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    国立戒壇論の誤りについて

 
六、三大秘法抄の戒壇の文意

  (
「一同」とは 大勢の形容

 「
一同」とは大勢の形容と思う。この一同を日本国一人も残らずの意として固執すべきではなかろう。

 類文として如説修行抄(全五〇二)の 「
法華折伏・破権門理の金言なれば終に権教権門の輩を一人もなくせめおとして法王の家人となし、天下万民・諸乗一仏乗と成って妙法独り繁盛せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風技をならさず雨壌を砕かず、代は義農の代となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん云々」の御文は、「一人もなくせめおとし」と「日本一同に」との関連から、表面的には日本国中謗法者一人もなくとの文勢なり、ニュアンスが受けとれるが、これは本仏の大慈悲であり窮極の理想として堅く信じ奉るところであるが、それと広布の現実をふまえた拝し方は、おのずから階梯が存するのである。

 大慈悲の理想をそのまま信受し奉ることも当然であるとともに、理想の現実化としての広布の実現に邁進して、その現実に徹してゆくことも必然の道理である。一辺のみに囚われるものは真理に通ずるとは云えない。故に一同の文をもって文字通りすべてが、信仰に入らねば戒壇建立をすべからずということがあれば、明らかに守文の徒というべきである。
 又再考するに、大聖人の御書における「
一同」とか「一人もなく」という用例は、実際には“すべて”を意味するものでなく、ある意味を示される場合が殆んどである。

 撰時抄(全二七四) 「
其の上・設い法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにおもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり、此の五十年が間・一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば日本国一人もなく謗法の者となりぬ」 右の「日本国一同」や「一人もなく」の表現は、念仏信仰の盛んな意味をあらわす形容であり、反対者や他の宗旨の者も数多くいたのだから、実数は三分の一にも充たなかったであろう。
 神国王書(全一五一六) 「
百済国の聖明皇・金銅の釈迦仏を渡し奉る、今日本国の上下万人一同に阿弥陀仏と申す此れなり」 この「一同」もすべての人でなく、実際に称したのはごく少数であろう。当時の弥陀信仰の大意をとらえたのである。

 富木殿御書(全九七〇) 「
今・日本国の八宗並びに浄土禅宗等の四衆、上主上上皇より下臣下万民に至るまで皆一人も無く、弘法・慈覚・智証の三大師の末孫壇越なり」 右の「下臣下万民」「一人も無く」東密台密の三大師の末孫壇越との御表現も、実際にかかることではない。その証拠に実際にそうだというなら 前掲・撰時抄や神国王書は「一同に」「一人も無く」法然が弟子等とあり平仄が合わない。真言の教の賑いの意をとっての仰せである。
 本尊問答抄(全三六九) 「
其の後・日本国の諸碩徳等・各智慧高く有るなれども彼の三大師にこえざれば、今・四百余年の間・日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬ」 この一同もその趨勢の意をとっての仰せであり、実際の数値としての意味でないことは明らかであろう。

 治病大小権実連目(全九九七) 「
物部の大連等の諸臣並びに万民等は、一同に此の仏は崇むべからず(乃至)三災七難先代に超えて起り萬民皆疫死す」 右の例もすべてが崇むべからずと主張し、すべてが疫病で死んだのでないことは無論である。
 乙御前御消息(全一二二〇) 「
日蓮をば日本国の上一人より下万民に至るまで一人もなくあやまたんとせしかども、今までかうて候事は一人なれども心のつよき故なるべし」 これも国主権臣等が大聖人を僧んで行なう流罪死罪に、万民の意志をも含ませられたのであり、中心にすべてを例する意味の上からの仰せである。

 以上差し当って六文を挙げたが、「
一同」「一人もなく」の御用例は、数値の上の絶対性を示さるるものでなく、何らかの意義を表わすためのものである。
 従ってそれを数値的意味に解することは誤りである。とすればこの「
王臣一同」も文字通り王臣のすべてという解釈に執われる必要はない。



 もちろん 「一同」や「一人もなく」等の御抄の言葉は、“趨勢・大勢”の意であって“数値の上の絶対性”を示されたものなどでないことは、自明でありましょう。阿部教学部長は、種々の御抄を引用しては「一同」とか「一人もなく」等の用例をして、”王臣のすべてという解釈に執われる必要はない”と、言わずもがなの当然の結論を導くのでした。
 だからといって、当時・七百万相当の信徒の数を以て「すでに王臣一同」とする解釈に“執われる必要はない”でしょうし、一億二千万の人口に対して「民衆一同」に擬するには “おのずから存する階梯”を、あまりにも逸脱することでしょう。

 ここでも相変わらず、阿部教学部長はその“ご都合主義”の、面目躍如たる詭弁を駆使します。正本堂の誑惑に都合が悪い御文については、「王法」を“あらゆる社会生活の原理”と歪曲し、「王臣一同」を“民衆一同”とたばかり、さらに次下の文において「有徳王」を“池田先生”と諂曲し、「勅宣・御教書」を“信教の自由”にこじつけ、「最勝の地」を“大石寺境内”と偽り、「時を待つべきのみ」をして“前以て建ててよい”とうそぶきます。
 しかして自身の法義歪曲に好都合な、「一同」の用例・意味“だけ”は大歓迎。そのまま大聖人の御意の通りに了解するのでした。

 それだけではありません。“数値の上の絶対性”に固執するものなど居ないことを承知の上で、阿部教学部長は「一同」や「一人もなく」等の言葉に固執するのは”守文の徒”だ、と決めつけます。
 以て得意の“論点のスリ替え”を謀っては、三大秘法抄の御文の意をズタズタに歪曲した自身の仕業は”守文の徒”に非ずとばかり却って我が身を飾り、さらに無慚にも法義歪曲を正当化する根拠とすら・するのでした。

                          ( 平成十五年三月二十一日、櫻川 記 )


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