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   池田氏の依頼で情報戦ははじまった

 昭和四十五年一月中旬、私は、学生本部三階の仏間で、池田大作氏より直々に、『折伏教典』を手渡され、「
この中に、強要罪や、宗教法人法違反の内容があるという人がいるんだ。学生部の法学委員会で検討してくれないか。共産党が国会で創価学会の体質問題をやるといっている。国立戒壇から何から、ひとつひとつ総点検して対策を立ててくれないか」と依頼された。

 私は、私のほかに長谷雄幸久、猪能重二(ともに弁護士)、桐ヶ谷章、吉村弘、高井康行(当時司法修習生)、神崎武法(検事)、亀本和彦(建設省)氏らでプロジェクトを作り、作業を開始した。(略)

 当時、創価学会本部では、北条浩副会長(当時)を中心に、毎夜、会議が開かれていた。そこに、竹入、矢野、竜氏ら公明党首脳、秋谷、森田一哉、和泉覚氏らの組織幹部、山崎尚見、芳賀昭人氏ら広報室関係者、それに、青木亨、福島源次郎、市川雄一氏ら機関紙ならびに青年部首脳が加わった。私も、プロジェクトの代表としてその末席に加わった。

 事件の推移の中で、私のプロジェクトチームの作業内容がしだいに重きをなし、会議は、竹入、矢野氏ら、公明党の国会およびマスコミ対策と、私のプロジェクトの分析が軸となって展開されていくようになった。

 (略)



 
昭和四十五年は、言論弾圧問題から主として共産党からの、池田会長への国会証人喚問の動向等、創価学会・とりわけ池田大作会長自身にとって大変にして重大な年、でありました。
 それらの対応・対策において、創価学会における最優秀の頭脳集団が山崎元顧問弁護士をヘッドとして、法曹関係者を中心に結集されたことが語られています。
 
 そして、そのプロジェクトに与えた池田会長の示唆・指示とは、 「国立戒壇から何から、ひとつひとつ総点検して対策を立て」よ、ということであったことが明らかにされています。
 「
国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華五十九号)なる、池田会長が自ら発した言葉はそこになんらの信念も覚悟も決意もない、口先三寸の戸田会長の口まねに過ぎなかったことが知られます。

 「国立戒壇の建立こそ創価学会の唯一の大目的」 と敢えて言い切る以上、世間から怨嫉をこうむることは、元より自明のことではないか。
 大聖人の大難四ヶ度・小難数知れずの御生涯・その精神への、一分の了解も信仰も道念もない、池田会長の
名利の魔物たる正体がここに見える。最近では、「ガンジーを魂とする」のだとか。
 そして、その池田会長の命を受けた検事・弁護士等の法曹テクノクラート達は、現行憲法を第一義・アプリオリなる前提として、「創価学会の唯一の大目的」であったはずの「国立戒壇」を放棄すべしとの結論を、池田会長に具申したのでしょう。

 この事態についてわたしとして思うに、それは半ばは池田会長への迎合であったことでしょう。そしてまた半ばは現憲法を疑うことなど思いもよらないよう、基礎から教育・訓練された法曹テクノクラート達の思い込み・思い入れがあったことなのでしょう。

 興味深いことに、創価学会の道筋・行方の大転換を模索・検討した、このきわめて重要な
連日連夜開かれた創価学会本部での会議に、原島嵩教学部長の名は見あたりません。
 ここを以てしても、創価学会の国立戒壇放棄とは、信仰上の唯一の大目的」にかかわる大問題であったにもかかわらず、信仰・教義上の検討・吟味・煩悶等は一切なくして、異常なほど国会喚問を恐れた池田会長ひとりの自己保身のための国会およびマスコミ対策」がその根本原則であったこと、そしてその枠内・制約条件下での理論的帰結であった、ということが知られます。

 そうした創価学会による、邪な路線変更・御遺命違背を制止するどころか、その勢力と権威と経済力の前に一も二もなくひれ伏し与同したのは、悲しいかな..日蓮正宗・宗門でありました。



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