慈悲の顕現がないからである。しかし、今日、王法の当事者は、詮ずるところ民衆一人一人であり、その一人一人が三大秘法の仏法を持っていく必要がある。また仏法が王法に合するためには、当然、妙法を持った人の社会での活躍が必須の条件である。
すなわち「王臣一同」が「三秘密の法を持つ」ことが、王仏冥合の絶対の条件であることがここに明らかである。
この「王臣一同」ということであるが、現代では、民衆が王であるとともに臣である。ゆえに「民衆一同」と読むのが、今日では正しいのである。
この王ということについて、現法主日達上人は、世間儀典的(即ち世間法)からいえば転輪聖王の出現と申されている。転輪聖王とは武力によらず、計り知れぬ知力と思想ならびに無限の徳をもって、戦わずして世界を平定する王といわれる。また信心内感的(即ち出世間法の信感)からいえば、正法を受持する民衆との意と承るところである。
すなわち、今日信心実践の上から転輪聖王とは、武力、権力によらず哲学の力、慈悲の力、智慧の力で、時代をリードする民衆連帯の力であるといえる。
阿部教学部長はここで、”「王臣一同」を「民衆一同」と読むのが今日では正しい”と、断定します。
ところで阿部教学部長は、得々として 「仏教は本来が世界的宗教なのである。(略)一国一地に執われることなく、より自由により正大に伝道救済へ進む性格を有つ」と、つい先ほどまで自ら述べていたことを、ここではすっかりお忘れのようでありました。
当時の世界情勢は“東西冷戦”の最中であって、眼前の事件として昭和四十五年三月三十一日には、満員の日本航空ボーイング727ジェット旅客機 「よど号」(羽田発・福岡行き351便、乗員7名・乗客131名)が、9人の赤軍派兵士にハイジャックされるという事件があったばかりでした。横田めぐみさんが北朝鮮工作員に拉致・誘拐されたのは、それから七年後の昭和五十二年のことでありました。
まかり間違えば米ソ両陣営が、互いに核ミサイルを撃ち合うかもしれないという世界情勢もそ知らぬ体で、阿部教学部長は<他義>に基づいて仏法を論じては民衆立の正本堂を御遺命の戒壇と誑惑するため、“民衆が王であるとともに臣である。ゆえに「民衆一同」と読む”などと語って憚りません。
これ、「国立」を否定するためには“一国一地に執われるな”と世界を持ち出し、「王臣一同」を否定するためには「民衆一同」と文意を曲解しつつ“世界の民衆一同”からは目を背けて、
一国一地の「宗門未曽有の流行の広布の相顕著なる現在も王仏冥合の時」(後出)とする阿部教学部長の、その場しのぎの“ご都合主義”の面目躍如たる一段でありました。
こうした支離滅裂な詭弁に、一貫している論理はただ一つ。それは、「正本堂が本門戒壇にあたる」とした創価学会の政府への欺瞞回答(昭和四十五年四月二十三日)を、宗門としてなりふりかまわず・どこまでも扶けるべく、“法義歪曲”の<共同正犯>としての確信犯の「論理」に異ならないことでした。
( 平成十五年三月十八日、櫻川
記 )
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