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創価学会第三十三回総会 池田会長講演
王仏冥合の原理
( 公明党は安国の次元に立つ )
この原理は、すでに私どもが信仰と生活、仏法と社会の関係として、日々、実践している通りであります。すなわち、社会的活動の次元には、宗教性を持ち込む必要は毛頭ないし、むしろ、直接、持ち込むことは、信心即生活の誤った解釈であり、立正安国、王仏冥合の原理からの逸脱といっても過言ではありません。
したがって、生命の尊厳、人間の尊重、絶対平和主義という普遍的理念をいかにして具体化するかという、“技術”が、政治の次元の課題となるわけであります。われわれが公明党を誕生させたのも、その理念を政治の分野に実現してほしいという純粋な気持ちからであり、その願いは今なお一貫して変わっておりません。
公明党は、安国の次元に立つものであり、立正を問題にする必要はない。むろん、個人として立正を確信することは信教の自由であるが、党としては一切、宗教上の問題を政治の場で論議する必要はない。また、あってもならない。また、宗教上の目的を党の目標とする必要もないし、すべきでもない。あくまでも、現行憲法の定める信教の自由を遵守し、宗教的には中立を貫き、政教分離でいけばよいと思うにであります。
ただし、生命の尊厳を根本に人間性の尊重、絶対平和の実現という理念、理想だけはどこまでも堅持しきっていく政党であってほしい。そのかぎりにおいて、同じ志に立つ人物を、公明党として推薦することにも、われわれはなんら異議はないし、選挙にあっても喜んで応援することもあるでありましょう。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
さて、池田会長の主張では「立正と安国の接点」は、「生命の尊厳、人間の尊重、絶対平和主義という普遍的理念」である、ということでありました。<接点>という以上、それは「立正」にも「安国」にも通ずる<概念>であるはず、でありましょう。
ところが、「社会的活動の次元には宗教性を持ち込む必要は毛頭ない」し、「むしろ持ち込むことは信心即生活の誤った解釈」であり、「立正安国・王仏冥合の原理からの逸脱」になるのだということになると、その<接点>の役割はどこに行ってしまったのでしょうか。
ここを吟味してみればすぐに判るように、池田会長の言う<接点>とはまたもやゴマカシ・スリ換えであって、実は<接点>に非ずして「安国」と「立正」の<切断>であったことなのでした。
こうして「安国」と「立正」を<切断>してしまえば、どうどうと「生命の尊厳、人間の尊重、絶対平和主義という普遍的理念をいかにして具体化するかという、“技術”が、政治の次元の課題となる」と宣うことができ、「公明党は、安国の次元に立つものであり、立正を問題にする必要はない」と嘯くことができるのでありました。
しかしてその理念が<接点>であるにしても<切断>であるにしても、池田会長にあってほんとうにその志があるのならばともかく..なのでしたが、残念ながら池田会長のいう「生命の尊厳、人間の尊重、絶対平和主義という普遍的理念」とは、ただ池田会長一人の「生命の尊厳」であり、池田会長一人の「人間の尊重」であり、池田会長一人の「絶対平和」、ということなのでありましょう。
世界各国から勲章や名誉博士や名誉市民を買い漁る姿、そして妙信講・宗門や共産党やマスコミや政界の与野党に対する池田会長の「振舞い」に、たしかに「池田会長一人」なるそのゆえんが顕れていたことでした。
(
平成十四年四月二十四日、櫻川 記 )
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