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創価学会第三十三回総会 池田会長講演
王仏冥合の原理
( 王とは全民衆・全社会 )
公明党が宗教的中立に立ち、宗教上の目的を政治の場で追求するものでないからといって、公明党の存在意義がいささかも減少するものでないことは、以上のことから考えていただけれは、明白であろうと思いますが、いかがでありましょうか。
逆説的ないい方をすれば、もし公明党がなけれは、これだけの庶民大衆のエネルギーは、現在の政治地図のなかに、確固たる位置を占めるまでにはいたらなかったはずであります。大部分が政治的無関心層として姿を没してしまったか、あるいは日本の社会に亀裂を深めていく作用をしていたかもしれません。
以上は、政治の分野を一例として申し述べましたが、更に王仏冥合の原理について論及しますと、立正安国の“立正”が王仏冥合の“仏”であり“安国”が王仏冥合の“王”になります。
仏法でいう王とは、全民衆、全社会を包含した内容であり、もはや、国王を指すのでもなければ国家権力でもない。現代的にいえば政治、教育、文化等、社会全般のことを指すと考えるべきでありましょう。主権在民の現代は、民衆が王であり、社会が王なのであります。
ゆえに、現代においては、単に政治という限られた分野だけにとどまることなく、より広く民衆、社会のあらゆる分野にわたって、底流を築き、その上に、広範な、新しい社会の建設、文化の建設がなされる時代であることを訴えたいのであります。
また、王仏冥合、立正安国が、あくまでも宗教による人格の陶冶(とうや)を基盤とするものであり、直接、社会的活動の次元に信仰を持ち込むのでないことは、政教一致との根本的な違いであり、政教分離の原則に立つものであることも、ここに明確に申し上げておきたいのであります。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
池田会長は、日蓮大聖人の仏法における「立正安国」だけでなく、「王仏冥合」についてもこうしてコジツケとスリ替えを繰り返すのでした。
日蓮大聖人の「王法」の用例においては、ことごとく「国家・王の威光勢力・国主の統治権・国家権力・政治・国法」等の意で用いられていたことでした。
そもそも、「政治・教育・文化等、社会全般のことを指す」のなら、すでに「世法」という用語があるのでした。この池田説においては、「世法」と「王法」の意味に区別がなくなってしまい、むしろ「王世冥合」となることでしょう。それはたしかに池田会長に、ふさわしいのかもしれません。
こうして池田会長によれば、日蓮大聖人の「仏法」も「立正」もいつのまにかどこかに霞んでしまって、「王仏冥合の原理」とは「生命の尊厳・人間性の尊重・絶対平和の実現」による「人格の陶冶」を基盤とした「広範な新しい社会の建設・文化の建設」なるものに、帰着するのでありました。
かつて、「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(奉安殿建立の意義)と述べた人の口からこのような言葉が出るとは、当時・誰が想像できたでしょうか。その二言たるや、いかに<接点>だの<人格の陶冶>だのと韜晦してみても、天地・水火の違目・相違でありました。
(
平成十四年四月二十五日、櫻川 記 )
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