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盗聴犯罪の動機をみずから暴露
“仕返し”論
創価学会が最近始めた口コミデマの一つは 「言論出版問題のとき、共産党も盗聴をやり、公明党国対委員長の演説を盗みどりした。それで学会もやむを得ず宮本宅を盗聴したんだ」 という、いわゆる“仕返し”論です。
これほど事実を歪めた、開き直りはありません。
まず、今回の裁判の判決文から、創価学会がなぜ宮本宅盗聴を思いついたか、についてのべたくだりを拾ってみましょう。七〇年前後の学会・公明党による言論出版妨害事件を詳しく説明した一節。
「昭和四五年二月二四日、懇談会(注・「言論・出版の自由に関する懇談会」草鹿外吉氏ら文化人五世話人)は、公明党渡部国対委員長が同年一月一四日に学会学生部幹部会において行った、言論出版妨害問題及びその追及を『バカバカしい話』と決めつけた講演の録音テープの内容を公表し、赤旗は、同日、右講演内容全文と、これを批判する記事を掲載した」
「右渡部講演については……衆院議院運営委員会理事会において追及する動きが出たため、渡部国対委員長は、翌(二月)二七日、右講演の内容に穏当を欠くところがあったとして国会対策委員長を辞任した。
右渡部講演の全文は、……三月六日発行の週刊朝日にも『言論抑圧問題をめぐるある公明党幹部の発言』との見出しで掲載された」
いわゆる渡部講演問題の経過です。ついで判決は、だれが徹底した民主主義の守り手だったかに言及、肝心の盗聴の動機について、次のようにのべています。
「言論出版妨害問題についての問題提起は共産党によってなされ、共産党はその後も一貫して学会、公明党批判の中心的、先導的役割を果たしてきた」
「昭和四五年二月二七日(注・渡部国対委員長辞任の日)、渡部講演の内容が公表されたことから、学会内部において、右は共産党による盗聴であり、これに対抗する手段が必要であるという意見が出るようになり、被告山崎は……調査を命じた」
この最後のくだりで判決は、「学会内部において」渡部講演の公表が「共産党による盗聴」だとの意見が出たことは紹介しています。しかし、これは当時の学会内部の状況を客観的にのべただけであり、判決が渡部講演の暴露を「共産党による盗聴」と判断したわけでも何でもありません。そのことは、引用した判決の前段を見れば、よりはっきりしています。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
公明党の渡部国対委員長(当時)が、昭和四十五年一月十四日に創価学会学生部幹部会において行った講演こそ、さながら ル・ボランが言うところの「群衆はその成員の一人ひとりの水準が退行する」という洞察の鋭さを、充分に見せつけた内容でありました。
ふりかえれば、昭和四十四年十月十五日と十月二十三日の二回に渡って、言論出版妨害工作揉み消しのため自民党の田中角栄幹事長と藤原弘達氏との会見がセットされたことでしたが、そのいずれもが藤原弘達氏の反発によって物別れとなったことでした。
そして十二月には『赤旗』紙に、田中幹事長が創価学会の言論弾圧に手を貸したという藤原弘達氏の談話が掲載され、新聞・雑誌などマスコミ各社が騒然としたのでした。
こうした事態の悪化に直面し、学会上層部は連日のように善後策を協議し、池田会長にブレーキをかけることで
「これから気をつけます」と頭を下げ、当面の事態を収めようとしたことでした。
しかし、池田会長はこれを拒否。「絶対に事実無根で押し通せ!」 と北条副会長に厳命し、その指示が北条副会長から竹入委員長に伝えられたのでした。
これを受けて竹入委員長は、昭和四十五年一月五日に矢野書記長とともに記者会見し、創価学会の言論出版妨害問題なるものは「すべて事実無根」と、強硬・硬直した発表をしてしまったのでした。
その発言内容は、「内部の人間でさえ恥ずかしくなるようなウソ」だった、と山崎元顧問弁護士が語るように、すぐにバレるのが見え見えのひどさでありました。当事者の藤原弘達氏自身が、言論出版弾圧の事実と、そのもみ消し工作のために田中角栄幹事長との二回の会談がセットされていたことを暴露しているのですから、「すべて事実無根」などと公党の委員長・書記長が言うことはまさに火に油を注ぐことでありました。
それに輪をかけて火にガソリンを注いだのは、その九日後・昭和四十五年一月十四日の渡部国対委員長の講演でした。これは、こうした竹入・矢野会見と同じ背景のことであって、池田会長の「絶対に事実無根で押し通せ!」とのもだしがたい厳命にひたすら従っての言明であると了解すべきでありましょう。
「藤原弘達というヘンなやつ」だの、「社会党のうすバカども」だの、「ひがんだヘンな目つきして、傷だらけの傷病兵」だの、「民社党…気が違っているとしか思われない」だの、「自民党…いい調子になりやがってね」だのと。
そして、この低俗な発言を聞いて拍手し・笑いを以て応えているのは、池田崇拝いちじるしい婦人部ではなくして、創価学会の将来を担うべく学生部の、一人ひとりの水準の「退行」の姿でありました。
(
平成十四年一月十八日、櫻川 記 )
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