御遺命守護資料館


home

 御遺命
 御遺命守護
 資料室
  顕正会
  宗門
  創価学会
  その他
 談話室
 Q&A
 メール
 本館
 更新


    妙信講との国立戒壇論争

 昭和四十七年の九月に入り、妙信講の浅井昭衛氏らとの六回にわたる話合いが行われました。これは国立戒壇をめぐる、いわば「論争」ともいうべき性格をもっていました。

 だいたいこの論争自体がこちらに有利なはずはありません。昭和四十五年五月三日の総会で、日達上人が国立戒壇を否定されたといっても、今後
名称を使わないと仰せられたのでした。

 また、戸田先生が「
国立戒壇こそ我等にのこされた仏勅であり、我等が政治に進出するゆえんのものは、国立戒壇建立だけが目的である」と述べられています。戸田先生は、正法を根本として国に福運をつけ、平和社会現出をめざしたもので、「国立戒壇建立だけが目的である」というのは、政治進出に私心のないことを表明したものと思います。
 また、池田先生ご自身、参謀室長、総務、いや会長になられてからも国立戒壇建立を主張しているのです。(先生は“
私が会長になってからは国立戒壇とはいっぺんも言っていない”とおっしゃっていますが)

 争点は、正本堂をもって直ちにいま御遺命の戒壇とするのか否か、いま直ちにそうではないとしても、将来、広宣流布の暁にそうなるのかどうか、それは国立戒壇とするのか否か、ということでした。
 学会側を代表して秋谷副会長、山崎正友弁護士、それに私が加わりました。

 少々話がもどりますが、その年(昭和四十七年)四月二十八日に猊下の訓諭が発せられました。訓諭というのは御法主上人(管長)の最大重要の発令なのです。
 その内容は難しくなりますので簡単に申し上げれば、正本堂は御遺命の意義をふくむものであり、将来、広宣流布の暁には本門寺と号して御遺命の戒壇となる。しかし、いまはまだ謗法者が多いので御遺命達成とはいえない、というものでした。

 すでに結論が出ているのですが、そうはいかない様々な事情があったのです。さらに池田先生は、妙信講を抑えるには最後は猊下(御法主上人)にやっていただくしかないと願い出たのです。
 日達上人はそれを受けて、その年の七月四日、東京の妙縁寺で浅井甚兵衛、浅井昭衛父子と対面されて辞世の句までよまれています。「
殺すなら私を殺しなさい、一切私の責任であるから…」とまでさとされたのです。
 まことにいまにして思えばもったいない、有難いお姿と拝します。

 しかし日達上人は、浅井父子に“
あの訓諭は、最初の部分(御遺命の意義を含むという趣旨の内容)は、私が言ったことであるが、あとの部分(将来、御遺命たる本門寺の戒壇となるという趣旨の内容)は、私がやったのではない”といわれ、“さらに訓諭の訂正文を出す、訂正文といってはおかしいから解釈文を出す”といわれ、浅井氏を包容されたのでした(その解釈文は、学会側の意見具申でついに出なかったのですが…)。

 こうした大前提がくつがえっている以上、こちらに有利なはずがありません。悪戦苦闘でした。しかし、先生は私たちをかばってくださり、「
宗門には八分通り勝っているから”と言っておいたよ。わざとよ」と言っておられました。
 まさに決裂かと思う事態にまでいったとき、ようやく
最後に合意点に達し、十月一日付の『聖教新聞』に、理事長談話として発表することになったのです。




 これは、十月一日付の『聖教新聞』の理事長談話に至る経緯を、一方の当事者であった原島元教学部長が明言した貴重な資料です。

 それは「
こちらに有利なはずがありません」、そして「悪戦苦闘」という事情であったことでした。



        戻る   


「 御遺命守護資料館 」サイト運営責任者 櫻川 忠