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国立戒壇論の誤りについて
六、三大秘法抄の戒壇の文意
( 戒壇本尊は根源であるから
義理の戒壇でない )
右文を大別すると 「当に知るべし」より 「義の戒壇と名けんのみ」までは 戒壇に事と理とあるを示す文である。
次に 「初に義理の戒壇とは」より 「微妙深遠等云々」までは義理の戒壇を明し、次に 「正しく事の戒壇とは」より以降は事の戒壇を明されている。
そして問題は義理の戒壇を明す部分の 「広宣流布の時至れば」以下○点を付した文(注:本サイトでは赤字)にある。
まず 「広宣流布の時」とは後に示される事の戒壇を相望して広布に約される言であるが、この場合は広布の条件を示す文ではない。(その理由は後述する)
従って以下の文意は、広宣流布の時至って始めて顕われる意味ではなく、それ以前の法相にも通ずるものである。
さてそれはいかなる文意か。いわく、多くの山寺に嫡々血脈付法の書写の本尊を安置するが、その処は皆是れ義理の戒壇である。然りと雖もなお枝流であって根源ではない。本門戒壇の本尊所住の処すなわち根源である。と拝するのてある。
したがって各山各寺の本尊は義理の戒壇であり、技流であるが、本門戒壇本尊は根源であるから義理の戒壇ではないとして、戒壇本尊の所住と、義理の戒壇とをはっきり区別された文と思われる。
日寛上人の著書の各処に「本門の本尊所住の処義の戒壇」と示されるのは三秘六義に立て分けての説明であって、本門戒壇の本尊はその総体であるからである。
もちろん 誑惑のレトリックにおいては、あからさまな出鱈目ばかりでは信用されず、ときどきは「正義」をちりばめます。
“「初に義理の戒壇とは」より 「微妙深遠等云々」までは義理の戒壇を明し、次に
「正しく事の戒壇とは」より以降は事の戒壇を明されている”と、阿部教学部長は日寛師の言葉にひとたびは従います。その上で、巧みにその義を否定するのでした。
まずは、日寛師の “ご正意”を、確認しておきましょう。広宣流布以前においても広宣流布の暁においても、「嫡々書写の本尊を安置す、其の処皆是れ義理の戒壇」であることは、理の当然でしょう。いわんや権迹・内外の諸宗・諸派と邪正を決して一閻浮提広宣流布の時至れば、“一閻浮提の山寺等”が皆・ことごとく嫡々書写の本尊を安置するのである、と。
「然りと雖も、仍是れ枝流にして是れ根源に非ず、正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ根源なり」とは、「本尊所住の処、皆是れ義理の戒壇」の大前提の上において、“山寺等・皆嫡々書写の本尊を安置”の処は“是れ枝流”であって、“正に本門戒壇の本尊所住の処、即ち是れ(義理において)根源”である、との日寛師による“義理の戒壇の中における根源と枝流の建て分け”のご明示でありました。
“広宣流布の暁の戒壇を事の戒壇”とするのが、富士の伝統法義です。しかして諂曲(てんごく)の阿部教学部長は、“言葉のあや”を衝いたレトリックを駆使します。
阿部教学部長は、事の戒壇の伝統法義と日寛師の義の戒壇を述べた文中の“広宣流布の時至れば”の言葉をあえて関係付け、“「広宣流布の時」とは後に示される事の戒壇を相望して広布に約される”と、「義の戒壇」の所説中に「事の戒壇」の説示があるかのように見せかけます。阿部教学部長の誑惑の論法の骨子を、整理しておきましょう。
1) 「広宣流布の時」とは事の戒壇を相望して広布に約される言
2) この場合は広布の条件を示す文ではない
3) 従って、広宣流布以前の法相にも通ずる
4) 嫡々血脈付法の書写の本尊安置の処は、皆是れ“義理の戒壇”であり枝流
5) 本門戒壇の本尊所住の処、すなわち根源
6) 本門戒壇本尊は根源であるから、義理の戒壇でない
7) 戒壇本尊の所住と義理の戒壇を、はっきり区別された
上記 1) から 3) の誑惑の伏線と 4) と 5) の論理を合わせて、阿部教学部長は
6) と 7) の惑義を導きます。1) から 5)まで、決して個々の説に誤りはありません。こうしていつのまにか “本門戒壇本尊は根源であるから義理の戒壇ではない”というご宣択が、巧妙になされるのでありました。
1) から 3) の説をまとめて阿部教学部長が意図するところは、“「事の戒壇」は広宣流布以前の法相にも通ずる”というゴマカシでしょう。4)
と 5) の説をまとめて意図するところは、“事と義”と“枝流と根源”という、異なる概念における要素の混乱による韜晦でありました。
こうして、上記の 1) 〜 3) からは 次の a) が、4) と 5) からは b) が、誑義へのステップとして誘導されます。
a) 「事の戒壇」は広宣流布以前の法相にも通ずる
b) 書写の本尊安置の処は“義理の戒壇”で枝流、戒壇の本尊所住の処は根源
阿部教学部長はこの段の誑惑の手際に、さぞかし自信がおありになるのでしょう。“受持即観心”の辺からすれば、未だ a) は誤りではありません。b) にしても、伝統法義から決して逸脱をしていません。しかして、この a) と b) とを“飛躍と短絡の論理”を用いることで、ついに 6) の誑惑をなすのでした。いかに巧妙とは云え こうして整理してみれば、その誑惑の馬脚が見えてきます。
そもそも、“「初に義理の戒壇とは」より 「微妙深遠等云々」までは義理の戒壇を明し”ていると解説したのは、阿部教学部長ご自身でありました。それが、“広宣流布の時至って始めて顕われる意味ではなくそれ以前の法相にも通ずる”という<まやかし>の手品で、いつのまにか“義理の戒壇を明す”段が、“義理の戒壇ではない”
へと化けるのでした。
さらに、その論拠が “広宣流布の時至って始めて顕われる意味ではなく云々”というにおいては、“なにをか云はんや”でありましょう。これまで阿部教学部長は、三秘抄の文を
“文のごとく”ならず曲解しては “流溢の広布への道程の全体が王仏冥合の時”やら “現在も王仏冥合の時と云える”等と “広宣流布の時至って”なる意義を、何が何でも否定すべく力説してきたことでした。
こうした、自語相違に満ちた“歴史的文書”を堂々と開陳した阿部教学部長の努力と意志は、たしかに宗門史上・燦然と輝き続けることでありましょう。
( 平成十五年四月十八日、櫻川
記 )
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