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創価学会第三十三回総会 池田会長講演
王仏冥合の原理
( 立正と安国の接点は生命の尊厳の理念 )
次に、創価学会より公明党をなぜ誕生させたか、これについて、多少難しい論理になりますが、立正安国・王仏冥合の原理を通して、その意義を明確にしておきたいと思います。なぜなら、立正安国こそ、日蓮大聖人の教えの教導であり、私どもの実践の基本原理であることには変わりはないからであります。
日蓮大聖人の仰せは“安国”を実現するためには、根底に“立正”がなくてはならないということであります。立正とは正法を立てることであり、色心不二の生命哲学をもってする、未曾有の宗教革命のことであります。これは、個人の内面の信仰の次元であります。
安国とは社会の繁栄であり、民衆の幸福、世界の平和であります。立正が宗教の次元であるのに対して、安国は社会の次元であります。
ゆえに、安国の直接的に拠(よ)って立つ理念は何かといえば、それは生命の尊厳の理念であり、人間牲の尊重、絶対平和主義の原理であります。
これらの理念は、宗教のいかんにかかわらず、人種、民族、イデオロギーのいかんを問わず、人類に普遍する理念であります。いいかえると、人間の生存の本質から出てくるものといってよい。一切は、この“人間主義”から出発するのであります。
宗教もまた、この生存の本質たる理念を究明していくものであります。すなわち、この理念を掘り下げ、確固たる実体を与えたのが、日蓮大聖人の仏法であり、それを信ずるのが、私どもの信仰であります。したがって“立正”と“安国”の接点は、これらの理念であり、しかも信仰は、それ自体が直接、社会的な行動にあらわれるのではなく、人格の陶冶(とうや)を通じ、具体的には、生命の尊厳等の理念の反映としてあらわれてくるものでなければならない。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
池田会長は、さんざん「あくまで、本門の戒壇建立とは、大聖人様の至上命令である。そして、わが日蓮正宗創価学会のただひとつの目的であることは、論をまたない。この戒壇こそ、末法万年にわたり、民衆を救済するものであると思う。したがって国立の戒壇建立は、全民衆の要望によって成就されるものであることを忘れてはならない」(国立戒壇の建立と学会員の前途)等と、叫んで来たことでした。
「立正」とは「大聖人様の至上命令」たる「本門の戒壇建立」であり、それは「国立の戒壇」であることを決して「忘れてはならない」のでありました。そして「安国」とは、「末法万年にわたり民衆を救済」することで、それは「立正」によってのみ実現するが故に、国立戒壇建立を「わが日蓮正宗創価学会のただひとつの目的」として来たことでありました。
さて池田会長は、すでにさんざん利用し尽くした「国立戒壇」を、創価学会員たちに<忘れさせ>るために、ここで強引なコジツケとスリ替えを展開するのでした。今回はその池田会長の、コジツケとスリ替えの手口を吟味してみることとしましょう。
まず「日蓮大聖人の仰せは“安国”を実現するためには、根底に“立正”がなくてはならない」とは、ほぼ従来の説の通りでありました。しかしてここでも、はや「根底に」のタームがスリ替えの伏線になっているのでした。
次に「立正とは正法を立てること」は従来の通りでしたが、「色心不二の生命哲学」をもってする「宗教革命のこと」と、徐々に「大聖人様の至上命令たる国立戒壇」からズラして行き、やがては「個人の内面の信仰の次元」とまでスリ替えては、ぬけぬけと「社会的な行動にあらわれるのではなく」と宣うのでした。
「立正が宗教の次元であるのに対して、安国は社会の次元であります」とはその通りでしょうが、日蓮大聖人ただ一人が宗教の次元で「立正」して「個人の内面の信仰」を確立しても、一国が大聖人に対し怨嫉・憎悪して悪口罵詈・流罪死罪等を行っては決して「安国」にならないことは、さすがに池田会長とても認めることでしょう。
日蓮大聖人において「安国」に対応する「立正」とは、一人二人の個人のレベルの「立正」(五蘊世間)にとどまらず、それが一国同帰に至る「社会の次元」(衆生世間)にまで反映・顕現するところの、「破邪」を前提とした「立正」・すなわち「国立戒壇」(国土世間)でなければならないことは、「立正安国論」が<王法>たる国家の為政者・権力者に対して建白されたことからも了解されることでありましょう。
池田会長はその日蓮大聖人の「立正」を隠し・スリ替え・ゴマカし、「生命の尊厳の理念」やら「人間牲の尊重」やら「絶対平和主義の原理」やら「人間主義」等にコジツケ貶めては、韜晦にこれつとめるのでありました。
(
平成十四年四月二十二日、櫻川 記 )
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