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破邪新聞 昭和五十年一月二十四日号 (第4号)
特集 妙信講 デマと歪曲の数々
特集6 誠意を踏みにじる変質者
顕正新聞昭和四十九年十月十日号二面写真の説明に、『大聖人の御遺命と妙信講解散の理由を問われ、二時間にわたって立ち往生、ついに震え出した阿部信雄』。との記載があります。
阿部教学部長、並びに当日居合せた人達に取材しました。
阿部教学部長の話
「勤行が終り、ふりかえったところ数人の青年が足元まできていてとりかこみ、議論をふっかけてきました。私は、青年は多分純粋に考えているだろうから、話してあげればわかるかも知れないと考え、約二時間、その場で話し合いました。法義の問題は一々破折しました。そのうち何人かの青年が、私に答えさせずあちこちから関連のないことを交互に発言するようになり、何回か制止してもやめないので彼らにはまじめな話合いの意図はなく、いわゆる“つるし上げ”に来たのだな、とわかり、切り上げました。途中で、その中の純情そうなのが一人急に土下座して、『浅井先生と話して下さい。おねがいです』。といい出し、仲間から、よせよせと止められる一幕もありました。しかし、“立往生”とか“ふるえ出した”とかいうのは、全くの歪曲で、本当に不愉快です。これではまるでルールもなにも無視して人を侮辱したり見下すことをたのしみにする変質者のやり方であり、言論の暴力です。なまじ親切な気持ちを起こして話し合ってあげればこのように書かれるのですから今後話し合うことは止めます。だいたい浅井という人が何事も都合のよいように歪曲する人だから、弟子までも同じようにするのですね。こんなことをしているから、だれも話合手にしなくなり会うことを断わられるのは当り前であり、そのことを「逃げた」などという資格は彼らにはありません」。
居合せた人達の話(総合)
「勤行が終ると、変な青年達が阿部先生の足元に待ちかまえていて、とりかこむようにして話しかけた。阿部先生は、にこやかに堂々と応待しておられた。私達は心配なので十数人で囲りをとりかこんで見守っていた。青年達が余り、ばかげたことを言い、阿部先生にやりこめられるので囲りから思わず笑い声が上った。何回かそうしているうちに、青年達は血相かえてふりかえり、“うるさい。生命がけでやっているのになぜ笑う”とどなりつけた。しかし、おかしいものはしかたがないでしょう。だれかが心配して警察に電話したらしく、警官が来たが、彼らはそれをみて少しおとなしくなった。当然の措置でしょう。阿部先生は終始堂々としており、父親が子供をさとすように話されていた。何とかしてやりたいとのお気持が感じられた。決して立往生とか、ふるえていたということはない。それをあんなふうに書くとは、本当に恥知らずだ。これに対し、青年達はまともな議論はできず、ただ教えられたことをおうむがえしに云いつのるだけで、およそ話し合いなどというものでない。いつでも証人に立つ。だいたい御僧侶に対する礼を失した連中で、処分されるのも当然だと思う」
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阿部師の 「だいたい浅井という人が何事も都合のよいように歪曲する人」なる非難こそ、まずは自らの<法義歪曲>に向けるべきでありましょう。
阿部師の凄じい、三大秘法抄の御金言破壊をふりかえれば、
「王法」を“あらゆる社会生活の原理”と歪曲し
「王臣」を“民衆”とたばかり
「有徳王」を“池田先生”と諂曲(てんごく)し
「勅宣・御教書」を“建築許可証”とたばかり
「霊山浄土に似たらん最勝の地」を“大石寺境内”と偽り
「時を待つべきのみ」を“前以て建ててよい”とたぶらかし、
以て国立戒壇を否定して、正本堂の誑惑を正当化せんとしたことでした。
この誑惑・歪曲を問われたが故に 「二時間にわたって立ち往生、ついに震え出した」ことではなかっただろうか。
阿部師にあってはその後もかかる顕正会の批判に応えることはできず、ついに、「その当時は、私達もそのような空気の中に巻き込まれてしまって、(略)今、それは大いに反省しております」( 全国教師指導会、平成三年一月十六日 )と述べ、
また 「顧みれば、あの当時、正本堂を何とか御遺命の戒壇として意義づけようとする池田会長と学会大幹部の強力な働きかけや、妙信講の捨て身の抗議があり、(略)
しかし、今顧みれば、あの時の『正本堂は広宣流布の時に三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇となる
』という趣旨の教学部見解は、宗祖大聖人の御遺命たる本門戒壇の正義よりみれば、適当でなかったと思います」( 平成三年三月九日付の回答書 )と述べざるを得なかったことでした。
しかして 「誠意を踏みにじる」とは、二度に渡る妙信講との論判の結果をまとめた「御報告」(確認書)を、二度に渡りふみにじった創価学会・池田会長でありましょう。
そしてその池田氏の元、妙信講対策の一員として宗門から名を連ねていたのは、ほかならぬ阿部師であったことでした。
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