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奉安殿建立の意義
( 御在世の信心にかえれ )
会長戸田先生は 『学会は大聖人様の時代に帰り、大聖人様の弟子檀那にかえれというのが、私の主張であり信念であります。日蓮正宗の興隆は、それ自体が広宣流布を意味するものです。
このような奉安殿ができましたことは、皆さまの努力によるものと喜んでおります。私からも、あなたがたにお礼申し上げます。いつかまた、大客殿の増営をしたいと思っておりますが、そのときまたおおいなる信念を奮い起こしてやっていただきたいと思います』
誠心一途に御奉公申し上げる会長先生のおことばに、会員一同、わが身の信心をふりかえったことでありましよう。
第二祖日興上人の御付属状によれば 『国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり』と(身延相承書一六〇〇ページ)と明確におおせられております。
しかれば、小乗の戒壇は遠くインドに、釈尊が祇園精舎の外院の東南に設けられたのをはじめとして、わが国においても、鑑真和尚の聖武帝のとき、奈良の東大寺に設置され、また淳和帝(ママ、正しくは淳仁帝、櫻川注記)のとき、筑前の観世音と下野の薬師寺とに建立されたのであります。なお、さらに大乗戒壇は、淳和天皇の代、近江の延暦寺に建立され、四戒壇と称せられております。
しかるに、大聖人様のたてたもう戒は、すでに教が本門の御本尊を受持し南無妙法蓮華経と唱題することが根本であるがゆえに、受持口唱を本門の本円戒となされているのであります。
三大秘法口決に『本門寿量の大戒は虚空不動戒、無作の円戒と名づけ、本門寿量の大戒壇と名づく』とおおせられて、いちいちの行為において悪を止め、善をなさしむる戒を廃し、ひたすら仏の因行を行ずることができるのであります。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
「戒壇本尊奉安殿」の落慶挨拶において、戸田会長はなによりも「大聖人様の弟子檀那にかえれ」、と述べたことでした。「御在世の信心にかえれ」というのはまた、顕正会員なら骨の髄まで染み込んでいることでしょうが、顕正会(妙信講)発足以来の「一筋の信心」の姿勢であることでした。
宗勢の拡大著しいこの折りにあって決して浮かれずして、信徒として「御在世の信心」を見つめて微動だにしないこの戸田会長の指導者としての資質は、さすがというべきでありましょう。
大聖人の御遺命たる「国立戒壇建立」を、その実現のタイムテーブルにのせた戸田会長としては、当然に世間からの反発の激しさを充分に、想定・予期していたことでしょう。
「よからんは不思議、わるからんは一定とをもへ」(聖人御難事)の、御在世の熱原の法華講衆の<命を的>とした信心を範とした戸田会長のこの言葉は、当時の池田参謀室長の耳にはどう響いたことでしょうか。
さて、ここで池田参謀室長が縷々述べている戒壇の由来は、淳師の「三大秘法抄拝読」の講義をほぼそのまま読み上げていて、淳仁帝を淳和帝と読み違えている様子などまでもがうかがえ、なにやらその必死さが伝わってほほえましい感すらすることでした。
しかして、「改まざるを性」と云うのでした。後に、ナポレオンやガンジーを賛嘆し、名誉博士号や名誉市民等の称号・勲章を貪欲に漁るその「如是性」は、おそらくは当時の池田参謀室長の頃から異ならない、のでありましょう。
されば、この戸田会長の「御在世の信心」の誠心一途の言葉とても、このときの池田参謀室長の耳には、永くはとどまらなかったことでありましょう。さればこそ国立戒壇を否定するために、あろうことか恩師・戸田会長をダシに使ことができたのでしょう。
「戸田先生は『本尊流布が、信心が、トウフである。戒壇建立はオカラである。カスのようなものだ』このように何度もおおせになっておりました」(聖教新開、昭和三十九年七月二十八日号)と。
(
平成十三年十二月十二日、櫻川 記 )
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