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国立戒壇論の誤りについて
再刊後記
( 国立戒壇の名称は 田中智学が云い出した )
次に最近 「国立戒壇はもともと日蓮正宗の義である。田中智学はこの正宗の義によって国立戒壇を立てたのであるから、国立戒壇の名称こそ大聖人の御正意である。それを田中智学が云い出したものだと偏する者こそ本末顛倒の誤りである」と云い、
また 「歴代上人もすべて国立戒壇であり、日亨上人、日淳上人、御当代日達上人もかく仰せられている。このように国立戒壇こそ歴代上人の正意である」 という主張を散見する。これはまことにわけがわからない苦弁というべきであろう。
国立戒壇の名称は間違いなく国柱会の田中智学が明治三十五年頃より云い出したものであるから、もともと正宗でできた名称ではない。つまり田中智学のつけた名称である。
もし国立戒壇は正宗の義によって田中智学が云い出したとすれば、その正宗の正義を始めて述べ、発掲した人こそ、歴代猊下にあらずして田中智学ということになる。不相伝の身延より出て、我見我流の会を作った者が、絶対不変たるべき正系正義の名称を初めて唱え出したということは、まことに正系正義の仏法を蔑恕し、法を下げることこれより甚しきはないというべきである。
三大秘法抄、一期弘法抄の文義は根本であることに相違はないが、国立戒壇なる名称はその枝葉であり、一表現の名称である。従って三大秘法抄、一期弘法抄の文義について、ある一時代の布教に通した表現として国立戒壇の名義を使用したというのは誤りとはいえない。しかも反対に、国立戒壇の名義こそ永久不変の 三大秘法抄、一期弘法抄の文義を総括する全体的名義であるということは枝葉をもって根本を律するもので天地顛倒の誤りとなる。
故に本宗においても明治後期まで、かつて国立戒壇の名称を使われた歴代上人は全くおいでにならないのみならず、大正時代にあってもまだ明らかに本宗で発見することは出来ない。
しかし、その後御三方の歴代上人が戒壇についての説明表現の意味で使用せられたことがある。それはあくまで一時的、応用的な立場から、以前の或る一時機における名称的影像を利用され、御遺命の戒壇を国立と呼ばれたまでである。その証拠には、その御三方の御一人である日達上人がみずから「以後この名称は使用しない」と仰せられていることに明らかであろう。この御言葉こそ根本に還って枝葉を排されたものと拝されるのである。
邪宗の師田中智学の創唱した国立械壇の名称がかつて明治のころ、一応世間にもてはやされたことがあったにせよ、本宗とは殆んどかかわりがなく、その語に大聖人の仏法の恒久的、原理的意義があるのでもない。あくまで過去の政治形態を基本とする一応用名義であると知るべきであろう。
阿部教学部長は、すでに再三述べたところの“国立戒壇の名称は国柱会の田中智学が云い出した”なる説を、再びこの「再刊後記」でむし返します。かろうじてこの説こそが最後に残る、たしかな“国立戒壇否定の有力根拠”だとの思いが阿部教学部長をして、そうさせるのでありましょう。
阿部教学部長は、“我見我流の会を作った者が、絶対不変たるべき正系正義の名称を初めて唱え出したということは、まことに正系正義の仏法を蔑恕し、法を下げることこれより甚しきはない”と、かえって“国立戒壇”の「名称」にこだわり、“国立戒壇”の「名称」を否定することに執着します。「名称」が大切なのではなく、その「意義」が大切なことでありましょう。
元より、当宗における“宗旨の根幹”たる<三大秘法>の、「本尊」「戒壇」「題目」の“名称”は、日蓮大聖人の造語ではありません。岩波仏教辞典によれば、「本尊」とは“礼拝の対象として尊崇する、仏・菩薩・曼荼羅などをいう。もと 密教の経典である大日経や瑜祇経に説かれ、それが諸宗それぞれの崇拝対象を呼ぶのに用いられた”と。
阿部教学部長の “絶対不変たるべき正系正義の名称”なる “言い掛かり論法”に従えば、“未顕真実”の権教において“初めて唱え出した”「本尊」という「名称」を、宗旨の根幹たる<三大秘法>に用いた宗祖・日蓮大聖人は、“仏法を蔑恕し法を下げること
これより甚しきはない”ということに帰結すること、となりましょう。そんな無茶苦茶な“屁理屈”が、通用するはずもありません。
いはんや、当宗には「依義・判文」「大綱・網目」「所破・借文」という“法門”があること、阿部教学部長が知らぬはずもないでしょう。智学居士は、当宗との法論に敗退した後・本宗の法門を盗んで、“国立戒壇”の「名称」を宣揚したことでした。
しかして、「一念三千の出処は、略開三の十如実相なれども、義分は本門に限る」(十章抄)の如く、当宗の歴代貫首上人においては、智学居士の「天皇中心」に武力を以て大東亜を支配すべしとする“国粋思想”や“八紘一宇”という<義>を削り捨てた上で、“国立戒壇”の「名称」を用いて御遺命の“本門戒壇”の意義を、宣揚したことでありました。
六巻抄には、「開山上人曰わく、一に所破の為めとは 方便称読の元意は、只是れ牒破の一段なり。二に借文の為めとは、迹の文証を借りて 本の実相を顕わすなり等云云。(略) 故に所破の為めとは、即ち迹門所詮の義を破するなり。借文の為めとは、迹門能詮の文を借りて 本門の義を顕わすなり」(当流行事鈔)と。
まさしく“国立戒壇”の「名称」は、智学居士の“国粋思想”や “八紘一宇”の<義>を排して、日蓮大聖人・御遺命の「本門寺の戒壇」とは、一宗門や一部の信徒が建立するのではなく “国家的に建立すべし”との、“本門戒壇”の<意義>を顕わすためにこそ、用いられたことでありました。
ではここで、奉安殿落成式・御遷座式( 昭和三十年十一月二十三日 )における、六十四世・水谷日昇師の“慶讃文”を拝しておきましょう。
『 夫れ戒壇の本尊は、宗祖日蓮大聖人の本懐、末法衆生帰命の法体・一宗依止の当体なり、宗祖大聖人・弘安二年十月十二日
之れを建立して血脈付法の二祖日興上人に宛て給わるところなり。上人 身魂を尽くして護持し大石の寺に奉し、一閻浮提の座主日目上人に付してより乃至、国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年 今日に至れり云云。(略)
血脈付法の法主を継げる日昇之れを受納して 戒壇本尊奉安殿と名付け、ここに戒壇本尊を永久に安置し奉るなり。時を待つべきのみ事の戒法とは是なりの金言を身に体して、必ず来るべき国立戒壇建立の暁まで守護すべし。後の法主も 一心同体たるべきを確信する 』 と。
阿部教学部長は、「信教の自由」が“勅宣や御教書”に相当だの、「王臣一同」とは今日では「民衆一同」だのと、“法を下げることこれより甚しきはない”言説を自ら数多・重ねて来たことでした。
その上、この“後の法主も 一心同体たるべきを確信す”との日昇師の“内鑑の御境地・血脈の上の御意・下種仏法所有の権限”の上の凛乎たる「ご宣言」に対しても、“一時的 応用的な立場から、以前の或る一時機における名称的影像を利用され、御遺命の戒壇を国立と呼ばれた”に過ぎず、
“不相伝の身延より出て我見我流の会を作った者”の亜流に中り、“正系正義の仏法を蔑恕し、法を下げることこれより甚しきはない”と、宗門の教学部長の職にありながら池田会長に媚び諂って先師を貶めること、かくも甚だしき暴言を重ねるのでありました。
( 平成十五年五月十五日、櫻川
記 )
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