冨士大石寺顕正会の基礎知識

沿 革

 

    日 付              沿  革


  第一期

 昭和32年08月03日   法道会から身を引き、草の根で妙信講発足(文京区音羽)
 昭和33年01月15日   浅井甚兵衛を講頭とし、宗門より法華講支部認証
 昭和37年09月03日   全国法華講連合会との軋轢始まる
 昭和45年03月25日   「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を宗務院等に送附
 昭和45年05月03日   宗門が「国立戒壇」の語の不使用を宣言(創価学会本部総会)
 昭和45年09月11日   確認書(御報告)を宗門に納め、正本堂につき宗内の合意形成
 昭和46年11月15日   「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を創価学会等に送付
 昭和47年04月28日   正本堂について「後代の誠証」とする訓諭発布
 昭和47年09月27日   正本堂を「御遺命の戒壇」とする惑義訂正の論判決着
 昭和47年10月12日   総本山富士大石寺にて正本堂落慶法要挙行
 昭和48年03月26日   全国地方寺院で妙信講員への御授戒・本尊下附が可能となる
 昭和48年12月22日   本部会館落慶(板橋区常盤台)、常住本尊貸与(十万達成まで)

  第二期

 昭和49年05月19日   浅井昭衛が理事長就任、講頭より理事長に全権委任
 昭和49年07月28日   政府回答撤回を創価学会に迫り、明治公園で野外集会開催
 昭和49年08月12日   宗門より妙信講に講中解散処分、秩序・統制を乱したとの事由
 昭和49年10月04日   男子部員が創価学会本部で抗議活動、乱闘事件となる
 昭和49年10月15日   八木直道師が擯斥処分、御大会(妙信講)の導師出仕の事由
 昭和49年10月28日   本部会館の本尊返還阻止のため、宗門・学会との法廷闘争開始
 昭和49年12月25日   松本日仁師が擯斥処分、住職代務者設置拒否の事由
 昭和50年06月28日   文部省に「請願書」提出、創価学会提出回答への再調査を要望
 昭和50年08月20日   浅井昭衛が講頭就任、法廷闘争の主尋問答弁のため
 昭和52年04月14日   法廷闘争終結、和解を大勝利と称する
 昭和53年03月  日   護法山顕正寺落慶(和光市下新倉)

  第三期

 昭和57年10月09日   日蓮正宗「顕正会」と改称、会長に浅井昭衛就任
 昭和60年05月26日   壮年・婦人・男子・女子の四者体制移行
 平成02年04月27日   「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」を宗門に送付
 平成02年08月  日   「なぜ学会員は功徳を失ったか」(浅井昭衛著)発刊
 平成03年10月  日   「学会・宗門抗争の根本原因」(浅井昭衛著)発刊
 平成07年06月26日   入信手続き簡素化、入会者の署名・捺印廃止
 平成07年12月  日   体育文化祭開催
 平成08年11月18日   宗教法人格取得、「冨士大石寺顕正会」と自称
 平成09年07月16日   「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」を一斉配布

  第四期

 平成10年04月05日   大御本尊御遷座を機に「御遺命守護完結」と称する
 平成11年04月12日   血脈相承の授受を否定、現宗門に相承なしとする
 平成12年11月08日   新・本部会館落慶(さいたま市寿能町)
 平成15年11月16日   百万達成
 平成16年04月18日   「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を一斉配布
 平成17年03月25日   「対決申し入れ書」を宗門に送付、その後二通の書を送付
 平成19年08月23日   発足五〇周年記念幹部大会開催(エムウェーブ)
 平成20年12月23日   新青年会館落慶(さいたま市寿能町)

 

解 説

 

 第一期 ( 疾走期 )


 発足から本部会館落慶までは、妙信講が輝いていた時期と言えるでしょう。地を這う地道な弘通と真剣な教学研鑽で法華講連合会との軋轢に耐え抜き、「正本堂問題」で大跳躍して創価学会・池田会長の野望阻止に貢献しました。
 正本堂を「御遺命の戒壇」と位置付けたい創価学会と、落慶直前まで粘り強く代表者会議を行い、正本堂の意義について宗内の合意形成を果たしました。
 全国の地方寺院で妙信講員への御授戒・本尊下附が可能となり、常盤台(板橋区)に根城たる本部会館も落慶し、十万世帯の異体同心の講中を目指し、妙信講の前途は洋々でした。
 

 第二期 ( 暴走期 )


 理事長に就任して全権を掌握し、浅井昭衛氏の暴走が始まりました。創価学会との「国立戒壇」是非の継続論議を打ち切り、宗門の制止を無視して明治公園で野外集会を開催。世間への威勢行為を強行し、講中解散を自ら招きました。
 創価学会に煮え湯を飲まされている宗門が、池田会長の宗門支配阻止の功績と実力のある自分を排除できるわけがないとの読み誓いを、山崎正友氏に逆手に取られました。
 怒涛の妙信講壊滅作戦の嵐に、浅井昭衛氏は自らの正しさを司直の判断(東京地裁)に求めましたが、大局してみればそれが敗着の一手でした。正本堂御供養金返還集団訴訟と相俟って宗門は創価学会弁護団と協調せざるを得ず、国立戒壇の文言不使用だけでなく戒壇論の逸脱にまで追い込まれました。
 結局、法廷闘争は自ら解散処分を受け入れるということで和解・決着し、妙信講は宗内の地歩を失いました。
 

 第三期 ( 迷走期 )


 「なぜ学会員は功徳を失ったか」、「学会・宗門抗争の根本原因」等、この頃の浅井昭衛氏の執筆活動は旺盛です。宗門と創価学会は確執を深め、ついに創価学会破門にまで至りました。
 一方、浅井昭衛氏は妙信講の名を捨てて「顕正会」と改称、壮年・婦人・男子・女子の四者体制への移行、教学部の廃止、入信手続き簡素化、宗教法人格取得等、会長絶対化・会員愚昧体制を整備して行きます。
 それはまた、苦楽を共にした多くの有力幹部の排除と、長男・克衛氏の重用と、地方会館の大幅形木本尊出現とも連動していました。
 

 第四期 ( 惰走期 )


 突然の大御本尊遷座に喜び、「御遺命守護完結」と称したことは短慮でした。却って、会員の宗門復帰願望を防ぐ必要が生じ、血脈相承の授受否定にまで、踏み込まざるを得なくなりました。
 残された道は見せかけの勢力拡大であり、首都圏巨大地震と国家経済破綻(二大氷山)を強調して百万達成の大号令を発し、激しく会員を勧誘活動に駆り立てました。
 その百万達成を機に、「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を一斉配布したものの、幹部排除と教学軽視による名目百万の組織の空洞化は著しく、一千万の弘通誓願はなかったこととし、見せ掛けの前進の演出による自身の権勢維持の取り繕ろいが、浅井昭衛氏の最後の目的となりました。



 「百万が成れば、一国広布は必ず成る」「天母山への紅の涙」等、第三期の頃まではそれなりに浅井会長の言葉に、リアリティが感じられたことでしょう。しかし、現在の顕正会は広宣流布を目指す体制に程遠く、すでに時間的猶予を逸していることは明白です。名目の三百万達成も同じことの繰り返し、五十万・百万達成の時と相違があるでしょうか。
 組織や利権はその存在を保持することが、いつしか「自己目的化」して行きます。78歳の浅井昭衛氏は権勢維持の為、さらにまた「第二の50年」「あと12年」等と述べ、会員諸氏を不条理な活動へと駆り立て続けています。
 組織活動最優先、数に追われる日常を顧みてください。自らの人生から、かけがえのないものが失われていないでしょうか。顕正会員諸氏には、解散処分以前から妙信講を見続けた古参会員の言葉を、どうか耳に留めていただきたいと存じます。
                            平成22年1月1日
                            櫻川 忠(tadashi@sakuragawa.qee.jp)


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