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これでも池田大作を信ずるか -- 創価学会の友に訴える --
第一章 信じ難い現実
内容改変
( 正本堂は事の戒壇か否か )
“国立戒壇否定”は日蓮正宗の重大教義歪曲であり、日蓮大聖人の御遺命に反すると主張してきた日蓮正宗の一講中に“妙信講”という団体がある。駅頭などで配布されている「顕正新聞」などで、知っている創価学会員もいるはずだ。
この「妙信講」の代表と、創価学会代表の森田、秋谷両副会長、和泉理事長が、大石寺内で、日達猊下お立ち会いのもとに論争したことがあったらしい。昭和四十五年五月二十九日のことである。論争のテーマは、正本堂が事の戒壇か否か、ということであったらしい。創価学会、妙信講の論争をお聞きになっていた日達猊下は、「広宣流布は達成されていない。従って正本堂は、三大私法抄・一期弘法抄の戒壇ではない」と結論されたという。
この点についての訂正を、日達猊下は、創価学会代表に命ぜられたらしい。この間の事情を、岩崎武氏がこう書いている。
「かくて五月二十九日、日達法主の面前での対決・論争が実現する。創価学会の代表は森田、秋谷両副会長と和泉理事長の三人(池田会長は姿をみせず)。妙信講では浅井甚兵衛講頭と浅井本部長の二人。じっと激論を聞いていた日達法主は『正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇ではない。また広宜流布は達成していない』と明言し創価学会に訂正するよう命じた。事の重大さにおどろいた三人の代表は、『相談のうえ後日あらためて御返事したい』と、その場を退去そして六月十一日、宗務院立合いのもとふたたび同じメンバーで会談、その席上で創価学会を代表して森田副会長は『猊下の御意に随う』ことを誓い、学会発行の出版物等においても二度と誤りを犯さないよう関係者に趣旨を徹底させることを約束した」 (「現代の眼」、昭和48年1月号、岩崎武
『創価学会が内紛を起こす事情』)
その訂正の実を示すために、「創価学会入門」において、カットによる内容改変が行なわれたというのが、どうやら実情らしい。「創価学会入門」を第二の「折伏教典」として、一生懸命勉潰していた私達創価学会員は、これではたまったものではない。自主性のない、池田会長盲信の私達創価学会員の上にあぐらをかいたやり口である。もちろん、私達にも責任のあることだが…。
( 句読・改行等、便の為に当サイトにて添加
)
下山氏が指摘した、昭和四十五年の「創価学会入門」における「不可解なカットの事態」が何ゆえに為されたのかという背景には、こうした事情があったのでした。
これはまさに、妙信講と創価学会との初めての邂逅・対峙であり、この初戦は細井管長が強い指導力を発揮したことで創価学会がやむなく譲歩し、妙信講の意が全面的に汲まれたことでした。しかしてまたこれは、その後の長く険しい創価学会に対する妙信講(顕正会)の、御遺命守護の戦いの緒戦でもありました。
それにしても、既に創価学会は政府に「国立戒壇否定」の誑惑回答を提出し、直前の五月三日の本部総会では「国立戒壇否定」宣言を管長に出させたばかりでありました。
そうした時期において、重要な位置をしめる「創価学会入門」の出版において「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄の御遺命の戒壇ではない」との細井管長の本意を受けて、創価学会が誑惑訂正を実行したことの意義は大きいものがありました。
細井管長は後に、池田会長からは「あっちについたり、こっちについたりしたからだ」と罵られ、浅井会長からは「風にそよぐ葦」と云われ、学者からは「根本教義の問題に関し(略)優柔不断で八方美人的な法主の態度は、妙信講と創価学会の双方に、自己主張の正当性の確信と相手方に対する憎悪と反感の感情を与え、かえって葛藤を長期化させ深刻化させたであろう」(西山茂著、教義解釈の変更をめぐる一仏教教団の葛藤過程)と評せられるのでしたが、このときの細井管長の振舞は正系門家の貫首として最も毅然としたものであったと言えましょう。
さて当サイトも今日でちょうど、開設一周年をむかえました。諸行は無常、諸般の事情によりいつ終わるかわかりませんが、できればもう少し続けて行きたいものです。
(
平成十四年六月一日、櫻川 記 )
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