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言論妨害事件作期のトラブル処理を一手に
昭和四十五年から五十年にかけて、創価学会は、言論問題の余波もあって、内外に種々な問題を抱えていた時期にあった。
四十年代前半のような、押せ押せムードの折伏や選挙活動が世論のカベに突き当たって頓挫し、世帯数、聖教新聞部数、選挙の得票数と公明党の議席数など、いずれも大幅に落ち込んだ。
公明党は自民党の顔色をうかがい、他の野党の機嫌をとるために汲々とし、クルクルと路線や政策を変えた。
「広宣流布、国立戒壇建立」といった宗教目標は裏に引っ込められた。
その時期に、日蓮正宗との軋轢、幹部の造反、組織上のトラブル、他勢力の干渉、マスコミとの攻防といった、難事が次々と創価学会を襲った。外部からは定かに早えなかったかも知れないが、学会本部はこれらの事件への対応に揺れ動いた。この間、中心となってこれらの難事の処理に当たったのが、他ならぬ私であった。
池田会長が、言論弾圧問題での国会喚問にどれほど怖じ恐れたかは、原島氏や山崎氏の証言にもあるとおりでした。
その池田会長の卑劣なる自己保身によって、御遺命の歪曲・破壊が為され
『「広宣流布、国立戒壇建立」 といった宗教目標は裏に引っ込め』られたことでした。
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