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    《特別手記》 仏法の破壊者 --- 池田大作を裁く

   妙信講の必死の諌暁

 妙信講は諌めた。仏法の破壊されるのを見て黙止していれば大聖人への不忠になる。また仏法が曲がれば国が傾く。さらにまた学会員は功徳を失う。このゆえに妙信講は敢然として諌暁を開始したのである。

 まず昭和四十五年三月二十五日、「正本堂に就き宗務当局に糺し訴う」の一書を日蓮正宗宗務院と学会首脳十二人に送った。
 四月三日、本山から妙信講の代表に呼び出しがあった。処分されることも覚悟して登山した代表に細井管長は、「
よくぞ書けた。これこそ日蓮正宗の伝統教義そのままである。国立戒壇は当たり前、私を守ってくれるのは妙信講だけである」と思いもかけぬ賞嘆をされ、それまで学会の圧力によって妨げられていた妙信講の本山登山さえ直ちに許可されたのである。天にも登るような気持ちで私たちは下山した。

 だが四月十六日、細井管長は東京常泉寺に下向し、再びわれわれを呼び出された。話の内容は先日とは打って変わり「
国立戒壇をいうと日蓮正宗はつぶされる。妙信講は国立戒壇を捨てよ」というものであった。共産党・谷口代議士の質問趣意書を読み上げながらの説得であった。
 学会の圧力によること歴然である。だが道理を尽くしてお話し申し上げるうちに、細井管長は「
これから学会の代表に会うから、誤りを訂正させる」とまで約束された。

 そして翌朝、細井管長から私に電話があった。それは再び前言を翻すものであった。メモを取るように命じ、
 一、
日蓮正宗を国教にすることはしない。
 二、
国立戒壇とはいわない。
 三、
正本堂をもって最終の事の戒壇とする
 四、
今がすでに広宣流布である。ゆえに事の戒壇も立つのである。
という四箇条を読み上げ、これを五月三日学会の本部総会で発表せざるを得ないから了承するように、との内容であった。
 そして「
これは管長としての命令である。こうしなければ、もういまの宗門の統率はできない」ともつけ加えられた。私は「仏法のため、猊下のため、承服いたしかねる」とお答えしたが、結果は前述のように「国立戒壇の名称不使用」の公式宣言となったのである。

 すべては学会の圧力たることは見えすいている。学会を抑えなければ、根本の解決はありえない。よって妙信講は五月二十九日、細井管長の面前で、学会代表と論判することを求めた。
 学会代表は秋谷・森田、和泉の三副会長であった。表面に出ることを強く避けていた学会も、ことの重大さを感じて出てきたのである。激しい論判になったが、学会側はついに理につまった。これを見て細井管長は「
正本堂は御遺命の戒壇ではない。また未だ広宣流布は達成していない」と明言し、学会に従来の歪曲を訂正するよう望んだ。

 学会から見ればこれは細井管長の裏切りである。三人の代表は憤然として席を立った。だが妙信講を前にして、あえて管長に逆らうことの不利を感じたのか、六月十一日、後らは細井管長に“
二度と歪曲をいわない”ことを改めて約束したのである。妙信講は学会のこの約束を将来にわたって確実にするため、文書による確認を求めた。学会は強くこれを拒んだ。

 かくて、確認書をめぐり、妙信講と学会は早瀬総監ら宗務役僧立ら会いのもと、その後数回にわたり討論を重ねたが、ついに学会側が折れ「正本堂を御遣命の戒壇とはいわない」旨の文書を作成、両代表が署名し、細井管長のもとに納めた。時は昭和四十五年九月十一日であった。だが、学会の不誠実は間もなく露呈した。表面だけは訂正したように見せかけ、陰では依然として従来の歪曲をくり返していたのだ。

 これを見て妙信講は直接池田会長に宛て、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の一書を送り、その不誠実を詰(なじ)った。


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