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    藤原弘達氏への五つの依頼

 私が東京世田谷の弘達氏宅を一人で訪ねたのは同年八月三十一日の早朝だった。 
 ジャーナリズムの世界に「
夜討ち朝駆け」という言葉があるが、私の渉外術のコツもそれと同じ。目的の人物をより確実につかまえるために、まず相手が自宅にいる確率の高い時間帯を狙うやり方を取っていたのである。

 その日は朝六時すぎに高円寺の自宅を出て、午前七時ちょうどに相手宅の玄関ブザーを押した。門先まで出られた奥さんにうかがうと、弘達氏はまだお休み中ということだった。そこで二時間後の午前九時に再び訪れ、迷惑そうな弘達氏と一時間ほど話し合った。

 この初回訪問の時、私は弘達氏への五つの依頼項目を用意していた。その内容はまず近く選挙もあるのでできれば本の出版そのものを取り止めてもらいたい。それが無理なら『
創価学会を斬る』という刺激的な題名を変更してもらいたい。三番日の依頼事項として出版時期を延期してほしい。それも駄目なら四番日、事前に原稿を見せてほしい。そして最後、もっとも重要な依頼項目としては池田会長(当時)について本文中で言及するのを遠慮してもらいたいというものであった。

 これは私の独創というより、当時の創価学会が外部からの批判封じの一策として、対外的な交渉の場でよく使った一つのパターンなのである。相手の様子を見ながらこちらの要求を一つずつ順に小出しにしていくわけで、Aが駄目ならB、Bが駄目ならCといった具合。かなりネチっこい交渉方法だから相手にとっては迷惑この上なかっただろう。

 迷惑といえば、このころの学会のやった
イヤガラセ戦術は凄まじかった。学会の攻撃目標となった相手は「人海戦術」による散々な被害を覚悟せざるを得なかった。
 この昭和四十四年の言論妨害時には組織内に
言論部という部門があり、学会批判者などへひどいイヤガラセをする担当者まで準備されていた。

 全国の各地域から一定の役職以上の婦人部幹部、あるいは筆の立つ一般学会員を抜擢して言論部員に任命しておき、何か問題が生じるたびに各地の創価学会会館などへ
召集をかけるのだ。
 なにしろ七百万世帯を数える巨大集団だから、その言論部員は五人や十人ではない。本部から指示が出るたびに各地の部員たちは葉書を持ち寄り、多い場所では一ヵ所百人、百五十人単位で集まった。

 現場の一室では言論部担当の学会幹部から部員一人ひとりに
具体的なテーマ宛先までがふり分けられる。それぞれがせっせとイヤガラセの手紙や投書を書き、その場で書き上げるまで帰宅させない。
 これを全国数十カ所、数百カ所の各支部、各会館でいっせいにやるわけだから、標的にされた相手はたまらない。文字どおり、イヤガラセの手紙が
洪水のように流れこんでくることになる。

 たとえばこの出版妨害事件の際、学会側から相手の弘達氏の自宅に投げ込まれたイヤガラセの投書類は優にミカン箱十箱分はあったろう。
 この投書作戦のほかに
電話作戦も強烈だった。やはり本部が学会員を総動員して、学会批判をやったテレビ局ラジオ局雑誌編集部をめがけどんどん電話をかけさせた。
 個人宅にも「
家に火をつけるゾ」、「夜道に気をつけろ」といった脅迫電話が殺到したり、散々なイヤガラセ戦術が展開されたものである。

 投書作戦も電話作戦も池田お得意のやり方だった。「
私の言葉は学会の憲法だ」とウソぶいた池田三代会長の号令一下、選ばれた言論部員をはじめ学会員たちは池田の言葉を疑いもせず「悪者」に向けて熱心に攻撃をしかけた。その姿は世間の目には一種の狂信集団と映っただろうが、学会員個々はむしろ熱心な信者たちであり、その宗教心を池田が巧みに操っていた。

 学会の裏側を知らされず、池田大作の打つ手はすべて順風満帆と一般学会員は頭から信じきっていた。しかもその前年にキモを冷やした「集周替え玉投票事件」をうまくモミ消せたことが池田大作をさらにのぼせあがらせていた。
 図に乗った指導者のもとで、学会全体が世間をナメていたといえる。言論出版妨害事件はその延長上に起こるべくして起こった
象徴的な出来事であった。




 創価学会では、山崎謀略師団という
プロ集団の諜報・破壊活動だけでなく、こうして全国の各創価学会の会館などに言論部員や一般会員が動員され、投書や電話による組織的なイヤガラセや、世論工作が行われていたのでした。

 純信の信徒をしてそれを為さしめていたのは、「
図に乗った指導者」とかつての側近に呼ばれる、池田会長でありました。そしてまたこうして「悪者」に向けて攻撃を指示されることであれば、一部会員には時にそれ以上の物理的な攻撃・暴力に走ることとてもあったことでしょう。
 池田会長を護る為には、あらゆる手段が正当化されたのでした。

 先にみたような、当時の宗門を呑み込んだ異常な興奮と、こうした池田会長の手段を選ばない狡知の前に、世間知らずの宗門また心ならずして、御遺命捨去の片棒を担がされたことでした。



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