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             破邪新聞 昭和五十年一月二十四日号 (第4号)

             特集 妙信講 デマと歪曲の数々
    特集1  猊下の御内意をかたる大謗法

 
元妙信講浅井昭衛は、自分達の主張を正当づけるために、“猊下から内々に真意をうけたまわった。それによると、猊下の公の発言は真意ではない”ということをさかんに述べ立てております。まるで禅宗の“教化別伝″みたいな言い方です。

 しかし、これはとんでもない大謗法の行為であり、仏法に対する冒涜、これに過たるはありません。浅井の云うとおりだと、およそ、一宗の管長たるものが、世間や宗内をあざむく虚偽の公式発言をしたということになります。
 宗祖大聖人以来、法灯連綿、血脈相承を受け継れた御法主上人猊下が、何でそのような無責任なことをされるはずがありましょう。

 浅井昭衛は、昭和四十五年四月以来、七度にわたって、猊下から、“国立戒壇が正しい”と直に御内意を伺ったと云っております。
 しかし、猊下にお伺い申し上げたところ、そのようなことをおっしゃっていないとはっきり申されております。当時側近くおつかえしていた僧侶たちも、同じく申しております。

 そもそも浅井の言うところの“御内意”とは浅井以外のだれもきいておりません。そして猊下御みずからも否定されています。総監とか、お仲居とか、或いは総講頭、委員長といったお立場の人ならいざしらず、当時の浅井のごとき立場の者に唯一人だけ特別の御内意などあるはずがないことは、少し考えればわかることです。万々一個人的なお話しのとき、そのように誤解したとしても、後に公式発言があれば、信者としてそれに従うべきです。

 浅井が国立戒壇云々をたてに宗門にたてつきはじめたのは昭和四十五年前後からです。いわゆる言論問題の嵐のさ中にあって、宗門が苦しんでいる折りを見はからい、内部に争いを起こして主導権をとろうとのこんたんが見えすいていました。将来のためには、この際妙信講に対し断固たる措置をとるべしとの意見もありましたが、しかし、内外ともきびしい状勢にあって、猊下も宗務院も何とか騒ぎを起こさないようにと必死の御配慮を重ねられ、浅井父子の思い上った、非礼な態度にもかかわらず異例と思われるほどいろいろとていねいな説得の手を冬くされたのです。非常手段をちらつかせながら執拗に傍若無人に迫る浅井父子に対し、何とか説得しょうといろいろ包容もされました。それは、断続的に、昭和四十七年八月まで続きました。

 しかし、いつの場合も、公式の発言はまったく間違っていたなどと申されたことは一度もないし、申されるわけがありません。
 ことに、昭和四十七年七月においては、浅井らは、正本堂への御本尊の御遷座を実力で阻止すると称し、“流血の惨をおこす” “学会と宗務院をやっつけて、自分達も一足先に霊山へ参る”等と言って宗門を脅迫しました。猊下としても「弟子を殺す」という趣旨のことを言われ、又、世紀の大慶事を血で汚す、などと言われて大層心痛され、ついに、最後の手段として、七月六日、自ら妙縁寺に乗り込まれ浅井父子を説得されたのです。

 この時、猊下は浅井父子に対し、冒頭から語気も鋭く、“殺すなら私を殺しなさい。一切は私の判断であり、私の責任でしていることだ”と一かつせまられ、辞世の句を読んでみせたのです。猊下のこの気迫と御決心に浅井父子も打たれたとみえてその場は折れて、結局、訓諭の意味をより明確にする、訓静の解釈を出すということで、以後、一切宗内を乱す行動をしないと約束しました。

 ところが、宗務院において、その旨の解釈文をつくり、念のため一部を浅井に見せますと、浅井の方は“これでは不服だ”と、こともあろうに“御遣命の戒壇は、正本堂とは別に建物を建てる”という、訓諭を召定する内容に直すよう要求して来ました。そして、講中には、ひそかに“猊下に訓諭の訂正をさせ、大日蓮に載させるから、それを使って学会を攻める”と、作戦を指令していたことが判明しました。
 勿論、宗門としては、浅井のいうような内容の文を公表できるわけはありません。
 ことここに至って、猊下もさじを投げられ、最後に学会側と妙信講との対決討論に望みをつながれるに至ったのです。

 以上が真相ですから、昭和四十九年十二月十日付顕正新聞二面掲載の松本日仁の上申書にある如き、“猊下が訓諭の訂正を約束し、学会の圧力に届せぬ決意を辞世の旬に示した云々″ということは真赤な嘘であり正反対のすりかえであります。よくもここまでぬけぬけとうそが言えたものです。
 猊下は逆に、浅井父子の暴力を背景とした圧力には属しないぞ、という証しとして辞世の句を示されたのであります。このときの説得の内容に閑しては、立ち合いの証人も、又証拠も有ります。浅井の云うことに従うなら、何で“殺すなら私を殺しなさい”といったり辞世の句をもってのぞむ必要がありましようか。

 又、浅井が、訓諭の訂正をした解釈文をもらった等と、デマ宣伝をしていますが、そのような事実はなく、あったら出してもらいたいものです。おそらく、先に述べた解釈文の文案をさしていっていると思われますが、これはあくまで訓諭の解釈であって、訓諭を否定するような内容は絶対にありません。

 とにかく、浅井父子の横暴にどれほど猊下がお苦しみになられたか、はかり知れません。それにもかかわらず、何とか救ってあげようと温情をたまわった猊下に対し、今なお、御内意をかたり、松本や八木等の名を借りて非難中傷を加えるとは、忘恩もここに極まれりという感がいたします。
 猊下は、“私の云うことですら平気で歪曲するのだから、だれが会っても利用されるだけで無駄だ”といわれ、今後一切会う必要はないといわれているのです。

 温情を逆手にとり、猊下の権威すら利用して野心をとげようとする者に対し、宗門のとった処分は当然といえましよう。



 
まことに、デマと歪曲の数々「よくもここまでぬけぬけとうそが言えたもの」とは、このことでしょう。自らは、盗聴までして「日達上人の本音」を聞いておいて..。

 後に山崎氏自身が 『
実質は、それが日達上人の本音であったのだが、創価学会にとっては、はなはだ困る本音であった。「訓諭は、前の半分は私の気持のとおりだが、後半は私の本意ではない」、「いまさら取り消せないので、内容を打ち消す解釈文を出す。正本堂は、将来までいかなる意味でも御遺命の戒壇と断定したのは行き過ぎなので、そのむね解釈文ではっきりさせる」、「解釈文は、出す前に浅井に見せる」、「口でいくら国立戒壇を言ってもよい。口で言うのは何を言ってもよいが、文書にするのはまずい」 こうしたお言葉がボンポンととび出し、浅井父子は、小おどりして帰っていった』(盗聴教団)と述べたことでした。

 そして山崎氏は破邪新聞において無慚にも、すこしも身命を惜しまずして御遺命を護らんとの一念で “
御遣命の戒壇は、正本堂とは別”なる旨、赤誠を尽くして一筋に猊下をお諫め申し上げる妙信講を、「猊下の権威すら利用して野心をとげようとする者」などと罵ったことでありました。


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「 冨士大石寺顕正会の基礎知識 」サイト運営責任者 櫻川 忠