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創価学会の宮本議長宅電話盗聴事件判決
第三 証拠
三 言論出版妨害問題及び学会、公明党と共産党の対応
(五) ( 予算委員会における池田会長への
証人喚問要求
)
(1) 昭和四五年二月、特別国会が開かれ、同月一八日には、衆議院本会議において共産党所属議員米原昶が言論出版妨害問題をとり上げて質問し、同月二三日には、同予算委員会において、社会党所属議員赤松勇が右問題をとり上げ証人喚問を要求した。
更に、同月二七日には、共産党不破代議士が同委員会において竹入委員長の証言、関係者の証人喚問を求め、同月二八日には民社党所属議員塚本三郎も同じく池田会長の証人喚問を求めた。
(2) 同年三日一三日、言論出版妨害問題に関する国会への証人、参考人喚問につき、自民、社会、民社、共産の各党の国会対策委員長会談が開かれたが、自民党が消極的態度を維持したため、右会談は打ち切られ、同問題についての国会への証人、参考人喚問は事実上実施されないことが確定した。
(3) 右国会対策委員長会談打ち切りを受けて、同日、矢野書記長は、言論出版の自由に対する妨害の事実を強く否定する談話を発表した。
(4) 他方、社会、民社、共産の各党の有志議員は、同日、「出版妨害問題真相究明議員集会」を同月一七日に開催し、関係者に対し質問をすることを決定した。
(5) 同月一七日、約八〇名の国会議員が出席して、前記議員集会が開催され、藤原弘達をはじめ、言論出版を妨害されたとする著者、出版元関係者らに対する質問が行なわれたが公明党は同日、社会、民社両党に対し、これを非難する国会対策委員長声明を発表した。
(句読・改行等、便の為に当サイトにて添加)
こうした、創価学会初めてともいえる危急存亡の事態にあって、池田会長は昭和四十五年一月中旬に山崎正友顧問弁護士を呼び、学生本部三階の仏間で直々に
『折伏教典』を手渡し、「この中に、強要罪や、宗教法人法違反の内容があるという人がいるんだ。学生部の法学委員会で検討してくれないか。共産党が国会で創価学会の体質問題をやるといっている。国立戒壇から何から、ひとつひとつ総点検して対策を立ててくれないか」と、指示したのでした。
山崎正友顧問弁護士は、ただちに長谷雄幸久・猪能重二(ともに弁護士)、桐ヶ谷章・吉村弘・高井康行(当時司法修習生)、神崎武法(検事)、亀本和彦(建設省)氏ら創価学会学生部の法曹テクノクラートを結集し、その使命を果たすべく作業を開始したのでした。
当時、創価学会本部では、北条浩副会長(当時)を中心に毎夜・会議が開かれ、そこには竹入・矢野・竜氏ら公明党首脳、秋谷・森田一哉・和泉覚氏ら創価学会幹部、山崎尚見・芳賀昭人氏ら広報室関係者、それに青木亨・福島源次郎・市川雄一氏ら機関紙ならびに青年部首脳が加わっていたことでした。
言論出版妨害事件のこうした推移の中で、山崎チームの作業内容がしだいに重きをなすこととなり、会議は竹入・矢野氏ら公明党の国会・マスコミ対策と、山崎チームの状況分析が軸となって展開されていくようになった、と言われます。
さて、例の 「渡部講演」の約二過間前( 昭和四十四年十二月二十八日 )の第三十二回衆議院議員選挙では、公明党は前回議席を上回ること二十五議席。なんと四十七議席獲得という大躍進をしたにもかかわらず、この未曾有の自ら招いた世間からの批判・糾弾にあわてふためき・恐れ・うろたえ・仰天し、池田会長は昭和四十五年二月初旬に逃走、箱根の千石原に側近(原島嵩氏等)のみを引き連れて隠れたのでした。
昭和四十五年三日十三日、言論出版妨害問題に関する国会証人喚問について開かれた各党の国会対策委員長会談において、自民党が消極的態度を維持したため、国会証人喚問は事実上実施されないことが確定しました。これは、田中幹事長(当時)が池田会長に大きな「貸し」を作ったことであり、この時に作られた公明党と田中派(旧・経世会)との絆・パイプが、今日の小泉連立政権にまで遠く影を及ぼしていることでした。
(
平成十四年二月十日、櫻川 記 )
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