|
国立戒壇論の誤りについて
再刊後記
( 理想上の観念と
実践上の立場を混同してはならない )
しかるに、国立戒壇論者は「御遺命の戒壇につき、御金言は明白に広宣流布の暁に立てるを命じたまう」と極めてずさんな断定を下すのであるが、この「広宣流布の暁に建立する」という言葉自体吟味を必要とする。
それは、広宣流布という用語が、宗門において主として未来の理想をいう場合がある。教法が最高にして唯一、絶対ならば、その流布も永遠不滅であるべきで、法華経の「閻浮提に広宣流布して断絶せしむることなけん」の文はそれを意味している。かかる永遠性と理想をふまえて「広宣流布」あるいは「広宣流布の暁」という語を使用する立場である。
もう一つは、御遺命の戒壇を実現したいと願う実践の立場があり、一期弘法抄、三大秘法抄のお示しは、この意味において拝され、また拝すべきことも当然である。この理想上の抽象化、憧憬化された観念と、事実上、実践上の立場を混同してはならないのである。
すなわち、戒壇建立にあたっては現実的な「広宣流布の暁」を考えなければならないのである。また一期弘法抄の「国主」とは、現代においては、民衆であることは、猊下がたえず御指摘であり、本著にもその内容についてふれてある。
さらに現代の憲法下においては、政治が宗教に容喙(ようかい)することを許さない。また宗教は信教の自由の鉄則により、国や為政者から特別の拘束を受けることなく、その教義上の一切の行為や施設を行なうことができるのである。すなわちとくに皇室や為政者の帰依と許可がなければ戒壇建立が出来ないということはない。
かかる状況より、当時の「国主が法を立てる」という意義をあてはめれば、国家における主権の最高意志を決定すべき国民の中にあって、正法に趣向する強力な勢力の出現、ないし大結成といえよう。
故に、国内の民衆にたいする折伏が現代の国家諌暁であり、また基本的には正法の広布による強力な社会的信仰的潮流の結成が御遺命の文に当るものと解される。そしてこの潮流の力と戒壇建立の時期についての具体的現実的判断は、これこそ大聖人以来唯授一人の血脈を持たせたもう法主上人の内鑑の御境地によることである。現時のごとく、正法が俄かに興隆して多くの民衆が妙法の功徳に霑うとき、まず本門寺の戒壇たるべき建物を建立し、次にまた更に広布が充実し、進展したとき、本門寺の戒壇たる意義名称が確定するという経過があっても御金言において一向に差支えないのである。
また三大秘法抄の戒壇の御文については、本著の方に拝考してあるので省略する。要するに「王臣一同」の語が守文的な一人残らずを意味するものでなく、王とこれに従う臣の大勢的傾向を示されたものであり、また有徳王の故事よりして身命を抛つ王法守護と広宣流布の展開中にその時運が結成される時をお示しあそばれたと拝せられる。日本中のすべてが信仰したあとという文意ではない。(勅宣御教書については本書にのべてある)
さらに日寛上人がその広汎な名著中、事の戒壇についてほとんど自らの解釈を加えたもうことなく、ただ三大秘法抄の戒壇の例文をのみ挙げたもうこと。かつ同抄の文段解釈をなさらなかったことは、そこに深甚の御思慮を拝するのである。
すなわち戒壇建立は未来のことであり、また事相のことであるから、敢えてこの論明を避け、未来に広布の相、顕著となったときの法主上人の裁断に委ねられた深意と拝される。故に軽々しく一信徒の立場で御遺命の文を速断し、法主上人の御教示に背いて御遺命かくの如しという者は、法主上人のみならず御遺命御金言それ自体に背反することを知るべきである。
この段で阿部教学部長は、めずらしく一部において「正論」を述べています。それは、“広宣流布という用語が、宗門において主として未来の理想をいう”という言説でありました。
「国立戒壇」にしても、同様でありましょう。“国立戒壇という用語が、宗門において主として未来の理想をいう”と云っておけば
昭和四十七年四月の当時、世間に対しても政府・国会に対しても、何の“問題”もなかったことでしょう。
思想・宗教・良心・結社の自由は、憲法の保証するところなのであって、「広宣流布」や「国立戒壇」を宗門がいくら叫んだからとて、国家から弾圧を受けるとか潰される、などということのあろうはずもありません。
されば池田会長の命を受けた山崎元顧問弁護士は、“威圧と、理論闘争と、そして、「ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう」という脅し”を以て、宗門を威嚇・脅迫・強要したのでありました。
御金言は明白に“未来の理想”を指向して、「時を待つべきのみ」と、どこまでも厳しく御遺誡あるのでした。しかして、池田会長に媚びる細井管長はその厳誡に背き奉り、「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と、“極めてずさんな断定”を下したのでありました。
「理想上の抽象化・憧憬化された観念と、事実上・実践上の立場を混同してはならない」にもかかわらず、その両者の違いをわきまえずして不覚にも“混同”したのは、他ならぬ当の阿部教学部長・ご自身でありました。
“戒壇建立にあたっては現実的な「広宣流布の暁」を考えなければならない”のは、“事実上・実践上の立場”でありましょう。事実上・実践上において、現実・現状において、御遺命の「戒壇建立」の必要条件にも十分条件にもその“満足”にほど遠いことは、なにも“法主上人の内鑑の御境地”やら明鑑やらによるまでもないことでした。
その理想と事実との“厳たる相違”を 不明にして愚かしくも“混同”し、阿部教学部長は「信教の自由」が“勅宣や御教書”に相当するだの、「王臣一同」とは今日では「民衆一同」だの、「勅宣並に御教書」は必要ないだの、「時を待つ可きのみ」とは“幅をもったもの” だの、“戒壇本尊は根源であるから義理の戒壇でない”だのと、宗祖・大聖人の厳たる御遺命に対して誑惑と歪曲を重ね、あまつさえ・その責任の帰趨をば“大聖人以来唯授一人の血脈を持たせたもう法主上人の内鑑の御境地による”と、余人に転嫁するのでした。
( 平成十五年五月六日、櫻川 記 )
戻る 次
|
|
|