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国立戒壇論の誤りについて
四、国立戒壇論における国家観の誤謬
( 三大秘法抄にいう“王法” )
それでは、三大秘法抄にいう“王法”は、どちらの意味に解すべきであろうか。
王法という言葉、そして、別に、権力の主体者そのものを表わす王という言葉が存在することからも、本来的意義は“王の法”であり、王そのものと同義に解することは、例外的な転用というべきであろう。
まして、“仏法”という“法”と対置しての用法であり、又、“冥ずる”という言葉の意味との関連からも、権力主体者そのものを指すとは考えられない。
従って、“王法”とは、東洋的国家観、帝王観の伝統をふまえた上での、王の法、即ち王のなす政治内容(先に述べた、具体的な法令という次元から、政道、王道、政治姿勢といった、より理念的、原理的次元にわたるところの)を意味するものと解明すべきである。
この王法、即ち王の法が、近代政治学上の概念である“国家の統治主権”と同義であると解することは明らかに誤った独断である。(もちろん、主体である王そのものと解しても、抽象的な統治主権と同じということはなおさらいえない)
今日における国立戒壇論者(以下単に国立戒壇論者という)は、前後の論より推察するに、国家法人学説ないし国家主権説の皮相的な理解
(おそらく、原口雅行氏著「やさしい政治学」程度の初歩的な入門書の学説紹介によったものであろうか)
の上に立って、かかる論をなしていると思われる。
政治学の上から、近代国家を論ずる場合の「主権」という言葉には、種々な意味が含まれている。
一つには、国民主権(主権在民というも同義)君主主権という場合の「主権」とは、“国家の政治のあり方を最終的に決める力”をいう。“国家における最高の意思”とも“最高の権力”とも言いかえられる。
(だから、念のために付言するならば、君主主権の時代に、だれが王か国主かということは、即だれが主権者かということと同じであったといえよう。また、国民主権の時には、最高権力性という点から論ずれば、王、国主は国民であるといえようし、又、国民主権の時代に主権のない王室、皇室が存在しても、それは、君主主権の時のそれとは、本質的に異なるものであるということを充分認識しなくてはならない)
「三大秘法抄にいう“王法”は、どちらの意味に解すべきであろうか」と、阿部教学部長は自問します。その“どちらの意味”の問いとは、「政治内容」か「王そのもの」か、ということでありました。
そして阿部教学部長は、「権力主体者そのものを指すとは考えられない」と、まずは「王そのもの」を排除して、一方の「政治内容」の辺のみに限定をするのでした。その上で、その政治内容をして「“国家の統治主権”と同義であると解することは明らかに誤った独断である」と、自答をするのでした。
その論拠をみれば、「王法という言葉」と「王という言葉」が存在することから、“王の法”と“王”とを、「同義に解することは例外的な転用」であって”例外的な転用”だから“王”の義は排除すべきだ、とするのでした。阿部教学部長自身が先に、「“王法”は二通りの意味に用いられている」と、“例外的な転用”などでなく<二義>あることを明示していたではなかっただろうか。もしここで“例外的な転用”だとするなら、それは自語相違となりましょう。
<二義>あればこそ「同義」ではないということ、あまりにも当然でありました。それがどうして、「王そのもの」を排除する論理たり得るのでしょうか、不可解な根拠(屁理屈)でありました。
次に挙げる論拠は、“王法”は「“仏法”という“法”と対置しての用法」だからだ、というのでした。釈尊の仏法・大聖人の仏法に、それぞれ「人」と「法」の側面があることは、阿部教学部長も認められることでありましょう。そしてまた、「王」と「政治内容」とはすなわち王法における、「人」と「法」の側面に異なりません。皇室の義における王法・実権者の義における王法に、それぞれやはり「人」と「法」の側面があって、仏法においても王法においても「人」を離れて「法」はなく・また「法」を離れて「人」はないことでありました。
では阿部教学部長の<論法>を、ここでご自身に適用してみましょう。<法>というタームに固執して「“仏法”という“法”と対置」するが故に、“王法”から“王”を排除せよとする阿部教学部長の<論理>は、その帰する所
“仏法”という“法”と対置したとき、ついには“仏法”から“仏”を排除せよと主張すること、と等価の謂いようとなることでありましょう。
最後の論拠は、「“冥ずる”という言葉の意味との関連からも、権力主体者そのものを指すとは考えられない」、というものでした。これだけではよく意味がとれませんが、「王法と仏法」という”法”の面であればこそ「冥」合が成立するが、「王と仏」という“人”の面ではむしろ「顕」合になってしまうではないか、阿部教学部長はおそらく“そう云いたい”のでありましょう。阿部教学部長は“王法”に「人」と「法」の側面があることを、ちゃんとご存知なのでありました。
王法と仏法はもとよりまったく異なる“法”ですが、社会秩序を維持する王法の理念の根底に仏法が“規範”とされる辺をして、大聖人は王法が仏法に“冥じ”と称せられたのでありましょう。淳師の指南を聞けば「冥じとは、各々其の目的は異なつてをつても、その意が契合してをることでありまして、即ち政治を行う法が仏法の正しい教法の意に契合すること」、と。
そうした“法”の面での「冥じ」をもとより前提とされた上で、さらに「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ち」(三大秘法抄)に加え「勅宣並びに御教書を申し下して」(同)と、一国同帰・広宣流布の暁には“王法”の「人」の辺において、“顕に”国家的に三大秘法を受持することをして「本門の戒壇」建立の要件とされたことでありました。
その“王臣万民一同”の信仰が事相に顕発し、国家的に三大秘法を“受持”するの辺を以て“合して”と称せられたのではないでしょうか。加えて、その厳しい要件を満たすまでは、「時を待つべきのみ」(同)と。ふたたび淳師の指南を聞けば、「王法の規範となり得る仏法こそ、王法に契合することができます。それを合しと仰せられる」と。もちろん「人」の辺においても、“王”と“仏”とは、而二にして異なる存在・機能でありました。
そうした“王”と”仏”の而二にして不二なる関係を、「就中・仏法は、王法と本源躰一なり」(富士一跡門徒存知の事 )と了解するのがわが富士門徒の伝統であって、それはまた「夫れ国は法に依て昌へ、法は人に因って貴し」(立正安国論)に由来するのでありましょうし、ついに御遺命の「本門寺の戒壇」への事相の帰結・成就を熱願することこそ、上古以来の富士門徒の信心の生粋でありました。
しかるに阿部教学部長はいま、<他義をまじえ>て「政治学の上から近代国家を論」じては、「三大秘法抄にいう“王法”」だけは諸御抄の“王法”と解釈を異にすべきであって、その“王法”からはあくまでも「王」を排除して「理念的・原理的次元」の「政治姿勢」を「意味するものと解明すべき」だ、とここに主張するのでありました。
( 平成十五年二月九日、櫻川
記 )
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