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     甦るか創価学会 --- 広宣流布路線への提言 ---

 第一部 広宣流布への提言
   日蓮の平和思想(四)
      ● 全人類の戒壇堂へ

   (
拘泥することを日蓮はのぞまない

 
本門戒壇堂は国立である事は 日蓮の胸中の確かなところ。だが現時点で国立という名称が ふさわしくないというなら、何もそれに拘泥することを 日蓮はのぞまないのではないか。
 国立であれ、民衆立であれ、半官半民であれ、一日も早く本門の戒壇堂が建立されて 人々も社会もくずれぬ幸せと歓こびをかみしめることこそ、日蓮のもっとも望みとするところであろう。

 本門の戒とは なんであったか。平易に言えば、日蓮の唱えた南無妙法蓮華経を持つことであって、戒壇という建物のよしあしや、大小を論ずるよりも、より多くの人々のいのちの中に、本門の戒そのものを建立させる折伏行こそ、日蓮門下の急務ではなかろうか。
 本門の戒壇とは 現代的に言えば「日蓮仏法の平和の殿堂」と言うべきであって、それは現在の正本堂のように、一日二回、何時から何時と区切られ、それ以外の時間は厚い鉄の扉に閉ざされ、のぞくことも参拝することも出来ない建物をいうのではあるまい。いつ、どこから、誰れが来ても、自由に参詣でき、心ゆくまで己れの過去の罪障消滅と未来の福果を祈念できる、全人類の大戒壇堂でなければなるまい。そういう時が来てこそ 広宣流布である。

 大正十二年、国柱会の山川智応が、日蓮宗の布教講習会で「本門の戒壇論」を講じたことがあった。本門戒壇思想の発生、本門戒壇思想の成立、本門戒壇思想の興廃、本門戒壇思想の復活と、延々無稿で話すこと六時間におよぼうとしていた。そろそろ終りに近づいたと思われる頃、山川智応は壇上で泣いた。
 本門の戒壇に関して、どのような言葉を何万語述べようとも、本門戒壇とは論理的に追求すべきものではなく、事実の実行によって具現すべきものである。話を聞いている人々が戒壇建立の具体化を目指し、死力を尽す以外に誰れにも頼めないのである。

 それが日蓮宗何派、何々派と日蓮宗が各派を作って相争い、日蓮宗一つ統一出来ないのが、何が広宣流布、何が本門戒壇の建立であるか。山川の言いたかったのはこの辺にあるらしいが、山川の感慨に堪えない言葉と顔に、出席していた 当時日蓮宗を代表する管長や学者、清水龍山、柴田一能、山田一英等、また机に顔を伏して泣いた とのことである。
 まさに 三大秘法抄に示された本門戒壇建立は、論理の追求によって出来るものではなく、地域の友好活動によって生れるものでもなく、みせかけの幸せや平和によって完成するものでもない。

 「
日蓮は泣かねども涙ひまなし」 日蓮が流した何百、何千倍の汗と涙によってのみ、平和の殿堂として建立されるのである。

                        句読・改行等、便の為に当サイトにて添加



 明晰な分析を駆使する、本書の著者・経悟空氏の論理が 残念ながら“空回り”したのは、この箇所でありました。
 経悟空氏は、何度も 「本門戒壇堂は国立である事は 日蓮の胸中の確かなところ」、「日蓮の胸中にあった本門戒壇堂の建立はことわらずとも国立的なのである。でないと 戒壇という意義の価値が 半減してしまう」と、自らの了解を述べてきたことでした。

 それにもかかわらず、ここでは 「だが現時点で国立という名称が ふさわしくないというなら、何もそれに拘泥することを日蓮はのぞまないのではないか」と、日蓮大聖人の胸中に違背する言辞を、経悟空氏は構えたのでした。
 ご自身が「名称に拘泥しない」とお考えになるのはご自由でしょうが、「日蓮はのぞまない」とはよけいなお世話にして、行き過ぎた言葉でありましょう。

 その 「日蓮はのぞまない」の理由・根拠として、経悟空氏は「国立であれ、民衆立であれ、半官半民であれ、一日も早く本門の戒壇堂が建立されて人々も社会もくずれぬ幸せと歓こびをかみしめることこそ、日蓮のもっとも望みとするところであろう」と述べるのでしたが、それこそ池田前会長の“国立戒壇否定の論理”そのものでありましょう。
 その理由・根拠は、倒錯・顛倒の論理でありました。「人々も社会もくずれぬ幸せと歓こびをかみしめることこそ、日蓮のもっとも望みとするところ」であればこそ、本門戒壇堂を国家的な“手続き”を踏んだ上で一日も早く建立すべし、と云うべきでありましょう。

 論点を分けて、“顛倒の論理”の顛倒たる所以を、以下に示しましょう。

1) “現時点で”

 経悟空氏は、三大秘法抄の“五つの条件”を力説して来たのでしたが、もう一つ「時を待つ可きのみ」という第六の条件を、ここではあえて無視したのでした。
 現時点で国立戒壇が、世間・世俗一般の思想・感情に対して“ふさわしくない”のは、当然でありましょう。さればこそ、“五つの条件が成就するまでは、本門戒壇堂を建ててはならぬ”と、大聖人はご制誡されたことでありました。

2) “迎合するな”

 経悟空氏は、“社会体制や時代の変化に、いちいち迎合するような変わり方をしてはならないのは 確かである”と、自ら言明をしていたことでした。
 しかるに、そのご当人が世間に気兼ねして“現時点で”云々と、難を避けるようでは、「安国論の精神を低俗化させ、崇高なる日蓮の意志に泥をけりかけるようなもの」というご自身の発言に、大いに悖ることでありましょう。

 経悟空氏が引用したように、「
此の経を持たん人は 難に値うべしと心得て持つなり」(此経難事抄)でありましょう。
 まさしく、“地域の友好活動”や“みせかけの幸せや平和”などでなくして、「事実の実行によって具現すべきもの」であり、「戒壇建立の具体化を目指し、死力を尽す以外に」ない、ことでありました。

3) “名称がふさわしくない”

 御遺命の本門戒壇堂は、経悟空氏の解説による三大秘法抄の“五つの条件”によれば、“王法と仏法が自然に一体となり”、日本国の民衆一同の総意を背景として “権力者と補佐役が一緒”になって、“権力者の戒壇建立に対する許可的条件”を満足し、“名勝富士の麓”に建立されるのでありました。
 これは、本門戒壇堂建立の必須条件であり、その条件を満たす本門戒壇堂をして、近年・宗門においては一同に端的に、「国立戒壇」という名称を以て 呼称してきたのでありました。

 自己保身・名聞名利の池田名誉会長ならともかく、経悟空氏の理解において 「本門戒壇堂は国立」であり、「本門戒壇堂の建立はことわらずとも国立的」であるならば、何故にして「国立戒壇」という名称がふさわしくなく、現時点において「日蓮はのぞまない」こと になるのでしょうか。

4) “名称“とその“形容”

 大聖人ご弘通の「戒壇」が宗門において、どのような形容を以て呼称されて来たことか、みておきましょう。
 迹門に対して「本門の戒壇」、寺号に約して「本門寺の戒壇」、場所に就いて「冨士戒壇」、付嘱において「御遺命の戒壇」、手続きからは「勅立戒壇」・「勅命戒壇」・「国立戒壇」、所住の義理と事成 枝葉と根源をたてわけて「事の戒壇」、時期を示せば「一天広布の暁に建立の戒壇」等と呼ばれ、どれもその指し示すところは 同一のことでありました。

 さて、「国立」という形容は戒壇建立の条件の中で、特に“手続き”を明示する呼称でありました。その条件の形容をして“ふさわしくない”と断ずるのであれば、経悟空氏は三大秘法抄の“五つの条件”こそ「日蓮はのぞまない」ことだと、否定すべきでありましょう。
 そして何時の日か、一国一同に日蓮大聖人に帰依する時節が到来した時、手のひらを返すようにそれまで“ふさわしくない”・“日蓮はのぞまない”として来た“五つの条件”を、経悟空氏は“今こそふさわしい”と云うのでしょうか。もしそうであるならば、それは世間では“卑怯”・“日和見”等と、呼ばれることでありましょう。

 「国立戒壇が現在少々都合が悪いから、それをひっこめ、民衆立が正しいと主張し、やがて日本に政治の変化があり、(略)すぐまた国立が復活するであろう」とは、経悟空氏が語った 批判のことばでありました。

5) “拘泥することを日蓮はのぞまない”
 
 詰まるところ、三大秘法抄の“五つの条件”を成就した上で 本門戒壇堂が建立されることを、現時点で日蓮大聖人は望まないと、経悟空氏は述べていることに帰着しましょう。
 仏法の根底は「抜苦与楽」であれば、「幸せと歓こびをかみしめることこそ、日蓮のもっとも望みとするところ」は 基本中の基本であり、あまりにも当然のことでありました。

 「抜苦与楽」の為にこそ日蓮大聖人は、一部の門徒・信徒等が勝手に“わたくし”に宗門立・民衆立の堂宇をして、「本門戒壇」「事の戒壇」「本門寺の戒壇」と僭称することなきよう、厳格に“六つの条件”を定め置かれて、「
予 年来己心に秘すと雖も 此の法門を書き付て留め置ずんば 門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加う可し」と、胸中の一端を披瀝されたのでした。
 かかる重大な“六つの条件”を構成する「国立」の形容をして、経悟空氏は如何なる信念に基づいて「拘泥することを日蓮はのぞまない」と、確信されるのでありましょうか。

6) “
広宣流布路線への提言

 これでは、結局のところ池田前会長の「民衆立戒壇」を支持する結果に終わり、本書の趣旨たる「
広宣流布路線への提言」が 何の意味も為さないことになりましょう。
 「拘泥することを日蓮はのぞまない」の一言は、「本門戒壇堂建立に国立的思想があることを知りつつ、民衆立にねじまげてしまったことは、何よりも前会長の思想の挫折を意味する」とし、「国立戒壇を何故 放棄しなければならなかったか。それは本門の戒壇堂と昭和四十七年完成の正本堂を 無理に結びつけようとしたからである」とした本書の提言の<核心部分>を、却って経悟空氏ご自身が否定したかのような誤解を、読者に与えることになりましょう。

 「
日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし 我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは 螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし」(佐渡御書)と。
 難を怖じ懼れるの “卑怯・怯懦・無道心”こそ、大聖人のもっとも嫌い給うところでありました。

                          ( 平成十五年九月二十七日、櫻川 記 )


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