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--- 正本堂の意義に就て ---
“一期弘法抄の意義を含む”の世間儀典的解釈
大体儀典的というのは、儀式礼典と考えて下さればいいんです。先ず、一期弘法抄に、「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と、仰せになっており、また、三大秘法抄には、「戒壇とは王法仏法に冥じ、仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、云云」と、こう説かれております。
これを先ず、第一の世間儀典的に考えますと、この国王とは誰を指すかということが問題になってきておるのであります。
勿論、大聖人様の時代、また大聖人様の御書において、国主とは京都の天皇も指しておりますし、或いはまた、鎌倉幕府の北条家を指しておる場合もございます。
で、今、この国主と申して、三秘抄並びに一期弘法抄の国主或いは王という言葉は、直ちに日本の天皇陛下と断定することが出来るでありましょうか。なかなかそう断定できないはずであります。
ある人は、三秘抄に「勅宣並に御教書を」という言葉があるから“天皇”だと、こう即座に考える人があります。
しかし、本来、この勅宣という言葉は日本だけの言葉ではなく、即ち中国から来た言葉で、中国の皇帝に対して、皆、勅宣という言葉を使うのでありまして、この勅宣という言葉があるからして、日本の天皇だと断定することはできないのであります。
また、大聖人様は「仏勅」とこう申します。仏の言葉を仏勅と申しております。或は関目抄に宝塔品の三箇の大衆唱慕のところに第一勅宣という言葉をお使いになっております。仏の言葉をもっても勅宣という。必ずしも勅宣という言葉は、日本の天皇陛下だけだと、こう断定するのは、ちょっと早すぎるのではないかと思います。
又、三秘抄の王という言葉をもって、日本の天皇と断定しているのは、結局は明治時代、勿論大正、昭和の初めにかけてもですけれども、国立戒壇という考えの上から、こういう言葉が出たものと思います。
ところが、我が宗では真実をいうと、古来から広宣流布の時の国王は転輪聖王である。しかも転輪聖王の内の最高の金輪聖王である、金の転輪聖王である。こう相伝しておるのでこざいます。
皆様、それを忘れておるかも知れませんが、既に昔からそういうことを相伝しておる。しかし、明治時代以後、それを忘却しておる人が多くなったのでございます。
それ故に、直ちに明治時代に於ては、国立という観念から、この一期弘法抄や三秘抄に於ける王は天皇だと、こう断定してしまったのであります。
この考えは、日本が世界を統一するんだという考えのもとから天皇が転輪聖王だという考えが起ったものではないかと思われるのであります。ところが、御書を拝しますと、王というのは一国の王というのではなく、より高次元の意味で使われております。
北条家に対しては、「僅か小島の主に恐れては閻魔法王の責めを如何せん」という御書もございます。
で、この島の長がどうして一閻浮提広布の時の転輪聖王といえましょうか。なかなか簡単には云えないと思うのであります。
これについて、先程さしあげた − 堀猊下が、日恭上人伝補という、日恭上人の伝を少し書いております。それにこういうことが出ております。「印度の世界創造説は全世界中の各史に勝れて優大な結構であり、又其に伴ふて世界に聞出す転輪聖王の時代と世界と徳力と威力と宝力と眷属との説が又頗る雄大であって、其中に期待する大王は未だ吾等の知る世界の歴史には出現してをらぬ」 広宣流布の時の大王は未だ出て来ない。
「唯僅に彼の阿育王が世界の四分の一を領せる鉄輪王に擬してあるばかりである。仏教では此四輪王の徳力等を菩薩の四十位に対当してあるが、別して大聖人は此中の最大の金輪王の出現を広宣流布の時と云はれている程に、流溢の広宣は吾人の想像も及ばぬ程の雄大さであるが小櫓、躁急の吾人はこれを待ちかねて致って小規模に満足せんとしてをる。(乃至)金輪王には自然の大威徳あって往かず戦はず居ながらにして全須弥界四州の国王人民が信伏する」と、こう出ております。
だから、実際に広宣流布した暁の、国主が天皇だとか、或いは、我々の人民の支配者だと、即座に決定するということは難しい。もっと大きな大理想のもとの転輪聖王を求めておる。
で教行証御書の終りの方に、三行目に「已に地涌の大菩薩・上行出でさせ給いぬ結要の大法亦弘まらせ給うべし、日本・漠土・万国の一切衆生は金輪聖王の出現の先兆の優曇華に値えるなるべし」こう説かれております、
大聖人様が出現して、いよいよ広宣流布になる時には、この金輪王が出現するんだ。その為に、大聖人様がこうこうしておられるのは、金輪聖王の出現のためのお祝いの、優曇華の華に値えるが如くであるということをおっしゃっております。
だからこれらを見ても大聖人様の考えは広布の時には金輪聖王が出現するのである。そして戒壇を建立する。その時には法王は我々の日目上人、一閻浮提の座主日目上人の出現、ということは、本宗の伝統的相伝であります。これを皆な忘れて、簡単に三秘抄或いは一期弘法抄の時の王様は天皇だということをいわれ、それで又、国立戒壇ということをいっておる。それを今、そういう考えを改めて、昔の仏教の精神に返らなければならないと思うのであります。
一期弘法抄の「国主此の法を立てらるれば」の国主を、何とか「天皇ではない」とするために、さまざまなレトリックを駆使しています。
「広宣流布した暁の、国主が天皇だ」と「即座に決定するということは難しい」というのなら、「広宣流布した暁の、国主が天皇でない」と即座に決定することも、また難しいことでしょう。
日淳上人の「勅宣並に御教書とは、勅宣は国王の「みことのり」で、御教書とは当時将軍の令書であります。此れは、国政の衝に当る人より出る教詞と、解すべきであります」の御指南を、よくよく拝すべきでありましょう。
本門戒壇建立は国事中の国事として、国主たる天皇・行政府の大臣の連署により国家意志が表明されることは、従来は宗内において当然とされてきたのであって、細井師自らかつては、「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華三十五年一月号)と述べておられたことでした。
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