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国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( 国立戒壇以外の戒壇建立がわが国で
不可能であったことは歴史的事実 )
これまで述べた通り、国立戒壇という呼称や思想が、明治三十年代以後の、国家主義的思潮が盛んになった時代背景の中で生れたものであり、戒壇史の上からも国立ということが戒壇建立の必須条件ではないことが明らかになったと思う。
しかるに、今日なお、大聖人御遺命の戒壇は国立なりと主張する人々があるが、その論拠と内容は如何なるものであろう。
実は、一般的に過去において国立戒壇を論じ或はその名称を使用した人々も、ほとんどは、只抽象的に、いつの日か天皇や権力者が帰依し、日本国中に広まる時がくる、その時、天皇の発願で立てられると、はるか彼方の夢の中のような宗教的願望を述べていたにすぎないと思われる。
現実の問題として、国家における権力というものとの関係をくわしく分析した上で、具体的な方法論として述べたものは皆無といってよい。厳密にいえば、これらは“論”とはいえないであろう。
立宗以来、今を去る二十七年前まで七百年近くの間、日本国の国主は天皇であった。その間の宗教と、政治権力の現実の姿は、時の最高権力者を動かさなければ、戒壇建立も不可能な状態にあったことは歴史的事実である。そのような社会的背景の中で、微かな教勢のもとに各々の時点において戒壇を考えるならば、皇室を中心とする社会機構としての考えを持つことは当然である。
(歴代先師の中には、戒壇建立について言及された方もあるが、その表現は慎重を事とされ、ことに具体的な予定等にはまったくふれられていない。これは、その時になってみなければわからないという要素が多いことを深慮されたからであろう)
さてここで阿部教学部長は、重要な「歴史的事実」を述べています。「現実の姿は、時の最高権力者を動かさなければ、戒壇建立も不可能な状態にあったことは歴史的事実である」と。「時の最高権力者を動かさなければ」とは、要は法華本門の“戒壇建立”が国家的事業(国立戒壇)にほかならないことだと、宗門においても世間においても考えられて来たことを、意味していましょう。
されば、「いかに云うとも、相模守殿等の用ひ給はざらんには、日本国の人用うまじ。用ゐずば、国必ず亡ぶべし」(種種御振舞御書)と。
かつての富士門流の僧俗一同は、異体同心・一国同帰・本門戒壇建立・立正安国を願い、各々の時代にあって・いささかなりとも“力”あるならば、分々に応じて“国家諌暁”に立つべく、こころざして来たことでした。それは、上代の興師・目師から幕末の霑師の事跡に至るまで、たしかな歴史的事実でありました。
さすがに韜晦の達人たる阿部教学部長も、宗門史における明白な“事実”までは否定できなかったのでした。
しかるに昭和四十五年五月、創価学会による“自業自得果”の言論弾圧問題と池田会長への国会証人喚問要求という“異常事態”のさなか、突如として宗門にあっては「国立戒壇放棄」の、いわゆる“公式宣言”がなされました。
この時は、日蓮大聖人・御遺命の戒壇の<意義>について、政府から照会されるという“千載一遇”ともいうべき機会でありました。しかるに創価学会は、御遺命の「本門の戒壇」は国家や最高権力者とは一切・無関係な問題であり、“私的”に一教団の信者の総意と供養を以て建立するものである、と回答したのでした。そしてそれが、つまるところ「正本堂」であるのだ、と。
こうして日蓮正宗・七百有余年来の宗史において、宗門僧俗の<願い>が「国立戒壇建立」にあったことを、やむなく・かりそめの如く触れたものの、ここから阿部教学部長の詭弁とスリ替えの面目躍如たる誑惑が展開されるのでした。
今日まで富士の僧俗が国立戒壇を熱願してきた・否定し得ぬ宗史の意義は、阿部教学部長により、外部的な「社会的背景」と「微かな教勢」とに帰着・由来され、矮小化され・愚弄され、歴代先師も含めて「田中智学の亜流」と罵られ、否定・排除されることになるのでした。
自宗の七百有余年の宗史に“誇り”が持てないのであれば、阿部氏はさっさと教学部長の職など辞して還俗し、学者にでもおなりになればよろしかったでしょう。
( 平成十五年一月二十四日、櫻川 記 )
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