顕正会の崩壊は近い


浅井会長の実現不可能な「誇大妄想」を直視しよう!
 

 

      池上宗仲・宗長について


 「日蓮誕生」(江間浩人著) は、これまで見過ごされてきた、"新たな視点"を数多く提示している。今回は、"池上宗仲・宗長" について見てみよう。

 池上右衛門大夫志宗仲は、武蔵国千束郷池上に在住した大聖人の有力檀越である。弟は、御馬番として将軍家の "大事の御馬" の管理をつかさどっていた池上兵衛志宗長であり、池上兄弟と称される。
 宗仲の父は、鎌倉幕府の引付方に属する十三奉行の一つ "作事奉行" をつとめたと伝わる、池上左衛門大夫康光である。康光は将軍家の近臣で、将軍・頼経の上洛に随行しており、春日大社参詣の将軍の輿の衛兵に康光の名が見える。(「誕生」p69)
 母は伊藤(印藤)二郎左衛門尉祐照(と妙一尼)の娘で、母の弟が成弁阿闍梨日昭、妹が妙朗尼である。宗仲にとって、弁阿闍梨は叔父であり、従兄弟に大国阿闍梨日朗と肥後房日像がいて、妙一尼は祖母である。
 
 父・康光は、極楽寺の良観房忍性の信者であった。忍性の策謀によって、宗仲は父から法華信仰を捨てるよう迫られ、建治二年・同三年の二度にわたり勘当された。勘当に際し、二人は「兄弟抄」( 建治二年四月 池上本門寺 )をはじめ、大聖人から多くの御抄を給わっている。
 宗長は、父に従うか、兄と共に法華信仰を貫くか、煩悶した。「たゞしこのたびゑもん(右衛門)の志(さかん)どの(殿)かさねて親のかんだう(勘当)あり。..(略).. ひゃうへ(兵衛)の志殿をぼつかなし、..(略).. 今度はとの(殿)は一定をち(落)給ひぬとをぼ(覚)うるなり」(「兵衛志殿御返事」 建治三年十一月 妙覚寺 )。
 
 「えもんのたいう(右衛門大夫)のをや(親)に立ちあひて、上の御一言にてかへりてゆり(許)たる」(「四条金吾御書」建治四年一月 )と。
 父から勘当されていた宗仲は、「上の御一言」で許されたという。 先の「四条金吾頼基について」でも見たように、ここで「上」とは将軍家に他ならない。
 池上氏は「康」が通字で、 宗仲の名は当初は康仲だった。関東の工匠らが将軍・宗尊の命令に従わなかった際、将軍は康仲に工匠らを説得させ、その功を賞し "御諱" の一 字 "宗" を与え、宗仲としたという。弟の宗長も、同様であろう。(「誕生」p69)
 
 宗仲の最初の勘当は、建治二年四月とされ、同年中に許された。再度の勘当は、建治三年十一月で、翌・建治四年正月に許され、父も大聖人に帰依した。「良観等の天魔の法師らが親父左衛門の大夫殿をすかし、わどのばら二人を失はんとせしに、殿の御心賢くして日蓮がいさめを御もちゐ有りしゆへに、..(略).. 兄弟の御力にて親父を法華経に入れまいらせさせ給ひ」(「兵衛志殿御書」弘安元年九月 池上本門寺 )と。
 池上家の家督問題は、日蓮門下(教団)にとって、大きな問題であった。「えもん(衛門)のたいうどの(大夫殿)のかへせに(改心)の事は、大進の阿闍梨のふみに候らん」(「弁殿御消息」 建治二年七月 )と、大進阿闍梨が大聖人の命を受け対応に当たった。大進阿闍梨は弁阿闍梨に、坊の"譲状"を残している。(「誕生」p9)
 
 ちなみに、大進阿闍梨と熱原法難で落馬した大進房、この二人は同一人と思われて来た。
 しかし最近の研究では、別人説が定説となって来ている。房号と阿闍梨号は別であり、大聖人の筆に両者(大進阿闍梨と大進房)の混乱はみられない。大進房はそもそも日蓮門下でもなく、はじめから滝泉寺院主代・行智側の人であっただろう。
 顕正会では「日興上人より上座に座っていた "大進房" が云々」と、御書講義で浅井昭衛会長が語っていたことを、小生はよく覚えている。
 
 大聖人の周辺・教線には、将軍家の近臣が多く存在した。そうした視点で御抄を読み直せば、また違った "鎌倉の光景" が立ち現れて来るだろう。( 令和5年5月30日 櫻川記 )