御遺命守護資料館


home

 御遺命
 御遺命守護
 資料室
  顕正会
  宗門
  創価学会
  その他
 談話室
 Q&A
 メール
 本館
 更新


     これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --

       第二章 同門、妙信講の主張

     
「事の戒壇」は「国立戒壇」であるという主張

  
国立戒壇の建立は全民衆の要望によって成就

 妙信講の人達が配布している「顕正新聞」などの主張で、私達創価学会員のみならず、創価学会員以外の人達にも関心をもたれている一番大きなものは、“国立戒壇”ということではないだろうか。
 池田会長と創価学会にとって、国立戒壇という言葉は、現在
タブーになっている。過去数年間、あらゆる機会をとらえて、“事の戒壇国立戒壇説”を否定してきた。

 しかし十年前からの創価学会員ならば、かつて池田会長も創価学会幹部も、さかんに国立戒壇と言っていたのを記憶しているはずだ。前章において数例引用したと思うが、ここでその代表的なものを二つほど参考に供する。(略)

 「
過去の戒壇をみても、東大寺を始めとして唐招提寺(奈良)の小乗の戒壇、ならびに比叡山延暦寺の迹門の戒壇も、ともに勅命によって建立されたものである。当時の仏教は、社会の上層階級たる貴族の間にのみ行なわれていた貴族仏教であったから、このように上からの決定により、戒壇が建立されたものと思われる。
 もしも日蓮大聖人の仏法、すなわち三大秘法の南無妙法蓮華経における国立戒壇が、現在の状態で国家権力によって建立されたとしたらどんな結果になるであろうか。たとえ国立の戒壇が建立されたとしても、一般の人々は無信仰であり、無理解である。かかる状態で、たんに国家がこれを尊重するとするならば、現今の皇大神宮や明治神宮のごとき扱いをうけるであろう。(略)
かかる日蓮を用いぬるとも、あしくうやまはば国亡ぶべし』(種種御振舞御書九一九頁)との御聖言のように、国民の謗法によって、かえって国に災難がおこるであろう。
 国立戒壇の建立が、全民衆のやむに止まれる要望として、声として、政界に反映され、政界もまたこれに賛同してごく自然の形で、ごく当然のこととして戒壇が建立されねばならないのであるという。これこそ真の民主主義の実践であると主張している。これは、国立競技場、国立美術館、国立公園、国立劇場などが、すべて民衆の要望によって建設され、民衆のものとなっているのと同じである。
 国立戒壇の建設は、国家のため、いな全人類救済のために建立されるものであって、日蓮正宗のため、はたまた創価学会のために建立されるものではないのである。ゆえに国立戒壇を建立するためには、その大前提として、あやまった本尊を破折し、正しい御本尊の流布が徹底的になされなければならないのである。
 こうして建設された本門戒壇こそ、末法万年尽未来際にわたって、永遠に民衆を救済しきってゆくものであるといわれるのである。したがって、国立戒壇の建立は、あくまでも全民衆の要望によって成就されるものであることを、主張しているのである
」(「日蓮正宗創価学会」)

                       ( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加 )


 ここで下山氏が引用する「日蓮正宗創価学会」という書は、わたしは所持していないのですがおそらくは小平芳平氏の編纂になるものでありましょう。
 こうした意義を持つ「国立戒壇」であればこそ、創価学会員たちはけなげに寝食も忘れ、「地涌の菩薩」の自覚を胸に秘め、三大秘法の折伏弘通に励んだことでありました。

 しかして、「
仏弟子等必ず仏法を破るべし」(佐渡御書)の御金言虚しからず、というべきでしょうか。
 池田会長は自己保身と政治野心のため、「なりふり構わぬ強弁」を以て「一貫性」のない「目先の都合」で「クルクルと変わ」る「“国立戒壇”否定」の「嘘言症的言辞」を重ね、ついには「
あくまでも全民衆の要望によって成就」すべき御遺命の「事の戒壇」の意義を歪曲し、政府照会に偽りの回答を為すのみならず一部信徒のみで私的に建てた正本堂を、妙信講の諫めあるにもかかわらず、無懺にも「御遺命の成就」・「仏教三千年空前の偉業」と偽ったのでありました。

                        ( 平成十四年六月五日、櫻川 記 )


            戻る  


「 御遺命守護資料館 」サイト運営責任者 櫻川 忠