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国立戒壇論の誤りについて
六、三大秘法抄の戒壇の文意
( 「有徳王・覚徳比丘」とは不惜身命の正法守護 )
次に「有徳王覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」とは、涅槃経金剛身品に出る仏法守護の因縁である。
無量劫の昔、歓喜増益如来の滅後、破戒の比丘等が正法を持つ覚徳比丘を害せんとしたとき、有徳王の擁護によって難を逃れることが出来た。王は敵と斗い全身に疵を負って命を失ったが、その功徳により阿しゅく仏の国に生まれその仏の第一の弟子となった。この有徳王とは釈迦仏であり、正法を守る果報によって、今日法身不可壊の身を成就したのであると説かれてある。
この文を引き給う趣旨を拝するに、正法を立てることは迫害反対があってまことに難事である。すなわち末法において権実雑乱して人々は如来教法の帰趨に迷い、正法に対する怨嫉盛んなるとき、身命を惜しまずこれら一切の障擬(げ)を打ち破って正法を守護確立し、弘通を図ることあるを、大聖人はかねて鑑みさせ給うたのである。
有徳王、覚徳比丘は経典の事例であって、これを説いた釈尊の己心に存することである。従って末法の我々も信心の内感の上に考えるべきことであろう。この有徳王、覚徳比丘の関係は、同じく涅槃経に「内に智慧の弟子有って甚深の義を解り、外に清浄の檀越有って仏法を久住せしむ」とあるように、僧俗一致して異体同心に広宣流布に進んでいくことをいうのである。
「末法濁悪の未来に移さん時」とあるごとく、決して、戒壇は、安穏と平和のうちにつくられるものではない。むしろ濁乱の世に、苦悩の民衆を救うために、令法久住、広宣流布を願う信心強き人々によって建立されていくのである。したがって、この文の意は、広布完成のみを示すものと拝するよりも、完成にいたる因の道程をも含ませられたものと拝すべきである。
以上「戒壇とは …… 移さん時」の文全体が戒壇建立の時を決する条件を示された御文であるが、なかでも「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とは、総じて王仏冥合を“法”の面からその姿を示し、「王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて」というのは“人”の面からその様相を述べ、さらに「有徳王、覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」というのは、戒壇建立の時の世相を述べられると共に、我々の実践を示されている。
したがって、戒壇の建物は、広宣流布が一切完結した後に建てられるという見解にとらわれてはならない。また、昔の一国は、今日の全世界であり、世界的にみれば、日本一国の広宣流布が進んでも「末法濁悪」の時代であることには変わりない。さらに、大聖人の仏法は、本因妙の仏法であり、民衆救済を根本とする。一切の人々を救った後に建てるというのではなく、むしろ一切の人々を救うために建立するところに正意がある。
阿部教学部長は、“有徳王・覚徳比丘”の故事の意義を、「正法を立てることは迫害反対があってまことに難事」であり、「正法に対する怨嫉盛んなるとき身命を惜しまず」「正法を守護確立し弘通を図ることあるを、大聖人はかねて鑑みさせ給うた」と、それなりに立派な言説をこうして紡ぎます。
先には “「伝教大師の御本意の円宗を日本に弘めんとす、但し定慧は存生に之を弘め円戒は死後に之を顕す。事相為る故に一重大難之れ有るか」と仰せられたのも、迹門戒壇の難事をもって本門に例されたものであろう”と、その<難事>の意義を明示していたことでした。
それでは、富士門流の歴史に “特筆”すべき、昭和四十五年当時における宗門の「振舞」は、その有徳王・覚徳比丘の故事の<意義>に恥じないものだったでしょうか。
富士門徒の歴史は、“天奏への志”の歴史でもありました。しかるに、せっかく時の政府から宗祖・大聖人の
“御遺命の本門戒壇”について「照会」があったにもかかわらず、創価学会・池田会長は
“正法を立てることはまことに難事” の情勢に怖じ畏れて、「御遺命の本門戒壇」は
“信者の総意と供養によって建てられるべきもの”であって、“正本堂が本門戒壇にあたる”と、国家を欺いたのでした。
昭和四十五年四月二十二日、総本山大客殿に宗門の全住職・約一千名と創価学会・法華講・妙信講の代表が召集されて開催された「臨時時局懇談会」で、創価学会を代表して辻武寿総務室長は「共産党の攻撃により、いま宗門は危急存亡の時を迎えている。国立戒壇をいえば宗門はつぶされる」と力説しました。その「臨時時局懇談会」に参加した当時の住職達は、もし・いささかなりとも“仏法中怨”の責めを免れんとの道念あるなら、寿尽きる前に“一言”あるべきでありましょう。
妙信講は、時を逸することなくただちに法義歪曲を指摘しましたが、法律論に無知な宗門は易々と創価学会の「宗門はつぶされる」とのあり得るべくもない“嘘の説明”を信用し、受入れてしまいました。
細井管長は、「御遺命の本門戒壇」の重大法義を歪曲した創価学会を諫めるどころか、創価学会と“異体同心”して法義歪曲に<与同>したのでした。さらに、宗門の中で当時・最も池田会長に心を寄せ、無慚にも「御遺命の本門戒壇」の誑惑に積極的に加担した役僧こそ、他ならぬ阿部教学部長でした。
さて、阿部教学部長はここで“戒壇建立の時を決する条件”を結して、”広宣流布が一切完結した後に建てられるという見解にとらわれてはならない”として、「正本堂が本門戒壇」とする創価学会の誑惑を扶けるところに、その「正意」があることを示すのでした。
阿部教学部長の、この「国立戒壇論の誤りについて」(悪書I)と、「本門事の戒壇の本義」(悪書U)は、“国立戒壇を否定して正本堂を正当化する為、三大秘法抄の御聖文を曲会”した不朽の書でありました。
この二冊の悪書は、富士門流における<汚点>として目を背けることなく、“末法万年尽未来際”まで読み継いで、このような法義歪曲と誑惑が“私利私欲”のために為されることなきよう、能う限りの制度・システムを整備することが不可欠でありましょう。
( 平成十五年三月二十四日、櫻川
記 )
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