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    国立戒壇論の誤りについて

 
再刊後記

  ( 憲法改正は 時代錯誤の論

 次に 「国立戒壇が憲法違反になるならば、憲法を改正して一国全体の国事として立てればよい。広宣流布になればそれも可能である」という議論がある。
 これは、この論者の「国立戒壇は本化聖天子の発願による」ものであり、「天皇の勅宣」および「国会の議決」又は「内閣の決定」を得て建立するという主張と合せ考えるならば、国民主権主義を放棄して天皇制を復活させ、信教の自由と政教分離の原則をも否定するような内容における憲法に改めるということになるのである。これは余りに時代の流れを無視した議論である。
 
 国民主権と基本的人権の尊重ということは、近代憲法の鉄則である。なかんづく信教の自由の保証と表裏の関係にある政教分離の原則は、基本的人権の中の最も中心にあるものといえよう。
 歴史的に見ても、この信教の自由の獲得こそ、他の人権的要素に先がけて意識され、数多くの犠牲を払って取得されたものである。そして、この精神的自由の基盤の確立こそ、人間の個々の人格を最大最に尊重する基本的人権の眼目である。

 したがって、信教の自由を否定することは他の精神的自由たる内心の自由、表現の自由等はもとより、基本的人権そのものを否定することに通ずる。また国民主権主義ということも、過去における絶対君主別において、人間の尊厳が、いかに無視されてきたかという歴史的反省の産物として得られたものであり、基本的人権の尊重と、更にその基をなす人間個々の尊厳性を確立するための尤も有効な統治原理とされている。
 そして大切なのは、世界の時代的潮流が、こぞってこの基本的人権と人間の尊厳が確保できるようにすべきだという方向にむいていることである。

 今後も信教の自由を初めとする基本的人権の尊重、またそれを支える統治原理としての国民主権主義の原理は、より発展こそすれ絶対に退歩することはないであろう。しかもかかる人間の尊厳を確定してゆく政治の世界の原理が、結局仏教の目的に合一してくるものであることも多数の識者が認めている。このような時代の趨勢にあえて逆らってまで、憲法を改め信教の自由の否定を主張することが、いかに時代錯誤の論であるか、まことに明らかである。
 (そもそも基本的人権を無視し、国民主権主義を否定する方向への憲法の改変は、憲法改訂の限界を超えるものであり、許されるべきでないというのが、憲法学界の定説ともいうべき圧倒多数説であると聞いている)

 このような時代状況に応じて、特に国家的手続きや許可等のことにあえて執われることなく、戒壇を建立することが、日蓮大聖人の仏法の本質を何ら変えるものでなく、むしろ進んでその意義を顕わし奉るものであると信ずる。
 また反対に、時代背景に約された一文言にのみとらわれて、過去の特殊な時代、あるいは社会状況の下でなければ、戒壇を建立出来ないかのような主張をすることが、よほど大聖人の仏法の本質を見誤っているものであることを指摘しておく。



 今回も阿部管長 “ご自身”の言葉を、拝聴すること としましょう。平成四年八月二十八日、全国教師講習会における「講義」で、阿部管長はこう述べたのでした。

 「
国立ということを言ってんのは浅井昭衞のほうの妙信講で、今でも盛んに言ってますな。国立戒壇って。ということを言っていますがねー。私はね、このー、やはりですね、過去において学会との、ハハハ、在り方の中でいろいろ私も変なことを書かされちゃったが、まっ、一遍、国立戒壇に関することを私はある時期に、全部、御破算にしちゃおうかなと思っているんだけれども、まずいかねー(照れ笑い)。ありゃもう、一切廃棄する・破棄すると宣言したらどうかな、どうだ面白いだろうな。(拍手)おお、ありがとう。エヘッ。(笑い)」( 全国教師講習会 「講義」 )と。

 ここで “私も変なことを書かされちゃった”というのは、まさしく教学部長当時の本書「国立戒壇論の誤りについて」と、「本門事の戒壇の本義」の二冊に代表されることでした。阿部管長は、この二冊の悪書を“御破算にしちゃおうかな” “一切廃棄する・破棄すると宣言したらどうかな”と述べて、何の責任も痛痒も感ずることなく、ただ自分ひとりの“逃げ道”だけを用意します。
  “しちゃおうかな” “どうかな”と云うばかりで、明確に“一切廃棄する・破棄すると宣言”するでもありません。“面白いだろうな” “エヘッ”と、卑怯・無慚の言を発するばかりでありました。

 さて、本書の “時代の趨勢にあえて逆らってまで、憲法を改め信教の自由の否定を主張することが、いかに時代錯誤の論であるかまことに明らか”との自説に対し、阿部管長はそれから十八年後の「講義」で、このように“方向転換”をします。

 「
そこで私が思うのは(略)一つの考え方としてもし言うなら、『国主立』という言い方はどうだろうかと、こう思うんだよね。『国主立』だね。『国主立』となるとこれは国家の機関でなく人間的な意味がそこに入ってきませんか。国主ということは、その国その国の、その時その時の政治形態において、とにかく主人である。なんでもできるのである、やろうと思えば。だから国主がですね、国民でしょ、今は。主権在民だから国民が国主なんだ、日本の国は。そうすっと、国民が将来その憲法改正し、こういうことをしようってだけの決議ができるだけの数になればいいね。これ憲法違反じゃなく、可能ではあるということが言えるな」(同)と。

 されば、憲法改正をして『国主立』戒壇を建立することは、“国民主権主義を放棄して天皇制を復活させ、信教の自由と政教分離の原則をも否定する”ことではなく、“余りに時代の流れを無視した議論”でもなく、“時代の趨勢にあえて逆らって憲法を改め・信教の自由の否定を主張する時代錯誤の論”などということもなく、“時代背景に約された一文言にのみとらわれて大聖人の仏法の本質を見誤っているもの”でもない、ということでした。
 これ、私の言葉ではありません。自称・“内鑑の御境地血脈の上の御意下種仏法所有の権限”の上の、阿部管長ご本人のお言葉でありました。

                          ( 平成十五年五月十二日、櫻川 記 )


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