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     《特別手記》 仏法の破壊者 --- 池田大作を裁く

   池田大作、訓諭を発布せしむ

 池田大作は宗務役僧を使って種々弁解をさせ、妙信講の憤りを和らげようとしたが、それが通じないと見るや、開き直って細井管長に「訓諭」を発布させた

 「訓諭」とは、一宗を教導するための最高の指南である。これをもって「
正本堂は御遺命の戒壇となるべき建物」と規定させたのである。
 管長の権威を障壁として、ほしいままに教義を曲げる池田大作を見て、妙信講は一対一の公開討論を申し入れた。だが彼は、“
細井管長が許してくれないから”との理由で、管長の文書を添えて拒否を通知してきた。

 もはやこれまでと、妙信講は全学会員にこれを知らせんと、青年部が各寺院前で文書を配布した。事態は緊迫してきた。
 間もなく宗務院から、“
公場対決申し入れを取り消し訓諭に従わぬ以上、妙信講を解散させる”との文書が送られて来た。しかし、宗務院は自らの信念で事を処しているのではない。学会の傀儡にすぎない。
 したがって、おどしをかけながら、妙信講の正論と気魄に接するや、肝を消し、早瀬総監ら役僧はかえって辞表を細井管長に出す始末となった。

 事態の収拾に、細井管長は昭和四十七年七月六日、東京妙縁寺に自ら下向し、妙信講の代表を呼ばれた。池田大作の依頼を受け、何とか説得せんとしたのである。
 だが、説得にこられた細井管長は、長時間の話し合いの結果、妙信講の申し出を入れ、「訓諭を訂正する」とまで約束し、ついには学会と対決する決意すらほのめかされたのである。これまた学会からみれば重大な裏切りであろう。

 これを知った学会は、あわてて管長に圧力をかけ、訓諭の訂正文発表を不可能にしてしまった。約束の不履行を説明するため、再び妙縁寺に下向された細井管長は、妙信講に「
もう私にはどうにもならない」と嘆かれた。
 そこで妙信講は細井管長に、学会代表との正式討論を願い出た。ここに本格的論判が始まったのである。場所は東京・常泉寺、学会側の代表は秋谷副会長、原島教学部長、山崎正友弁護士であった。

 火を吐くような論判七回、ついに学会は誤りを認め、聖教新聞紙上に訂正文を載せることの余儀なきに至った。妙信講の必死の闘いにより、辛うじて御遺命の正義は守られたのである。
 時に昭和四十七年十月三日であった。これで学会が誠実に事を処すれば、すべては円満に解決するはずであった。


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