冨士大石寺顕正会の基礎知識

年頭の辞

 顕正新聞の元旦号に掲載される「年頭の辞」は、浅井昭衛会長の発言の変遷が時系列に把握できる、絶好の定点観測ポイントです。
 事態の推移を把握するために「定点観測」は重要であり、過去に遡って「年頭の辞」を掲載します。

 

【一国広布を見据え前進開始の年】 (平成三年)

 ―年頭の辞―

  【一国広布に身を捨てん】

                            日蓮正宗顕正会会長 淺井昭衞

 昨年は、まことに、″不思議″の一年であった。
 池田大作が正本堂の誑惑を完結せんと、細井・阿部両管長を籠絡した一八年前から企んできた「本門寺改称」の陰謀が、みごと御本仏の御威徳の前に砕け敗った年であった。
 顕正会は年初より、ただ大聖人・日興上人の御悲憤を信心の耳で聞き奉り、捨身の御奉公に徹してきたが、その一々の戦いに、御本仏の御守護・諸天の働きを、肌身に感じさせて頂いた。
 思うに、もし唯一の正系門家が、広布達成を偽った上に大石寺を「富士山本門寺」と改称していたら、御本仏の御遺命は完全に破壊されていたに違いない、この恐しさを思いやれば、返す返す有難さがこみ上げてくる。
 しかし、未だ戒壇の大御本尊は誑惑・不浄の正本堂に居えられ奉っている。この不敬が、宗門の禍いとなり、国家の災いとなる。大御本尊が清浄の御宝蔵に還御あそぱす日こそ、御遺命守護の完結である。そしてこの事は.顕正会の逞しき一国広布への大前進の中にこそ成就される。顕正会の御奉公は未だ足りない。
 「本門寺改称」の陰謀がみごと粉砕された時、私の耳朶(じだ)に響いたのは、"一国広布に身を捨てよ"との御本仏の厳たる御命令であった。
 松野殿御返事に云く 「身命を捨てて法を弘むべし」と。
 これを承けて二祖日興上人御遺誡に云く 「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」と。
 一国広布への死身弘法なくしては、御遺命守護の完結も、日本の安泰もあり得ないのである。

 見よ、世界の激動を。――ソ連は民族紛争により内戦の様相を示し、米国は衰退の一途をたどりつつある。そしてこの二大国の凋落(ちょうらく)を機として、東欧はいよいよ混迷の度を増し、中東は軍事対決で一触即発、さらに日本に最も影響のある北東アジアは地球上で最も危険な地帯となりつつある。まきに物情騒然である。
 今後世界は、国家と国家、民族と民族のエゴが到るところで激突し、新たな"戦国時代"に入ること一点の疑いもない。しかも核兵器・化学兵器は世界中に拡散しつつある。まさに「闘諍堅固の仏語地に堕ちず」の御金言のままではないか。
 この大闘諍の大渦より日本を救う道は、広宣流布・国立戒壇建立の秘術以外には断じてない。仏弟子としてこれを知りなから、一国広布の大願に立たぬ者は、無道心の者である。
 七年後の百万が成れば、一国広布は必ず成る。広布前夜の濁悪の日本国に、立正安国の大旗をかかげ国立戒壇建立を叫ぶ百万の仏弟子の異体同心が出現する時、広宣流布は眼前となる。
 「日本国の人々は多人(たにん)んなれども,体同異心(たいどういしん)なれば諸事成ぜん事かたし。日蓮が一類は異体同心なれば、人々すくなく候へども大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚へ候。悪は多けれども一善に勝つ事なし」(異体同心事)と。
 まさに百万達成こそ一国広布の鍵である、七年後をめざし、全顕正会員一結し、共に励まし歓喜の前進を開始しようではないか。

 平成三年元旦


 

【"躍進第一年"三十万達成の年】(平成四年)

 ―年頭の辞―

  【躍進】

                            日蓮正宗顕正会会長 淺井昭衞

 昨年は、御本仏一期の御遺命に背き奉ることが、どれほど恐ろしい罰を招くかを、まざまざと見せて頂いた一年であった。
 政治野心に燃える学会と、その金力に諂う宗門が癒着し、御遺命たる国立戒壇を抹殺して正本堂を御遺命の戒壇と偽ったが、その誑惑が崩れると同時に、両者に疑心暗鬼と憎しみが生じ、ついに阿部管長は、創価学会を「大謗法団体」ときめつけて「破門」に処し、一方池田大作は阿部管長を「邪教の法主」と罵り、一千六百万人にのぼる「日顕法主退座勧告」の署名を集めたのであった。
 今や総本山には連日多数の右翼の街宣車が押しかけ、境内には火炎ビンまで投げこまれている。まさに報恩抄の「智証の門家・園城寺と、慈覚の門家・叡山と、修羅と悪竜の合戦ひまなし。園城寺をやき、叡山をやく」の御金言のままではないか。
 宗門・学会の曽ての蜜月時代に、誰人が今日の事態を予想し得たであろうか。御本仏を蔑(あなず)り御遺命に背くことがどれほど恐ろしいことか、この眼前の罰を見て誰人も深く恐れ慎まなければいけない。
 ただし、主犯の池田大作には未だ一分の怖畏慚愧もなく、その言動は一闡提のごとくである。阿部管長には一分の改悔は見られるものの、その懺悔は五体投地のそれとはほど遠い。ゆえに未だ戒壇の大御本尊は、恐れ多くも不浄の正本堂に居えられ奉ったままになっている。
 正系門家にこの濁乱ある以上、日本が傾かぬはずはない。

 見よ、世界の激動を!
 ソ連は解体して内乱・内戦に向いつつある。この内戦は二万七千発の核弾頭の上で行われるのである。そしてこのソ連の混乱の影響を直接・間接に受け、北東アジアは世界で最も危険な地帯に確実になりつつある。
 仏法の眼を関いて見れぱ、磁石が鉄を吸うがごとく、日本は災を千里の外より招く。東北アジアの不気味な動向は、その兆なのである。
 本年顕正会の弘通は三十万に達する。そして数年後には必ず百万が成る。濁乱の宗門の中に、濁悪の日本国の中に、身命も惜しまず日蓮大聖人の御遺命を奉ずる百万の仏弟子の大集団が出現するのである。その意義の重大さは、とうてい言葉には尽くしがたい。
 いま世間は、学会・宗門の醜い抗争を見て、日蓮正宗を軽侮している。だが顕正会の戦いにより、やがて日蓮大聖人の崇高の御精神、立正安国の師子吼を、全日本人が耳にすることを得よう。信ずる信じないは各自の自由、しかし世間に諂わず国立戒壇の正義を説くことは仏弟子の使命である。かくて信謗彼此(しんぼうひし)決定して、国家体験が起こるのである。
 顕正会はいよいよ躍進すべき時を迎えた。この時に感じ、地涌の流類が続々と集いきたることは疑いない。一人ひとりが広布の人材に成艮しなければならぬ。御本尊様より力を頂き、百人・千人・万人の人々を励まし率いる大人材に成長しよう。
 顕正会の躍進の中に、御遺命守護完結も、一国広布もあるのである。大聖人様は御照覧あそばす。勇躍して死身弘法に撒しようではないか。

 平成四年元旦


 

【躍進第二年 百万への出陣】(平成五年)

 ―年頭の辞―

  【百万への出陣】

                            日蓮正宗顕正会会長 淺井昭衞

 昨年十一月、濁乱の宗門の中に、傾かんとする日本国の中に、日蓮大聖人の御遺命を奉ずる顕正会三十万の法城は、ついに厳然と起立した。
 国立戒壇のゆえに死罪に等しい解散処分を受けた顕正会が三十万の弘通を成しとげたということは、正系門家・日蓮正宗に御遺命の正義が甦る瑞相、また日本国に御本仏の御予言どおり国立戒壇が実現することの大瑞である。

 見よ! 癒着して誑惑・不浄の正本堂に「戒壇の大御本尊」を居え奉った宗門・学会は、いま、想像を絶する醜く激しい抗争の泥沼に沈淪(ちんりん)し、大苦悩を味わっているではないか。
 戒壇の大御本尊を不敬・冒涜し奉ることが、いかに恐怖すべきことか、この現証を以て深く知るべきである。
 抗争の結果、創価学会は今や「唯受一人の血脈」をも否定し、完全に邪教化した。
 一方宗門は相も変らず自己保身に汲汲(きゅうきゅう)として、死身弘法の精神を全く失っている。

 これで、広宣流布はいったいどうなるのか。誰人が死身弘法をなすのか――。
 正系門家の中に、顕正会を除いては、身を捨てて立つ者は断じてあるべくもない。顕正会は、いよいよ百万めざし出陣する時を迎えた。日本をゆり動かす百万への出陣である。百万が成れば、一国広布は必ず成る。まさしく百万こそ、一国広布の鍵なのである。
 すでに広宣流布の前夜であれば、地涌の流類はいたる所に続々と出てくること疑いない。
 諸法実相抄に云く 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是れあに地湧の義に非ずや。剰(あまつさ)へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」と。
 御本仏の眷属たる地涌の流類は「六万恒河沙」といわれる。この無量の地涌の流類が、時来(きた)れば続々と日本列島のいたる所に出現する。これか「地涌の義」である。
 さあ!本年から百万実現への本格的布陣を全国に布(し)こう。顕正会の、大聖人様に応え奉らんとするひたぶるの猛進の中にこそ、不敬解消も一国広布もある。
 胸を躍らせ、前進を開始しようではないか。

   平成五年元旦


 

【一国広布を見据えた本格的前進】(平成六年)

 年頭の辞

  【三十四万人が"一人立つ"の気魂で】

                            日蓮正宗正会会長 淺井昭衞

 昨年が日本にとって歴史的な大変動の年であったことは、すでに万人の知るところである。
 すなわち政治を見れば、二十八年間にわたり日本を支配してきた自民党政権が崩壊して分裂と抗争の時代に突入したし、経済は大不況となって"平成恐慌"の様相すら呈(てい)してきたし、また異常気象は百年来といわれる大凶作までもたらした。
 それだけではない、日本国民統合の象徴とされてきた皇室に対しても批判が起き、いわゆる"皇室の危機"がささやかれた――。世人はこれらを見て、日本が変動期に入ったことを知ったのである。
 だが、これらの変動が、国家にとって最も恐るべき「他国侵逼」の前兆であることを知る人は、いない。昨年は、実にこの他国侵逼の影も、すでに日本に迫ってきたのだ。まさに日本は傾いてきたのである。
 では――、その張本原因は何か。
 日蓮大聖人の仰せに云く 「仏法は体のごとし、世間は影のごとし、体曲がれば影ななめなり」と。下種仏法の唯一の正系門家たる日蓮正宗の信心が曲がったゆえに、日本は傾いてきたのである。

 見よ!二十余年前、宗門高僧は池田大作にへつらい、御本仏一 期の遺命たる国立戒壇建立を放棄して、正本堂の誑惑をなしたではないか。
 そしてこの違法を諌める顕正会を、無慚にも解散処分に付したではないか。
 だが顕正会の諌暁に次ぐ諌暁により、ついに正本堂の誑惑は崩れたのであった。
 しかるに阿部管長は未だに戒壇の大御本尊を誑惑・不浄の正本堂に居え奉ったままで、御遷座の大道念を起こさない。
 そもそも正本堂の誑惑において最も恐れ多いことは、この誑惑に、戒壇の大御本尊を利用し奉ったことである。
 国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を否定するための正本堂に居え奉るとは、大御本尊への冒涜・辱め、これに過ぎるはない。そのうえ邪法の神父を招いてその座を穢すに至っては、云うべき言葉もない。
 御本仏大聖人はいかにお憤りあそばしておられるか、二祖日興上人はいかにお悲しみであられるか。これを思えば、仏弟子たる者、どうして安閑(あんかん)たり得ようか。
 ゆえに私は、宗開両祖の御悲憤をそのまま文字として、一昨年の十一月、これを最後との思いで、直諫したのであった。
 だが、阿部管長はこれをも無視した..そして恬然(てんねん)として、法華講員を無理矢理登山させては御開扉を強行している。これ大御本尊を営利の具とするものではないか。
 この不敬、この冒涜、この無道心を見て、諸天いかで怒りをなさぬ道理があろうか。

 ここに他国侵逼の影は、日本に迫りてきたのである。顕正会の最後の諌暁より半年後の昨年五月二十九日、北朝鮮のミサイル「労働一号」は、能登半島の沖をめがけて試射された。明らかに日本への威嚇であった。
 また中国は海軍力の増強を背景に、本年より東シナ海の公海上で資源開発を開始するという。さらにロシアでは極右勢力が台頭して、「オホーツク海はロシアの内海」「核攻撃も辞さない」と叫んで軍部・民衆の支持を得ている。
 まさしく、磁石が鉄を吸うように、他国侵逼の影は刻々と日本に迫りつつあるのだ。
 ここに昨年十月、顕正会は大聖人に誓い奉って一国広布に出陣したのである。顕正会の前進が、他国侵逼の大難に間に合うかどうか、この一事こそ何よりの重大事である。
 すべては本年からの「前進」にかかっている、すでに日本列島のいたる所に、三十四万の顕正会員は陣列を整えている。この一人ひとりが「日蓮大聖人の弟子」の自覚に立ち、その地において「一人立つ」の気魄で毅然と立つとき、広布の潮流は滔々として日本全土に流れ出す。
 大聖人様は顕正会の「前進」をお待ちあそばす。遅れては不忠となる。決然として前進を開始しようではないか。

  平成六年元旦


 

【「出陣第二年」の新春を寿ぐ】(平成七年)

 年頭の辞

  【出陣第二年を迎えて】

                            日蓮正宗顕正会 会長 淺井昭衞

 昨年の十月十日、全顕正会員は一国広布の御奉公を、命の底から御本仏・日蓮大聖人に誓い奉った――。
それより一年、みごとなる広宣流布の大行進は始まった。全国各地で地涌の流類は一斉に立ち上がり、まさに日本列島に火がついたごとき感を懐かしめた。
 本年は出陣第二年。四十万法城屹立の年である。思えば二十一年前、御遺命破壊を企んだ学会と宗門は、諌める顕正会を解散処分に付した。
 この弾圧こそ、法主の権威と学会の権力が結託して、当時一万二千の顕正会を抹殺せんとするものであった。

 だが、顕正会はこの絶体絶命の法難を撥(は)ね飛ばし、今ついに四十万の死身弘法を成し遂げんとしている。これはどの「不思議」は、日蓮正宗七百年の歴史にもその例を見ない。
 そして、あれほど固く癒着して一枚岩のごとくに見えた宗門と学会は、今や仲間割れして醜悪・凄絶な死闘を繰り広げている。これまた、凡夫の思慮を絶する「不思議」の現証ではないか。――すべては、賞罰正しき御本仏の御力用なのである。
 広宣流布の使命と責務は、正系門家・日蓮正宗のみが有する。だが、御遺命に背いて国立戒壇を放棄したゆえに、学会は邪教化し、宗門僧侶は「法師の皮を著たる畜生」に堕してしまった。ここに大聖人は、御遺命を守り奉った顕正会をして、立たしめ、戦わしめ給うた。

 まさしく顕正会こそ、御本仏の大悲願力を扶けまいらせる「仏の軍勢」である。
 「前代未聞の大闘諍」は、刻・一刻と迫りつつある。
 あと二十年――
 朝露のごときはかない人生を、この大仏事に投じて仏果を得られれば、これほどの喜びはない。
 出陣第二年。湧き上がる歓喜はいかんともし難い。さあ、顕正会の同志諸氏よ、戦おうではないか。

  平成七年元旦


 

【大節五十万 明年前半に達成】(平成八年)

 年頭の辞

  【日本には時間がない】

                            日蓮正宗顕正会会長 淺井昭衞

 昨年は、顕正会の歴史において、まさに期を画する年であった。全顕正会員が"大聖人の待たせ給う大法戦場"を見据え、魔障の逆風に打ち勝ち、ついに空前四万六千の年間弘通を成し遂げたのであった。
 しかもこの厳しき弘通を為すのに、顕正会には大歓喜がみなぎっていた。

 見よ、体育文化祭における"顕正家族"の意気と団結と大感激を!! ―― このように清々しく凛々しい団体が、今の日本のどこにあろうか。
 これ地涌の流類ここに集い来たり、心豊かに和合しつつ"大難事の広宣流布"を成し遂げるの勇姿ではないか。
 思えば二十年前、学会と宗門は癒着して国立戒壇の御遺命を破壊し、諌める顕正会を死罪に等しき解散処分に処した。だが今や、両者は泥沼のごとき抗争に陥り、折伏弘通も全く止まってしまった。しかるに死罪を受けた顕正会いま、ひとり、大地ゆるがす広布の大行進をなしているのである。
 これほどの不思議があろうか。まさしく御本仏の御守護以外にはない。大聖人が、御遺命を守り奉った顕正会をして立たしめ、戦わしめておられるのだ。

 而して日本を見るに、一瞬にして首都圏を潰滅させ、一瞬にして日本経済を崩壊させ世界恐慌をも招くであろう巨大地震は、刻一刻と近づきつつある。
 また北東アジアはキナ臭さを増し、台湾海峡と朝鮮半島では、いつ戦争が勃発するかも知れぬ事態になっている。他国侵逼の影は、日ごと歳ごとに濃くなりつつあるのだ。
 これらの諸情勢を見るに、六年後の"十万人の国会請願"の前に、どうしても、その前段階の諌暁の戦いを、もう起こさなければならない。
 私はそれを、五十万達成の時と決意している、この五十万は、平成九年の前半までに必ず成し遂げる。もう日本には時間がないのだ。
 大聖人様は顕正会の前進をお待ちあそばす。同志諸氏よ、戦おうではないか。

   平成八年元旦


 

【「一国諫暁の年」ここに明けゆく】(平成九年)

 年頭の辞

  【一国諌暁の時来たる】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 一国諌暁の年は明けた――。
 世間を見れば、この年末年始の海外旅行は過去最高の六十六万人に及んだという。だが、この安逸(あんいつ)、いつまで続くであろうか。
 思わず、タイタニック号の悲劇が脳裏を掠める。もう亡国の兆は、日本の足元にまで忍び寄っているではないか。

 見よ―― 財政赤字は五一二兆円に膨れ上がって破局寸前、地球規模で飢餓迫る中に日本の食料自給率は世界最低、朝鮮半島の不穏は日々に増し、中国の脅威は月々に加わる。
 さらに人心の荒廃は目に余る。凶悪犯罪は相次ぎ、青少年は放埒頽廃(ほうらつたいはい)し、政治家・官僚の腐敗堕落は底なしの様相を呈している。
 また仏法の眼を以て見れば、昨年すでに四百四十年ぶりといわれる大彗星は出現し、「二・三・四・五の日出(い)で」の現象も、「日輪一重・二・三・四五重輪現(げん)ぜん」も事相となっている。まさに諸天は日本の"亡国近し"を告げているのだ。

 しかし、日本国にこの根本原因を知る人はいない。ただ日蓮大聖人のみこれを知り給う。
 その仰せに云く 「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と。
 七百年前、日本は、国挙げて大慈大悲の御本仏を軽賎憎嫉し、ついにその御頸(おんくび)を竜の口で刎ね奉った。この天地も驚動する大逆の罪、どうして現当に免れ得ようか。
 ゆえに御在世には忽(たちま)ちに自界叛逆・他国侵逼の大難が巻き起こり、そして今、「未来亦然るべきか」の御予言のまま、改悔なき日本に自叛(じほん)・他逼(たひつ)の大罰は起こらんとしているのである。
 このとき、五十万の仏弟子の大集団は大地より躍り出で、御本仏の使いとして、一国にこれを告げしむる――これか本年から始まる一国諌暁の御奉公なのである。
 すでに顕正会は広宣流布の戦さに備え、「冨士大石寺」の名を冠して仏法上の立場を確立し、法人格の鎧(よろい)も着(ちゃく)した。
 さあ、大聖人のお待ちあそばす大法戦場へ、一結(いっけつ)して勇躍出陣しようではないか。仏弟子の歓喜、これに過ぐるはない。

   平成九年元旦


 

【濁悪の世に広布は駸々(しんしん)と進む】(平成十年)

 年頭の辞

   【一国諌暁第二年を迎えて】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 昨年平成九年は、まさしく日本の広布史上において期を画する年であった。
 すなわち、亡国の迫るを知らず安逸を貪る全日本人に対し、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の重大の御聖意を、大音声(だいおんじょう)を以て告げ知らしめた年。
 そしてこれより、七百年来の宿願たる国立戒壇建立の最終段階の戦いは、開始されたのであった。
 日本の人々は、この国に久遠元初の御本仏が出現されたことを知らない。ゆえにこの御本仏の大慈悲の御化導に対し、元品の無明を起こし、一国こぞって罵り、流罪し、ついには御頸を刎ね奉るという、身の震えるような大逆罪を犯し奉ったのであった。
 この大禍は現当(御在世・滅後)に免れがたい。ゆえに御在世には、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は大蒙古の責めを以て一国を強く罰した。
 滅後の罰を見れば、御頸を刎ね奉らんとした首謀者・平左衛門は、大聖人滅後十二年にして一族残らず誅戮され、鎌倉幕府もまた滅後五十二年にして滅亡している。

 そして日本国は、大聖人滅後七百年にして漸(ようや)く罰あらわれ、今まさに国亡びんとしているのである。その先相こそ、御在世以後の最大といわれる「平成九年の大彗星」であった。
 ここに"火宅に遊ぶ子"のごとき全日本人に対し、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」として、大聖人の大恩徳と日本の亡びゆくさまを告げ知らしめたのが、昨年の一国諌暁であった。

 見よ、それより六ヶ月――。経済大国を誇っていた日本は、あっという間に傾いてしまったではないか。いまや「平成恐慌」の地鳴りが聞える。この日本の経済危機の波及を恐れるクリントン大統領に威されたのであろう、橋本首相は「日本発の世界恐慌だけは起こさない」などと、あらぬことまで口走っている。
 あれほど首相が意気込んでいた行政改革は失敗、そして財政再建は不可能。その上、内閣の最重要課題と位置づけていた沖縄・普天間飛行場の返還も、名護市の住民投票で暗礁に乗り上げている。この一事は、日米同盟の亀裂をも招きかねない。――諸天が捨離すれば、このように瞬時にして、八方塞がりとなるのである。

 人々がいま大騒ぎしている経済危機などは、末だ亡国の序曲に過ぎない。大地動乱はすでに足元に追っている。今後、歳を追うごとに三災七難は激しさを増すであろう。そしてついに、国を亡ぼす他国侵逼が事実となる。
 だが「大悪起これば大善きたる」と。この他国侵逼は、同時に広宣流布の時なのである。
 すでに、大聖人に忠誠一筋の仏弟子の大集団は日本国に出現している。この大集団は、正系門家・冨士大石寺の中に在っては御本仏の御遺命を守護し奉り、日本国に在っては御遺命の国立戒壇を実現して国を救わんと、いま「一千万]をめざし大地ゆるがす大行進をしつつある。
 やがて一千万の仏弟子が、他国侵逼に怯える日本国において、口々に「日蓮大聖人に帰依し奉れ」と叫ぶとき、広宣流布は一時に成る。
 大聖人様は顕正会の前進をお侍ちあそばす。一国諌暁第二年を迎え、六十万達成を見つめ、いよいよ歓喜の大行進のピッチを上げようではないか。
 
   平成十年元旦


 

【あと15年の誓い弥々堅し】(平成十一年)

 年頭の辞

  【あと十五年】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 顕正会四十一年の歴史において、昨年ほど"有難かった"年はない。
 まさに凡夫の思慮を絶した「不思議の還御」を仰ぎ見て、全顕正会員が紅涙を流し続けた一年であった。
 思えば正本堂のたばかりは、第六天の魔王が広布前夜の正系門家を襲い、御本仏の大事の御遺命を破壊せんとしたものに他ならない。魔は池田大作の身に入り、「御遺命の戒壇」と偽る正本堂を建てしめた。学会の金力・権力に諂う宗門は、あたかも犬が主に尾を振るごとく、この大それた誑惑に賛同加担した。
 もしこの大誑惑が罷り通れば、御本仏の一期の御遺命たる広宣流布・国立戒壇建立は泡沫に同ずる。これを知り、これを見ながら、もし黙止すれば、大聖人への不忠これに過ぎるはない。ゆえに顕正会は必死の諌暁に立ったのである。
 連々の諌暁実に二十八年――。しかし学会・宗門一体になってのたばかりは岩のごとくで、容易に崩れるとも見えなかった。

 その中に、御在世以後の最大といわれる平成九年の大彗星が出現した。これ御本仏を流罪・死罪に処し奉り、七百年を経ても改悔なき日本国が、いよいよ時来って亡びるの前相である。
 ゆえに平成九年七月、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」の一書を以て、日本国民にこれを告げ知らしめたのであった。
 だがこの時、心にかかっていた一事は、大聖人の御法魂たる「戒壇の大御本尊」が、未だに誑惑不浄の正本堂に居えられ奉っていることであった。しかしながら、一国諌暁に立つべき時はすでに来ていた。
 止むなく奉告文に「その恐れ多さを思えば身は縮み、未だ御奉公の足らざること、己れの非力、ただ羞じ入るばかりでございます」と謹んで記し、一国諌暁に立ったのであった。
 しかるに、御本仏の絶大威力たるや、諸天をして、学会・宗門の間に叛逆を起こさしめ給うた。ここに池田大作の悪罵・中傷・陥穽(かんせい)は阿部管長を憤激せしめ、ついに正本堂撤去の決意を堅めさせた。
 かくて昨年四月五日、戒壇の大御本尊は堂々と還御あそばしたのである。まことに凡夫の思議を絶するこの「不思議の還御」を仰ぎ見れば、ただ紅の涙頬を伝うるばかりである。

 そして伏して拝するに、この「不思議の還御」こそ、広宣流布が近きにあること、ゆえに身命を捨てて法を弘むべきを命じ給う御本仏の告勅でなくて、何であろうか。誑惑に加担してなお懺悔なき無道心の禿人、邪教化した学会の輩には、この厳たる仏勅は聞こえまい。
 ただ御遺命を死守し奉り忠誠を貫き通した顕正会だけが、この仏勅を命で感じ、命で受け、いま御本仏日蓮大聖人に「あと十五年」の誓いをなし奉っているのである。
 この十五年は、広布の前夜なるがゆえに、新尼抄に御教示のごとく、必ずや大変動の時代となるであろう。だが大聖人は「此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん」と仰せられる。そしてこの三災七難の中に、三大秘法広宣流布は駿々と進むのである。
 急がねば、日本の亡国に間に合わない。すでに他国侵逼のハシリは、北朝鮮のテポドンミサイルとなって現われているではないか。
 本年の六十八万が成れば、平成十四年の百万は必ず或る。百万が成れば、一千万は必ず成る。そして一千万が成る時、日本の広宣流布は決定的となるのである。
 お出ましの戒壇の大御本尊は、顕正会のこの戦いを、じっと御覧あそばす。御馬前の戦いとはこれである。
 あと十五年――。地涌の菩薩の面目にかけて、大聖人様への堅き誓いを、断じて果させて頂こうではないか。

   平成十一年元旦


 

【広布の最終段階 正々堂々の前進】(平成十二年)

 年頭の辞

   【日本国の中の顕正会】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 昨冬、新「折伏理論書」が刊行され、全顕正会に歓喜と興奮が渦まいた。新たに書き加えられた第九章・十章には、日蓮大聖人の御遺命が明示されるとともに、二十八年にわたった御遺命守護の戦いの始終が括(くく)り記された。
 すなわち広布の前夜、第六天の魔王は御本仏の国立戒壇建立の御遺命を破壊せんと、池田大作の身に入って正本堂のたぱかりをなした。池田は「形は人なれども力は第六天の力なり」の御金言そのままに、第六十六、七の二代にわたる貫首を打ちぬき、八百万信徒をたぶらかし、その誑惑はあと一歩で完結するかに見えた。
 だが、大聖人はこの大それた誑惑を許し給わず、顕正会をして立たしめ諌暁せしめ、諸天をして癒着の学会・宗門を同士討ちせしめ、ついに正本堂より還御あそばし、さらにこの魔の殿堂を完全に打ち砕き給うた。
 凡慮を絶するこの不思議、この絶大威力。全顕正会員はただ紅の涙の中にこれを伏し拝するのみであった。
 そして、この不思議の還御こそ「広宣流布は甚だ近し、よって身命を捨てて法を弘むべし」の仏意・仏勅であられた。まさに広宣流布は最終段階に突入したのである。仏勅を聞き奉った顕正会の死身弘法は一段と加速し、昨年十一月、弘通は六十八万に達した。

 その中に、御遺命を守り奉った顕正会は、自然と「宗門の中の顕正会」から「日本国の中の顕正会」という立場になった。
 六十八万の仏弟子の大集団はすでに無視できぬ存在として、一国が注目し始めたのである。月刊誌も、週刊誌も、一流新聞も、相次いで顕正会を論評するようになった。だが、日蓮大聖人に一筋の忠誠を貫ぬく顕正会の純粋さ、清らかさは、三毒で濁った輩の理解を超える。ゆえにその論評のことごとくは、偏見と悪意に満ちている。もし偏見と怨嫉を去って見れば、わからぬはずがない。
 顕正会の過去の足跡は「折伏理論書」第九章・十章に明らかであるし、顕正会が日本国民に訴えていることは「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」に明白ではないか。理解できぬのはただ偏見のゆえである。
 濁悪の日本国の中に、日蓮大聖人の御遺命を奉じて立つ仏弟子の大集団が在る意義がいかに重大か。――日本の人々は、信じようと信じまいと、顕正会の叫びにふれ、初めて御本仏の厳然の御威徳と、御遺命たる国立戒壇を命に刻みつける。そしてここに一国に微(しるし)が現われるのである。
 もし一国こぞって日蓮大聖人を蔑(あなず)り、国立戒壇を憎み、顕正会を軽賎(きょうせん)するならば、そのとき「梵天・帝釈等の御計(みはからい)として、日本国一時に信ずる事あるべし」の仏語は事実となる。
 とまれ顕正会の使命は重い。一人ひとりが「日本国の中の顕正会」の自覚を胸に、毅然と立とう。七十七万が成れば百万法城はすでに眼前、そして、百万が成れば一千万は必ず成る
 大聖人は顕正会の前進をお待ちあそばす。
 さあ、日本を救う大行進を、一段と加速させようではないか。

   平成十二年元旦


 

【広宣流布の最終段階を迎えて】(平成十三年)

 年頭の辞

   【大事には小瑞なし】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 広宣流布・国立戒壇建立は、御本仏日蓮大聖人の究極の大願、唯一の御遺命である。ゆえに冨士大石寺門流においては、この実現を唯一の悲衘・宿願として、折伏弘通に励んできたのであった。
 そしていま、大聖人御入滅よりすでに七百二十年――。広宣流布はいよいよ最終段階を迎えたごとくである。そのゆえは、未曾有の大悪が正系門家に起きたからである。
 大聖人は仰せ給う。「大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる」と。小事が順調の積み重ねの上に成ることは「小事こそ善よりは起こりて候へ」の御指南のごとくである。しかし広宣流布・国立戒壇建立ほどの大事ともなれば、順調の上に成ることはあり得ない。必ず未曾有の大悪が起きて、始めて大事が成就されるのである。

 いまその未曾有の大悪が、仏法の世界に起きた。すなわち正系門家において、大事の御遺命が破壊されんとしたことである。第六十六、七代の二代にわたる貫首は、天魔その身に入りし池田大作に諂い、あろうことか正本堂を御遺命の戒壇とたばかり、国立戒壇を永久に放棄する旨の宗門決定を下したのであった。貫首として、命を賭しても守るべき御本仏の御遺命を、貫首自らが破壊せんとしたこと、これに勝る師敵対はない。
 この大罰は直ちに現われた。六十六、七代の間において、御相承の授受不能という異常事態が招来された。これまた七百年来曽ってなき大悪である。
 かくのごとき大悪が起これば、大善の来たることは疑いない。まさに知るべきである。御遺命が破壊されんとした大悪こそ、御遺命成就の大瑞。また御相承授受不能の異常事態こそ、日目上人御出現の大瑞ではないか。
 仏法にこのような大悪がおこれば、世間もまた濁乱する。

 見よ。「一切の人衆皆善心無く……」の御金言そのままに、貪欲・瞋恚・愚癡の三毒倍増がもたらす凶悪犯罪は、いま一国杜会を覆いつつある。
 また政治家はみな国を忘れて利権漁りに現を抜かし、その無責任のもたらすところ、今や国家財政の破綻は不可避となってしまった。これすべて亡国の兆である。そして国家における大悪は、他国侵逼の大難である。その前相たる巨大地震はすでに足元に迫っている。
 撰時抄を拝見すれば、一国の謗法により他国侵逼おこるとき、国を惜しみ、身を惜しむゆえに、一国一同始めて「南無日蓮大聖人」と手を合わせ「南無妙法蓮華経」と唱えるに至るとの、重大な御預言がある。隣国の不穏の動きを見るとき、広宣流布はまさに最終段階を迎えていると云わねばならぬ。
 このとき御奉公するのは、理不尽なる解散処分を受けるとも御遺命を死守し奉った、七十六万の仏弟子の大集団・顕正会以外に、日本国に誰人がいようか。
 すでに三災七難を乗り越え戦う本陣も築かれた。新しい戦い、最終段階の戦いを起こし、大聖人様に応え奉らねばならない。
 顕正会の一筋の死身弘法の行く手に、必ずや広宣流布がある。
 「日本国一時に信ずる事あるべし」の第二の不思議を拝見させて頂くその日まで、御生骨が光りを放つその日まで、一筋の忠誠を貫き通し、大聖人様のお誉めを賜わろうではないか。
 
   平成十三年元旦


 

【聖滅後七二一年の新春を迎う】(平成十四年)

 年頭の辞

  【濁悪の世に百万の地涌出現】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 広宣流布への重大な節たる百万は、いよいよ平成十五年(二〇〇三年)の十一月には、大地を的として成し遂げられる。
 顕正会が広宣流布を見つめて発足したのは昭和三十二年八月。以来、死身弘法の星霜を重ねること実に四十五年。その間、最も重大な御奉公は、御遺命守護の戦いであった。
 およそ国立戒壇の建立は、御本仏・日蓮大聖人の唯一の御遺命、そして宗門七百年の悲願・宿願であった。
 しかるに池田大作は国立戒壇を否定せんとして、俄に建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽り、時の貫首またこれを承伏した。この誑惑は、池田大作にとっては選挙のため、宗門僧侶においては保身からの阿諛(あゆ)であった。
 この御遺命破壊の大悪を見て、顕正会は身を捨てて諌め続け、ついに解散処分を蒙った。
 このときの会員数は一万二千。理不尽とはいえ、絶対権威の宗門管長から下された解散処分は、信徒団体にとっては死罪に等しきものであった。
 だが、顕正会の死身弘法は、その嵐の中にも一時も止むことがなかった。そして平成十年四月、「不思議の還御」と「正本堂崩壊」の仏意を拝見して紅涙を流したこと、昨日のごとくである。
 この御遺命を守護し奉った顕正会が、いまついに百万の死身弘法を成し遂げんとしているのだ。これ、末法濁悪の直中(じきちゅう)に、御本仏に応え奉らんと、地涌の流類続々と集い来たるの姿そのものではないか。
 三大秘法抄に仰せられた「末法濁悪の未来」とは、まさしく今日の日本である。

 見よ。人心が荒廃したこと、今日より甚しきはない。人ごとに欲望肥大・自己中心で放埓に陥ったゆえに、凶悪犯罪は一国に満ちている。立正安国論には 「一切の人衆皆善心無く、唯繋縛(ただきばく)・殺害(せつがい)・瞋諍(しんじょう)のみ有りて……」
 また 「衆生の父母に於ける、之を観ること樟鹿(しょうろく)の如くならん」と。この明鏡は、まさに今日の日本を映し出している。
 この三毒渦まく日本に、いま刻々と二大氷山が近づきつつある。そして国家財政の破綻も巨大地震の発生も時期を同じくし"早ければ二〇〇二年、遅くとも二〇〇五年"ということは、容易なことではない。この二大氷山の到来こそ、恐るべき他国侵逼の予兆に他ならない。
 御在世には正嘉元年に三度の巨大地震があり、なかんずく八月二十三日の地震は前代未聞であった。この地動をご覧になった大聖人は「他国より此の国を破るべき先相なり」と断じ給うておられる。
 いま迫りつつある東海地震も、東南海地震・南海地震さらに首都圏直下地震に連動することを、専門学者は一致して指摘している。この巨大地震の連発こそ、他国侵逼の凶瑞、そして事の広宣流布の大瑞でなくて何か。
 かかる重大な時期に、宗門は戒壇の大御本尊を誹謗する身延の悪僧を招くほどに腐敗し、学会また「ガンジーを魂とする」とまで堕落している。このとき、濁悪の日本国に、御遺命を守り奉った百万仏弟子の大集団が、ひとり忠誠を貫き、大聖人様に応え奉るのである。
 無道心の宗門・学会は大聖人を忘れ、御遺命を忘れている。顕正会は一念も御本仏を忘れず、見つめるところはただ「先師の遠望」のみである。
 大聖人様の御心のまま、身を捨てて一国を諌暁する百万の地涌の大集団あれば、日本は必ず救える。
 さあ、明年十一月の百万達成めざし、万人ひとりが全く新たな決意で、新たな戦いを起こそうではないか。

   平成十四年元旦


 

【聖滅七二二年の新春を迎う】(平成十五年)

 年頭の辞

   【日本の夜明け】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 百万法城は、ついに本年の十一月、濁悪を極める日本国の中に厳然として屹立する。顕正会が三百数十名の同志を以て広布の前進を開始したのは昭和三十二年八月三日。始めはせせらぎのごとき小さな流れであったが、徐々に水嵩を増し、今や一国をも揺さぶる大河となった。
 大聖人は「身命を捨てて法を弘むべし」(松野抄)と告勅し給い、日興上人は「未だ広宣流布せざる間は身命を捨てて随力弘通を致すべき事」と遺誡し給う。この仏勅を仰いで「早く弘めなければ大聖人様に申しわけない」との一忿で、たゆむことなく前進を重ねて来たのが、顕正会の死身弘法であった。
 その弘通が一万に及ばんとしたとき、御遺命を破壊せんとする黒雲が宗門を覆った。この大悪を見て黙止すれば大不忠になる。これを恐れるあまり、身の破れるをも顧みず宗門諌暁に立ち、覚悟のごとく解散処分を蒙った。
 だが、この嵐の中にも、折伏弘通は一時として止むことがなかった。そして二十万に達したとき「本門寺改称」の陰謀を打ち擢(くだ)き、五十万のとき最初の一国諌暁に立ち、その九ヶ月後には「不思議の還御」を紅涙の中に拝し奉り、本年ついに発足以来の重大の節・百万をまさに成し遂げんとしているのである。

 しかも時は、日本の亡国に当っている。平成九年には御在世以来の最大といわれた彗星が出現し、時を感じて最初の一国諌暁に立ったのであるが、遠からず日本は巨大地震の連発に見舞われる。日本の人々は知らずとも、この天変地夭こそ、恐るべき他国侵逼の前相に他ならない。
 七百年前の日本国は、あろうことか主・師・親の三徳、大慈大悲の日蓮大聖人に対し奉り、二度も流罪し、ついには御頸刎ね奉るという、血の凍るような大逆罪を犯した。この大禍により、大蒙古の責めがあったのである。
 だが日本の人々は、未だに大聖人に背き続け、しかも七百年前の大逆罪を全く忘れ去っている。たとえ凡夫は忘れても、日本国の犯したこの大禍は消えず、諸天またこれを凝視している。凡夫にとって、七百年前は今日とは無関係の遠き昔のごとくに思えるが、諸天にとっては昨日の出来事なのである。
 されば大聖人は、諸天が二千二百余年前に、法華経の会座で釈尊に誓った「世尊の勅(みことのり)の如く当に具(つぶさ)に奉行(ぶぎょう)すべし」の誓状を重しとされ、その誓いを果たすことを申し付け給うておられる。かかる諸天、もし御本仏に背き続けるいまの日本を見るならば、如何ように思うであろうか――。必ずやこの国土を捨て去るに違いない。
 このゆえに、いま日本国に、人心の荒廃、政治の炉心溶解、国家の破産等々の亡国の予兆が現われ、さらに大地動乱ののち他国より逼(せ)められんとしているのである。
 すべては、日蓮大聖人に背き奉るところに起因している。
 このとき、百万の地涌の大集団が、濁悪の日本に出現せんとしている。この大集団は、一念も御本仏を忘れ奉らず、一切世間の名利を求めず、ただ日蓮大聖人の大恩徳を一国に顕わすことを以て命としている。
 この仏弟子の大集団の雄叫びが一国にこだまするとき、日本の人々は順逆を問わず、御本仏の重き御存在を始めて知る。この大運動だけが、日本を根本から変革し、国家を救済するのである。
 されば百万達成こそ"日本の夜明け"である。油断なく法城の石垣を積み上げようではないか。

   平成十五年元旦


 

【聖滅七二三年の新春を迎う】(平成十六年)

 年頭の辞

  【御照覧直下の戦い】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 末法濁悪只中の日本に、百万の清き仏弟子の大集団が出現した。世間の人々は、まだ誰もこの意義を知らない。この集団は、正系門下において国立戒壇の御遺命が破壊されんとするを見て、諌め、ために苛酷なる解散処分を受けた。
 しかし御本仏への忠誠の念いは片時も失せず、ますます死身弘法に身を挺し、ついに解散処分より二十九年を経て、百万の弘通を成し遂げた。時あたかも旧暦の十月十三日であった。まさしく大聖人様が、手を引いてこれを成さしめ給うたものと、拝するのほかはない。顕正会はここに、大聖人御馬前の法戦場に到達したのである。
 大聖人の御心は、早く日本国の一切衆生に三大秘法をたもたしめ、人々を仏に成さんとするにあられる。しかるに日本の人々は、御在世には御頸刎ね奉るの大逆罪を犯しながら、七百年を経てなお御本仏を無視軽賎している。この罪は「用いずば国必ず亡ぶべし」に当る。また門下は一同に、国立戒壇建立の御遺命に背いて恬(てん)として愧(は)じない。これ「悪しく敬はば国亡ぶべし」に当る。この二悪のゆえに、日本はいま亡びんとしているのである。
 このとき「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」と全日本人に告げ、一国を諌める戦いこそが、御馬前の法戦である。

 戦後六十年、日本は国防をアメリカに委ね、自らは安逸に浸りきってきた。平和ボケの日本人は、この国に危機が迫っていることに気がつかない。そのさまはあたかも火宅にあそぶ子のごとくで、「覚らず、知らず、驚かず、怖じず」(譬喩品)の無邪気さを示している。
 だが、人心荒廃した日本の前途には、すでに国家破産と巨大地震が待ち受けているではないか。そして他国侵逼の影も迫りつつある。核と生物・化学兵器を持つ北朝鮮は、いつ暴発するかわからない。また自衛隊のイラク派遣を見て、国際テロ組織は日本中枢へのテロをほのめかしている。彼ら一流の脅しではあろうが、その可能性は充分にある。
 油断だらけ隙だらけの日本ほど、狙いやすく効果の上がる国はないのだ。もし生物兵器などによる静かなるテロが国内で発生すれば、日本は瞬時にしてパニックに陥り、経済活動も崩壊しよう。それほどにこの国は脆(もろ)い。まして大地動乱ののちの本格的他国侵逼が起きたらどうなるのか。「其の時何か為んや」の仏語が身に遣る。

 すでに日本は一閻浮提大闘諍の大渦に巻きこまれつつあるのだ。この国を救うのは、御本尊のお力によるの外はない。ゆえに新尼抄には「諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん」と御教示あそばす。
 このことを、仏様の使いとして一国に知らしむる戦いをなすものは、顕正会を除いてはあるべくもない。百万の地涌の流類は、このために出現したのである。
 御照覧直下の戦いであれば、大聖人様は顕正会の一挙手一役足をご覧あそばす。この御奉公に身命を捨てて、何の悔いがあろうか。
 さあ、百万の地涌一結して、勇躍歓喜、大事の御奉公に立とうではないか――。

   平成十六年元旦


 

【聖滅七二四年の新春を迎う】(平成十七年)

 年頭の辞

  【躍進の年】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 顕正会の御奉公は、昨年より期を画する新しい段階に突入している。それは、過去四十七年の戦いを序分としての最後の戦い、すなわち御遺命成就を見据えて、捨身の御奉公をなすべき段階に入ったということである。
 そしてこの新段階における最初の御奉公が、日本国をゆさぶった、あの大規模なる一国諌暁であった。

 日本の人々は、この国に、末法の全人類をお救い下さる久遠元初の御本仏が出現し給うたことを知らない。よって当時の日本国は、邪法の僧等の煽動があったとはいえ、こぞって大慈大悲の御本仏を憎み、あろうことか御頸まで刎ね奉らんとしたのであった。
 流罪の地・佐渡の雪中で大聖人は叫び給うた。「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と。この師子吼そのままに、忽ち日本国に自界叛逆が巻き起こり、大蒙古はこの謗法の国を治罰した。
 以来七百余年、日本の人々は未だに大聖人の大恩徳を知らず、背き続けている。どうして諸天怒りをなさぬことがあろうか。
 加えて、あろうことか門下が師敵対に陥っている。すなわち創価学会は政治に狂奔して御遺命の国立戒壇建立を抛ち、宗門は阿部日顕が三大謗法を犯して御本仏に背き奉っている。諸天いかで怒りをなさぬことがあろうか。このゆえに今、いよいよ日本国は亡びんとしているのである。
 この重大事を全日本人に知らせんと、私は「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」の諌暁書を顕わした。諌暁書は全顕正会員の赤誠により列島の隅々にまで及び、配布は実に七百万部を超えた。
 そしてそれより八ヶ月、日本は異常な猛暑・洪水・台風・地震に襲われ、誰もが「今年は異常な年」を口にした。だが、この災害はまだ亡国の予兆のハシリであって、もしこのまま一国の謗法が続けば、やがて新尼抄にご予言された大災難が相次ぎ、ついには恐るべき亡国の他国侵逼が事実となる。
 しかしこの時、もし三百万の地涌の流類が一結して、大聖人の御心のままに命かけて戦うなら、日本は必ず救われる。

 残された時間は、あと十有余年――。本年の「躍進」の重大意義はここにある。さあ、全顕正会員心を一にして、日本を救う三百万、広布の鍵たる三百万を見つめ、大地ゆるがす歓喜の大行進をしようではないか。
 而(しこう)して心に懸(かか)ることは、正系門家の濁乱である。「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし、体曲れば影ななめなり」の御教示のごとくんば、国家の命運に最も深刻な影響を及ぼすの仏法の壊乱である。
 阿部日顕は御本仏の一期の御遺命を破壊せんとしたのみならず、戒壇の大御本尊に敵対している身延の邪僧を大石寺に招き、「河辺メモ」では天魔その身に入るの正体を晒している。かかるニセ貫首が、清浄なるべき大石寺に蟠踞(ばんきょ)しているのだ。しかも一分の改悔もないことは、このたびの全国教師講習会の悪言に明らかである。この師子身中の虫を「呵責し駈遺し挙処」しなければ、御本仏の怨、大不忠の者となる。――本年なすべきこと、私はすでに心に決している。
 宗門を御在世の清浄に戻すのも、亡国日本を救うのも、すべては三百万への前進にかかっている。さあ、一念信解の功徳に歓喜しつつ、共に励まし「躍進の年」を戦い切ろうではないか。

   平成十七年元旦


 

【聖滅七二五年の新春を迎う】(平成十八年)

 年頭の辞

  【法華経に勝る兵法なし】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 四条金吾殿が大勢の怨嫉者による闇討(やみうち)に遭いながら、不思議にも存命したとき大聖人は「すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給ふべし」と仰せられた。
 また権力者に取り入って権謀術数(けんぼうじゅつすう)を弄する真言の悪僧どもに対しては「汝等は人を方人(かたうど)とせり、日蓮は日月・帝釈・梵王を方人(かたうど)とせん」と仰せられている。
 これらの御指南を拝すれば、我らの御奉公の姿勢も自ずと定まってくる。広宣流布の戦いには、小手先の小細工や謀略は必要ないのである。ただ大聖人に忠誠を尽くせばよい。そして御奉公の赤誠ついに大聖人の御心に通ずるとき、諸天は動き、必ず事は成るのである。
 広布の前夜には、第六天の魔王が正系門家の仏法を壊乱する。池田大作が六十六・七の二代にわたる貫首を籠絡して、御本仏の唯一の御遺命たる「国立戒壇」を放棄させたのも、この魔の働きによる。
 この仏法の壊乱(えらん)を見て、黙止する者は仏弟子ではない。大聖人は「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」と厳しく誠め給うておられる。

 このお誠めを恐れて、私は宗門諌暁に立ったのである。
 しかし非力の凡夫が、絶対権威の「法主」と絶対権力の「池田」を諌めるということは、無謀に等しい。ゆえに忽ち顕正会は解散処分を蒙った。
 だが顕正会の諌暁は、私利私欲や感情で起こしているのではない。ただ大聖人様の御悲しみ御憤りを信心の耳で聞き奉り、これを顕わし奉ったものであれば、この諌暁の戦いには、凡慮を越える不思議が相次いだ。
 すなわち時の「法主」と池田が心を合わせて実行しようとしていた正本堂落成時における「広布達成・御遺命成就」の宣言は不可能となり、本門寺改称の陰謀は潰え、阿部日顕と池田大作は仲間割れして池田の宗門追放が事実となり、そして戒壇の大御本尊は「不思議の還御」をあそばし、正本堂は音を立てて崩壊したのであった。
 さらに今、三大謗法を犯しても恬(てん)として恥じなかった阿部日顕、宗規まで改変して「終身法主」を企んだ阿部日顕が、「最後に申すべき事」で止めを剌されたうえに、須弥壇の扉が聞かぬという御本仏の「目通り叶わぬ」のお叱りを受け、蒼惶(そうこう)として本山を逃げ出したということは、何たる不思議であろうか。

 これを以て思うに、大聖人様が「大地を的とする」と断言され、「日本国一時に信ずる事あるべし」と確言し給うた広言流布が、どうして虚しくなることがあろうか。
 御遺命を命かけて守護し奉ったゆえに、顕正会はこの「広宣流布」のお手伝いが叶うのである。
 さあ、大聖人のお待ちあそばす大法戦場へ、三百万の軍勢をもって急ぎ駆け付けよう
 すでに日本国は「第二段階」突入であれば、いよいよ気象異変は盛んになり、大地震も間近と思われる。強盛の信心でこの災難を乗り越え、一筋に三百万めざして驀進しようではないか。

   平成十八年元旦



 

【聖滅七二六年の新春を迎う】(平成十九年)

 年頭の辞

  【第二の五十年】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 本年八月、顕正会は発足五十周年を迎える。この五十年を振り返れば、まさに御遺命守護の御奉公を貫き通した五十年であった。
 御本仏日蓮大聖人の御遺命が、広宣流布・国立戒壇建立にあることは、日興上人への御付嘱状に赫々明々である。しかるに広布前夜の正系門家において、池田大作は政治野心を遂げるため、難多き「国立戒壇」を捨てて、俄(にわか)に建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽った。
 そして、この大それた謀りに、宗門の六十六・六十七の二代にわたる貫首が、大聖人の御眼も恐れず協力したのであった。
 傷(いたま)しいかな。ここに御本仏の一期の御遺命は、まんまと欺瞞の正本堂に摩り替えられ、消滅せんとしたのであった。
 この無慚をご覧あそばせば、大聖人様はいかように思し召されるか。もしこの重大な破法を見て置くならば、不忠はこの上もない。私は身の破れるをも顧みず、御遺命を守り奉らんと、連々の強訴・強諌を開始した。
 当時、顕正会は七千、対する学会は八百万、しかも誰人も背けぬ「法主」を擁していた。勝敗の帰趨(きすう)は自ずと明らかであった。

 だが、凡慮の及ばぬ数々の不思議が起きた。中にも、本門戒壇の大御本尊の還御と、正本堂の崩壊は、不思議の中の不思議であった。
 正本堂に戒壇の大御本尊を居え奉ったその日、細井日達と池田大作は誇らしげに、大御本尊安置の正本堂が「末法万年に永遠」であることを謳(うた)い上げ、その記念として、貫首は法衣一式を、池田は自ら着用の礼服を、それぞれ正本堂の地下に埋納して大衆に見せた。
 だが、ほどなくして細井・池田の間に疑心暗鬼が生じ、その抗争に性心を労した細井日達は、御相承もなし得ずに急死した。
 次いで池田の肝煎(きもいり)で阿部日顕が登座したが、これも顕正会の諌暁を機に池田と隙(げき)を生じた。この抗争は醜悪・激烈なるものに発展し、ついに戒壇の大御本尊の還御と、正本堂の打ち壊わしを見るに至ったのである。
 これほどの不思議があろうか――。「末法万年まで」と謳歌(おうか)し、全宗門僧俗もこれを信じた正本堂が、何とわずか二十六年で、地上からその姿を消したのだ。この不思議こそ、御本仏の厳たる御意の表われであった。
 すなわち大聖人様は御遺命の破壊を許し給わず、よって顕正会をして立たしめ諌暁せしめ、諸天をして正本堂を打ち壊わしめ給うたのである。
 そして池田大作は宗外に去り、阿部日顕も身を隠した。一方、顕正会には百十八万の地涌の流類が集い、国諌暁に立つにいたった。この御本仏の厳たる賞罰、私はただ伏し拝し奉るのみである。

 そして今、第二の五十年を迎えた。この五十年のうちに、大聖人が「大地を的とする」と断言し給うた広宣流布・国立戒壇建立は、必ず成ると私は確信している。五十年の中にもその前半にと、私は深く願求(がんぐ)し祈請(きしょう)している。
 広宣流布の前には、「前代未聞の大闘諍、一閻浮提に起こるべし」と大聖人は予言し給うておられるが、いま御在世の大蒙古のごとくなる中国の勢力拡大は世界をゆさぶっている。中東が、アフリカが、中央アジアが、南米諸国が、このところ一気に反米に傾いているのも、中国の巧みな資源外交と強大なる軍事力のゆえである。そして北東アジアは最も重大。この地域こそ、閻浮大闘諍の本舞台となるに違いない。
 諸天は、御本仏に背き続ける日本を、いつまでも許さない。「時に隣国の怨敵かくの如き念を興さん、まさに四兵(しひょう)を具して彼の国土を壊るべし」(報恩抄)は虚事ではない。「其の時、何んが為んや」の仏語は重い。このとき、日本は亡国となる。同時にこの時、日本一同に信ずる広宣流布は事相となるのである。
 大聖人様の、諸天に申し付けてのこの重大御化導、お手伝いを許されるのは、御遺命を命かけて守護し奉った顕正会だけである。これに勝る「仏法を得べき便り」はない。人生をかけ、命をかけて何の悔いがあろうか。
 さあ、百十八万顕正会員一結して御奉公を貫き、大聖人様のおほめを賜わろうではないか。

   平成十九年元旦


 

【聖滅七二七年の新春を迎う】(平成二十年)

 年頭の辞

  【広宣流布甚だ近し】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 上野殿御返事に云く 「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」
 また諸法実相抄に云く 「剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」と。
 このように御本仏大聖人が予言・断言あそばした「広宣流布」は、いよいよ第二の五十年の内に、必ず事実となる。
 この「時」を感じて、私は昨年の五十周年記念幹部大会において、命かけての広布最後の御奉公を、三万人の同志とともに、謹んで大聖人様に誓い奉った。
 同時に私は、御遺命のゆえに解散処分を受けた顕正会が、広布最終段階を戦うための信行を示すべきと思い、これを明示した。――すなわち、恋慕渇仰の信心をもって戒壇の大御本尊を遙拝し奉って勤行し、広宣流布をめざして死身弘法するの信行である。

 この信行こそ、御在世に立ち還った信行である。熱原の法華講衆は大聖人に一度もお目にかかることもなく、あの重大の御奉公を貫かれている。また日興上人・日目上人の上代には、専ら戒壇の大御本尊を秘蔵し奉ったゆえに、御開扉などは全くなく、ただ「広宣流布・朝夕近し」の大情熱で死身弘法を展開されたのである。
 顕正会はこの峻厳なる御在世の信行を、今に移しているのである。政治野心のために御遺命を破壊せんとした学会や、これに諂(へつら)って正本堂の誑惑に協力した上、いささかの改悔もなく営利のための御開扉を続けている禿人(とくにん)たちには、想像すらできぬ信行であろう。そしてこの信行こそ、大聖人の御意に叶い奉るゆえに、いま顕正会員は現当にわたる大功徳を頂いているのである。
 冒頭の御金言の「梵天・帝釈等の御計いとして」とは、諸天の働きにより、日蓮大聖人に日本一同、帰依せざるを得ぬ客観状勢が作られていくことである。

 見よ―。いま人類は、地球異変により刻々と生存を脅かされつつあるではないか。またこれに伴い、食糧・水・資源は乏しくなる一方で、これをめぐり各国はすでに争奪戦を演じている。ことに、あと十一年で石油が枯渇する米国と、石油消費量世界二位の中国は、国の存亡をかけて中東の石油を手中に収めんと争っている。この貪欲と瞋恚が激突するところ、「前代未聞の大闘諍」は不可避となる。
 そのなか日本は、中国・ロシア・北朝鮮の核に取り囲まれている。中国の脅威は今さら説明の要もない。ロシアは「皇帝・プーチン」によって、現在、旧ソ連を凌ぐ軍事超大国に変身しつつある。金正日の核は「気狂(きちがい)に刃物」そのものである。そしてこの三国に共通する情念は、日本に対する「憎悪」である。
 諸天の働きにより、これらの国々が四方より侵略の意志を懐くとき、日本は必ず亡びる。

 この亡国を救うのは、広宣流布以外にはない。諸天に申し付ける絶大威徳まします日蓮大聖人に日本一同帰依し、国立戒壇を建立する以外に、亡国を逃れる術はないのだ。
 いま全顕正会員は「御生骨」の大事を知り、身震いして広布の大確信に立っている。御生骨こそ、広宣流布の証明として御本仏が留め置かれた、富士大石寺に伝わる大事の秘宝である。
 だが、この重大の現証も「顛倒の衆生」には「雖近而不見」となる。命かけて広宣流布を熱願する純信の者のみが、御生骨に籠められた御本仏の甚深の御聖意を拝し奉ることができるのだ。御生骨は、すでに「広宣流布甚だ近し」をお教え下されている。
 ―― 思えば、いうに甲斐なき凡夫の我等が、何という重大な時に生まれ合わせたものか。
 さあ!一人ひとりが師子王心を取り出し、不退の猛進を開始しよう。そして御遺命成就の日、光を放つ御生骨を、全員で紅の涙の中、拝見させて頂こうではないか。

   平成二十年元旦


 

【聖滅七二八年の新春を迎う】(平成二十一年)

 年頭の辞

  【あと十有余年】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 広宣流布は凡夫の力で成るのではない。実に御本仏日蓮大聖人の、諸天に申し付け給う絶大威力によって、始めて成就するのである。
 この広宣流布について大聖人は、御付嘱状および三大秘法抄には「時を待つべきのみ」と仰せられ
 撰時抄には「大菩薩(上行菩薩)は梵帝・日月・四天等に申し下され、其の時.天変地夭盛んなるべし。乃至、前代未聞の大闘諍・一閻浮堤に起こるべし。其の時、日月所照の四天下の一切衆生、或いは国ををしみ、或いは身ををしむゆへに、乃至、皆頭を地につけ掌を合わせて、一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」と示され
 上野抄には「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国.時に信ずる事あるべし」と御予言あそばされている。
 すなわち、成仏の大良薬たる三大秘法を御本仏この国に留め置き給うとも、人々この正法に背き続け、その悪ついに極限に達するならば、御本仏は諸天に申し付け、その大罰の中に、一切衆生を覚醒せしめ給う― ということである。

 今すでに、日本国と門下の悪は極限に達しているではないか。
 日本国は七百年前、大聖大の御頸を刎ねんとし、さらに二度まで流罪し、今にいたるまで背き続けている。よって今、人々の貪・瞋・痴・は倍増し、未だ曽てなき親殺し・子殺し・無差別殺人等の濁悪の世を現出している。
 一方、この謗国を諌めるべき正系門家は、世間にへつらって「国立戒壇建立」の重大の御遺命を捨て、あろうことか正本堂という偽戒壇に、国立戒壇に安置し奉るべき本門戒壇の大御本尊を居え奉った。これほどの冒涜があろうか。
 さらに、正本堂が崩壊した後もいささかの改悔もなく、学会は選挙に狂奔し、宗門は営利目的の「御開扉」を強行している。しかも両者ともに「国立戒壇」だけは今なお頑(かたく)なに敵視しているのである。

 この大悪、すでに法に過ぎている、ゆえに諸天は怒りをなす。いま世界を覆う異常気象と大恐慌は、まさしく閻浮大闘諍の前兆である。大闘諍の胎動はすでに始まっている。
 中東では、昨冬二十八日にイスラエルがパレスチナ・ガザ地区の大規模な空爆を実施し、死傷者は千二百人に達した。イスラエルに反発する大国イランは、世界のイスラム教徒に反イスラエル闘争を呼びかけた。世界の火薬庫・中東に、動乱の口火が切られたごとくである。
 また南アジアでは、共に核を保有するパキスタンとインドが一触即発の状況に陥っているし、東南アジアではタイ、ミャンマーなど、政情不安の国か続出している。
 さらに北東アジアでは、北朝鮮の金正日の病状悪化に伴い、中国の大軍が国境に集結している。北朝鮮に非常事態が勃発すれば、中国軍は直ちに北朝鮮を占領するであろう。そのとき、朝鮮半島全体が中国の支配下に陥ることは、火を見るより明らかである。日清・日露戦争の因を振り返るまでもなく、これは日本にとって重大な危機である。

 だが何よりも、アジアに覇を唱えんとする中国の、歯車のごとく確実に進む国家戦略を見よ。
 オリンピック後、その海洋進出は露骨さを増している。日本列島はすでに中国の潜水艦・戦闘艦によって包囲されている。やがて航空母艦の建造も開始されよう。このような軍事力を背景に十二月十三日、首相・温家宝が「尖閣諸島は中国固有の領土」と公言したことは、重大な意味を持っている。
 十字御書に云く 「影は体より生ずるもの、法争経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来たるべし」
 また報恩抄に金光明経を引いて云く 「時に隣国の怨敵、かくの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」と。
 この侵略、もし戦えば残忍な殺戮が待っている。もし戦わずして併合されれば、忌しき「民族浄化」が待っている。
 だが、大聖人様はこの時、広宣流布を成就あそばす。「日本国一時に信ずる事あるべし」の御予言が、事実となるのである。この重大の御化導をお手伝い申し上げるのは、御遺命を守り奉った顕正会以外にはあるべくもない。
 残された時間は、あと十有余年―
 さあ、信心口唱を「我もいたし人にも勧める」の大行進をもって、大聖人様の待たせ給う大法戦場に急ぎ到着しようではないか。

   平成二十一年元旦


 

【聖滅七二九年の新春を迎う】(平成二十二年)

 年頭の辞

  【広布前夜の自叛・他逼を見つめよ】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞
 
 「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲れば影ななめなり」(富木殿御返事)と。
 日蓮大聖人の御遺命とは、広宣流布の暁に、国家意志の表明を以て、富士山に建立される国立戒壇である。このことは御付嘱状および三大秘法抄に、天日のごとく明らかである。
 しかるに、この御遺命成就に身を捨てて戦うべき正系門家が、なんと、「国立戒壇」を否定して偽戒壇・正本堂を建て、これを御遺命の戒壇と偽ったのだ。

 なぜこのような大それたことが起きたのか――。
 それは、政治野心に燃える池田大作が、世間に抵抗多き国立戒壇を忌み嫌い、そのうえ池田に諂う宗門の貫首が、この大誑惑に協力したからである。
 かくて、池田大作は正本堂発願式において「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又、仏教三千余年史上空前の偉業なり」(発誓願文)と、自らの悪事をかえって自讃した。これを承けて、宗門の貫首・細井日達は「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華二〇一号) と支離滅裂の諂いを述べた。
 これを見て宗門の全僧侶は先を争うように諛言(ゆげん)を並べ立てる。その一例を挙げれば「正本堂建立は即ち事の戒壇であり、広宣流布を意味するものであります。この偉業こそ、宗門有史以来の念願であり、大聖人の御遺命であり、日興上人より代々の御法主上人の御祈念せられて来た重大なる念願であります」(菅野慈雲・宗会議員)等と。
 私はこれらの諛言(ゆげん)・誑言(おうげん)を見るたびに、肚の底から熱き憤りが込み上げてくる。どうしたらこのような偽りが言えるのか。
 大聖人様に対し奉る不忠・叛逆、これに過ぎたるはない。
 大聖人一期の御遺命を破壊する大罪は、まさに御本仏の眼(まなこ)を抉(くじ)るに当る。この大罪をなした主犯は池田大作。そして共犯は、細井日達・阿部日顕等の宗門高僧であった。

 正系門下がこのように仏法を曲げて、日本が傾かぬはずがない。
 果せる哉(かな)――。偽戒壇・正本堂が完成した昭和四十七年こそ、日本亡国の扉が開く年となった。
 すなわち、この年に日中国交が樹立され、これを機に、日本から莫大なる資金がODA等の名目で中国に流れ、それがいま核ミサイルとなって、日本の死命を制しているのだ。
 またこの年から、中国は本格的な対日工作を開始した。この工作の目的は、「日本解放第二期工作要綱」に明示されているように、日本を中国共産党の支配下に置くところにある。この魔手は、すでに日本の各政党・政治家、そして民間に広くおよび、日本は確実に侵蝕されつつある。
 政権与党を牛耳る小沢一郎幹事長の朝貢にも似た大訪中団といい、習近平・中国訓主席の「天皇会見」の強要といい、諸外国はすでに、日本が中国の属国になったとの印象すら懐いている。
 また小沢一郎幹事長は、北京の帰途にソウルで講演し、外国人参政権を本年一月からの通常国会に提案すると公約した。この法案は、「公務員の選定・罷免は、国民固有の権利」と定めている憲法弟十五条に明白に違反しているが、民主・公明・社民の各党が大賛成であり、また自民党員も多数が賛成だから、成立するものと思われる。
 この法案は一見、在日韓国人の地位改善問題のごとくに見えるが、内実は中国人移民に結びつく重大さを孕(はら)んでいる。在日中国人は平成二十年末で六十五万五千人で、二位の在日韓国人に大きな差をつけ、しかも一年で五万人以上も増殖しつつあるのだ。
 さらに自民党内にも、「移民一千万人受け入れ」を提唱する議員連盟がある。この「移民」が、中国人を念頭においたものであることは論を俟(ま)たない。議連会長は中川秀直元幹事長である。
 この政策と、民主党が推進する外国人参政権付与が、中国という接点で結びついていることが、不気味なのである。

 在日中国人は一旦ことあらば、中国大使館の指令のもと、統一して戦う軍団となる可能性がある。
 その事例は、平成二十年四月二十六日、北京オリンピックのトーチリレーが長野市を通過した際の、沿道一帯に起きた異様な光景に見られる。この日、中国大使館が司令塔となり、動員された中国人留学生数千人が、巨大な五星紅旗を掲げて長野市の沿道を占拠したのである。そのさまは治外法権のごとくで、まさに日本の国家主権が蹂躙された一日であった。わずか数千人でも、かかる事態が起こるのだ。いわんや数十万・数百万人の軍団化においておやである。
 他国侵逼の前には、必ず自界叛逆が起こる。広布前夜の自界叛逆は、日本国内の大勢力となった親中派と、民族意識にめざめた保守派の激突によってもたらされよう。
 この自界叛道に、もし、中国大使館の指令で動く数十万・数百万の中国人移民が加わったら、その災厄は想像を絶しよう。そして、この「無血占領」が成功しなければ、その時、いよいよ恐るべき軍事的侵略が起こるのである。

 この亡国から日本を救うの法は、日蓮大聖人が留め置き給うた三大秘法以外にはない。大聖人様は日本国亡びんとするとき、必ず広宣流布をあそばす。その御予言こそ「ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」の仰せである。
 この大事をお手伝い申し上げるのは、御遺命を守護し奉った顕正会以外にはあるべくもない。
 「あと十二年」――。顕正会は一結して、御本仏の待たせ給う大法戦場に馳せ参じなくてはならぬ。御遺命成就の時に生まれ合わせて大事の御奉公が叶うこと、顕正会員は何たる果報であろうか。
 さあ、共に励まし、歓喜の大行進を加速しようではないか。

   平成二十二年元旦


 

【聖滅七三〇年の新春を迎う】(平成二十三年)

  年頭の辞

 【広宣流布はすでに直線コース】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 本年は日蓮大聖人御入滅七三〇年に当る。そして御遺命のゆえに解散処分を受けた顕正会の死身弘法は、本年ついに一五〇万に達する。

 日蓮大聖人の唯一の御遺命は、広宣流布の暁に富士山に建立される国立戒壇である。
 この国立戒壇が建立されれば、「本門戒壇の大御本尊」の功徳・妙用によって、日本が仏国に成るのみならず、全世界の人々もこの大法を受持して仏に成らせて頂ける。そのとき地球上から戦乱と飢餓と疫病は消滅し、事の寂光土が現出する。これこそ御本仏の大願とされるところである。
 だが、これほどの大事の成就を、第六天の魔王が座視するはずがない。ゆえに広宣流布が近づけば、天魔自ら打ちくだって、正系門家の内部から御遺命を破壊しようとするのである。
 天魔はまず、正系門家における最大実力者であり、政治野心に燃える池田大作の身に入った。池田は忽ちに「国立戒壇」を捨て、「民衆立」と称して、学会員だけで建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽った。
 このような大それた御遺命破壊、もし「時の貫首]さえ毅然としていれば、誰人が成し得よう。だが池田大作には、絶対権威の「法主」をも、思うままに操ることができたのだ。この力はまさに「形は人なれども、力は第六天の力なり」(上野抄)の仰せのままであった。

 顕正会は大事の御遺命を守り奉らんと、必死に宗門・学会を諌めた。池田大作は顕正会の口を塞がんと、宗門に解散処分を下させた。このとき顕正会は一万二千であった。
 しかしこの理不尽な解散処分により、顕正会はかえって御在世の清純な信行に立ち還った。これより、戒壇の大御本尊を遥拝しつつ、熱烈の死身弘法が展開された。 この前進を恐れた池田大作は、こんどは公権力を動かして顕正会の弘通を阻止せんとした。だがこの卑劣な謀略も虚しかった。
 そして顕正会のたゆむことなき死身弘法は、本年ついに一五〇万に達せんとしているのである。これほどの不思議はない。解散処分を受けた非力弱小の一講中が、一五〇万の地涌の大集団となったのだ。
 これ全く大聖人様の御守護以外にはない。いま日本国において、日蓮大聖人の御遺命を奉じて立つ仏弟子の大集団は、ただ顕正会だけなのである。

 そして日本国には、いま亡国が近づきつつある。大聖人様は佐渡雪中で師子吼あそばした。  「日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり。平左衛門既に日本の柱をたをしぬ。只今世乱れて、それともなくゆめの如くに妄語出来して此の御一門同士討ちして、後には他国よりせめらるべし」と。
 日蓮大聖人を信ずるか否かによって、日本国の有無、人類の存亡は決する――これが下種御本仏の大境界・絶大威徳であられる。かかる大聖人を流罪・死罪に処した鎌倉幕府は、仰せのごとく忽ちに北条一門に同士討ちが起こり、その後、大蒙古の責めを受けた。まさしく日本国の柱を倒さんとした天罰である。
 さらに御入滅後も、日蓮大聖人に背き続ける以上は、自界叛逆・他国侵逼は年ごとに激化増大する。これ仏法の定理である。ゆえに日興上人は「法華本門を建てられざるの間は・・・自他の叛逆歳を逐うて蜂起せん」と仰せられた。
 この現証は歴史が証明している。大聖人御入滅より幕末までの五百数十年は両統迭立、南北朝の大乱、戦国時代と、内戦すなわち自界叛逆の時代であった。明治以降は日清、日露、日中、日米戦争と、他国との戦いに引きずり込まれた。しかもその災厄は歳ごとに増大しているではないか。

 だが――大罰は未だ畢ってない。なぜなら、日本一同は未だに御本仏に背き続けている。加えて、あろうことか正系門家が御遺命に背き奉ったのである。諸天いかで怒りをなさぬことかあろうか。
 ここに大聖人御予言の「前代未聞の大闘諍、一閻浮提に起こるべし」が事実となるのである。  すでに御在世の大蒙古と酷似する軍事超大国・中国は、忽然として隣の大陸に姿を現わしている。その地球規模の侵略的マグマは、いま東アジア制覇に向って噴き出している。
 それが昨年九月の尖閣諸島事件であった。遠からず中国は「漁船」の大船団を繰り出し、「漁民」を装った民兵を上陸させ、尖閣を実効支配するに違いない。
 これに連動して、やがて朝鮮半島の動乱も起こされよう。そして二〇一二年をみつめて台湾統一も進められよう。中国の国産空母は現在二隻が建追申であるが、二〇二一年に実戦配備するとの予定が、数年も前倒しになると伝えられている。
 中国の日本侵略はすでに最終段階、顕正会の御奉公も最終段階。広宣流布はすでに直線コースに入っているのである。もし朝鮮半島と台湾が中国の手に落ち、空母機動部隊が日本列島を威圧するに至れば、日本の命運はここに尽きる。そのとき全日本人は始めて、国亡び命を失う恐怖に怯え戦くことであろう。
 この時、大聖人様は広宣流布をあそばす。すなわち「日本国一時に信ずる」の日が来る。日本一同に「南無日蓮大聖人」「南無妙法蓮華経」と唱え奉る日が来るのである。

 この重大の御化導を手伝いまいらせるのが、御遺命を守り奉った顕正会である。
 全顕正会員は、もったいなくも大聖人様に召し出だされた地涌の菩薩である。この最終段階の御奉公こそ「仏法を得べき便り」と歓喜し、断固としてその使命を果たし、一人ひとりが仏果を遂げさせて頂こうではないか。

   平成二十三年元旦

 

【聖滅七三一年の新春を迎う】(平成二十四年)

  年頭の辞

 【国立戒壇建立の関所】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 日蓮大聖人は末法の全人類を現当二世にお救い下さる久遠元初の御本仏であられる。この御本仏、大慈悲を以て成仏の大良薬たる南無妙法蓮華経をお勧め下さるに、当時の日本国上下は、邪法の僧等の讒言に誑かされ、あろうことか主・師・親の大聖人を憎嫉し、御命を奪わんとして流罪・死罪に及んだのであった。
 この罪禍がいかに深重か。経文には「其の人命終して阿鼻獄に入らん」とある。
 これを不憫とおぼしめされ、大聖人様は諸天に申しつけて大蒙古の責めを起こされ、改悔せしめて一切衆生の後生の大苦を救い給うたのである。
 このことを王舎城事には「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・罰し給いて 皆人に見懲りさせ給えと申し付けて候。乃至、あへてにくみては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。
 しかるに、この大慈大悲もわからず、その後の日本は大聖人を信ぜず、背き続けて今に至っている。
 「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」(下種本仏成道抄)と。すでに日本はこの罪禍により、いつ亡んでも不思議はないのである。
 加えて、一国を諌めるべき正系門家は信心堕落して、御本仏一期の御遺命たる国立戒壇建立を抛ち、恐れげもなく偽戒壇・正本堂まで建てた。師敵対これに過ぎるはない。
 仏法は体、世間は影であれば、正系門家の濁乱は必ず国家を傾ける。大聖人は伝教大師の正系門家・叡山を例として、次のごとく御教示下されている。
 「仏法の滅・不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに、異国我が朝を亡ぼさんとす」と。
 以上、一国の捨離と正系門下の違背。この二悪鼻を並べた今こそ、「末法濁悪」の直中なのである。

 ここにいよいよ広布前夜の「大罰の時代」が到来した。その号鐘が昨年三月十一日の、日本国を揺り動かした東日本超巨大地震であった。
 この超巨大地震は、大津波を引き起こして一瞬のうちに二万人の命を奪い、さらに原発を破壊して放射能を日本全土に撒き散らした。
 放射能は人間のDNAの鎖を切断して遺伝子異常を引き起こす。まさに「3・11」は、曽てなき異質の災禍をこの国にもたらしたのである。もし第二・第三の原発事故が起きたら、それこそ日本が滅ぶ。  いま地震学者は一同に「日本列島は本格的地震活動期に入った」と言い、首都圏直下、西日本超巨大地震の切迫をも指摘している。もしこれらの地震が連発したら、東京、名古屋、大阪の三大都市も潰滅しよう。まさに大地動乱は亡国の予兆なのである。
 折しも北朝鮮の独裁者・金正日の急死によって、朝鮮半島と北東アジアは激動期に入った。一方、中東では、民衆暴動の連鎖でイスラム勢力が台頭し、孤立を深めた核保有国・イスラエルのイランに対する先制攻撃が懸念されている。
 インドに隣接する、これも核を保有するパキスタンが、中国に傾斜しつつあるのも不気味だ。  日本の国債暴落・国家破産はすでに回避不能である。これが欧州の債務危機・中国のバブル崩壊・米国の財政逼迫と相互に影響し連動すれば世界恐慌となる。そして世界恐慌が世界大戦の引き金となることは、第二次世界大戦の事例に明らかである。
 いま地球上に起きつつあるこれらの動向の本質を仏法の眼で見れば --- それはまさしく、大聖人御予言の「一閻浮堤の大闘諍」に向いつつあるのだ。それがやがて我が国には、恐るべき「他国侵逼」となって現われる。

 この亡国の大難より国を救う法は、日蓮大聖人の三大秘法以外にはない。国立戒壇建立以外にはないのだ。
 しかし政治家には国を思う心なく、宗門僧侶には御遺命の大事がわからない。
 それでもいい --- 。たとえ堕落の政治家、無道心の僧侶等にこの大事がわからずとも、少しも構わない。この輩は、事が成れば「我も本より信じたり、信じたり」(上野抄)と言うに違いない。
 「春を留めんと思へども夏となる」(妙密抄)と。広宣流布・国立戒壇はもう誰人も止め得ない。
 諸天は大聖人仰せのままに客観状勢を作り、召し出だされた地涌の大集団は命かけて大法を弘通する。
 かくて国民の過半数の六千万人が地涌の菩薩の魂にめざめ、日蓮大聖人に南無し奉り、戒壇建立を熱願する時、国会の議決、閣議決定そして天皇の詔勅も申し下され、三大秘法抄に仰せのままの国立戒壇が、富士山天生原に屹立するのである。
 まさに六千万人の国民投票こそ、国立戒壇建立の関所である。
 この関所を見つめ、いよいよ本年から「御馬前の戦い」が始まる。勇躍歓喜して大聖人様に応え奉ろうではないか。

   平成二十四年元旦 (顕正新聞 第1228号)

 

【聖滅七三二年の新春を迎う】(平成二十五年)

  年頭の辞

 【六千万地涌出現は必ず成る】

                            冨士大石寺顕正会会長 淺井昭衞

 昨年は、全顕正会員が地涌の菩薩の命にめざめ、六千万地涌出現は必ず成るの大確信に立たせて頂いた年であった。
 地涌の菩薩とは、下種の御本仏日蓮大聖人の眷属であり、広宣流布のお手伝いをするために、法華経の会座においては上行菩薩に率いられて出現し、いま末法においては日蓮大聖人に召し出だされて広布に戦う、無数の菩薩の集団である。
 日本国の人々は、この国に御出現された日蓮大聖人が、いかに尊貴そして大慈大悲の御本仏であられるかを知らない。この大事を教え広宣流布に戦うのが、地涌の菩薩なのである。

 日蓮大聖人は外用は仏勅使・上行菩薩、内証は実に三世諸仏の根源の御仏たる久遠元初の自受用身であられる。そして末法の全人類を成仏せしめるため、大慈悲を以て三大秘法を授与して下さったのである。
 かかる御本仏の崇高の化導を、日本国の善神たる天照太神・八幡大菩薩はもちろん、宇宙的スケールの力用を有する梵天・帝釈・日月・四天等の諸天も厳然と守護し奉る。
 この絶大威徳を下種本仏成道御書には「教主釈尊の御使なれば、天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ、手を合わせて地に伏し給うべき事なり。法華経の行者をば、梵釈左右に侍り日月前後を照らし給う。かかる日蓮を用いぬるとも、悪しく敬わば国亡ぶべし。何に況んや数百人に憎ませ、二度まで流しぬ。此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、且く禁をなして、国をたすけ給えと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、法に過ぐれば罰あたりぬるなり」と。
 仰せのごとく、日蓮大聖人は外用は仏勅使・上行、内証は久遠元初の自受用身。よって天照・八幡は地にひれ伏し、梵釈・日月は左右前後に侍って守護し奉るのである。
 かかる尊貴の大聖人を、当時の日本国は流罪・死罪に処し、しかも第三度の諌めにも改悔なきゆえに、「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」として、蒙古の責めという大罰を受けたのである。

 だが、日本国はそれより今にいたるまで、大聖人を軽賎し背き続けている。
 加えて、一国を諌めるべき正系門家は政治野心に燃える池田大作に諮って、唯一の御遺命たる「国立戒壇」を否定して偽戒壇・正本堂を建て、あろうことか、国立戒壇に安置し奉るべき本門戒壇の大御本尊を、その偽戒壇に居え奉ったのである。
 御本仏を冒涜し奉るの大罪、これより甚だしきはない。諸天いかで怒りをなさざらんや。
 ここに「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」の仰せのままに、いま日本に、御在世以来の亡国の大難が起こりつつあるのだ。
 その大難とは、巨大地震の連発、それに伴う原発災害、国家破産、そして他国侵逼の四つである。
 巨大地震の連発は、これ亡国の号鐘、他国侵逼の前相・凶兆である。一昨年の 「3・11」巨大地震を皮切りとして、首都圏直下、南海トラフの二大地震もいま刻々と近づきつつある。さらに陸域の活断層で発生する地震は列島の到るところで起こり得る。この未曽有の大地動乱だけでも、日本は潰滅的打撃を受ける。
 原発災害・国家破産の惨害については、もう説明の要もない。
 そして今、御在世の大蒙古を彷沸させる隣国の軍事超大国は、いよいよ日本への敵意を露わにして来た。
 日蓮大聖人に背く国には、諸天の力用により、自然と隣国の王が侵略の意志を懐くのである。
 ゆえに報恩抄には経文を引いて「時に隣国の怨敵、かくの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」と。
 この他国侵逼が起こるとき、日本は滅亡する。すべては仏法より事起こるのである。

 今の日本を見れば、刻々と近づく四大災難になす術もない。やがて日本は八方塞がりとなって滅亡を待つのみとなる。
 このとき、全日本人に、日蓮大聖人の大慈大悲と御本尊の大功徳を教えるのは、日蓮大聖人を魂とする地涌の大集団たる、我が顕正会以外にはあるべくもない。
 御遺命のゆえに解散処分を受けた顕正会が、いま一五六万の大集団となって国立戒壇めざして日本を独走しているのも、また「末法万年の事の戒壇」と偽称した正本堂が音を立てて崩壊したのも、すべてはこれ大聖人様の御仏意による。
 されば、日本国亡びんとする時、国立戒壇建立を決する鍵たる六千万の地涌出現が、叶わぬはずは断じてない。
 日本に残された時間は少ない
 さあ本年より、いよいよ大規模の死身弘法を以て、何としても大聖人様に応え奉ろうではないか。

   平成二十五年 元旦 (顕正新聞 第1262号)



解 説


 現役会員諸氏にとって、「年頭の辞」は浅井会長と顕正会の過去の足跡を知る、よい資料となるでしょう。当サイトの「沿革」や「年表」と照らし合わせ、熟読していただきたい。
 顕正会の失速状況が、他ならぬ無二の師匠・浅井先生の御言葉で、了解できるでしょう。

 また以下のように、周期的に「あと○○年」や「御馬前の法戦」というフレーズが現れ、そして「国会請願」や「一千万」のような禁句・死語もあることが、お判りいただけるでしょう。

  ・平成07年:「あと二十年」
  ・平成08年:「六年後の十万人の国会請願」
  ・平成09年:「大聖人のお待ちあそばす大法戦場へ、一結して勇躍出陣しよう」
  ・平成10年:「最終段階の戦いは開始された」、「一千万をめざし大地ゆるがす大行進」
  ・平成11年:「平成十四年の百万は必ず或る」、「一千万は必ず成る」
  ・平成12年:「広宣流布は最終段階に突入した」、「百万が成れば一千万は必ず成る」
  ・平成13年:「いよいよ最終段階を迎えたごとく」
  ・平成14年:「国家財政の破綻も巨大地震の発生も時期を同じくし、早ければ二〇〇二年、遅くとも二〇〇五年」
  ・平成15年:「百万達成こそ"日本の夜明け"」
  ・平成16年:「大聖人御馬前の法戦場に到達した」、「御照覧直下の戦い」
  ・平成17年:「最後の戦い」「残された時間はあと十有余年」、「広布の鍵たる三百万」
  ・平成18年:「大聖人のお待ちあそばす大法戦場へ・・急ぎ駆け付けよう」
  ・平成19年:「この五十年のうちに・・広宣流布・国立戒壇建立は、必ず成る」
  ・平成20年:「広布最終段階」
  ・平成21年:「残された時間は、あと十有余年」、「大法戦場に急ぎ到着しようではないか」
  ・平成22年:「御本仏の待たせ給う大法戦場に馳せ参じなくてはならぬ」、「あと十二年」
  ・平成23年:「広宣流布はすでに直線コースに入っている」
  ・平成24年:「本年から『御馬前の戦い』が始まる」、「国民の過半数の六千万人」
  ・平成25年:「日本に残された時間は少ない」、「六千万の地涌出現」

 浅井会長のこの「年頭の辞」の変遷を、整合性を以って理性的に理解することは、なかなか難しいかもしれません。「あと○○年」という言明は、その時々の勢い(感情の発露)を示す形容詞に過ぎず、数字そのものに意味は無いという解釈もできそうです。しかし、そんなはずはないでしょう。
 その時々、浅井昭衛氏は過去の数字との整合も考え、心魂を傾け熟慮を加え最重要の方針として、「あと○○年」と表明しているはずです。そしてその結果が、今日の現実でした。

 平成12年に「広宣流布は最終段階に突入」しましたが、翌年に「最終段階を迎えたごとく」とやや後退しました。しかし、平成20年でも言及されるように、現在が「広布最終段階」であることは一貫しています。
 平成16年の百万達成が「大聖人御馬前の法戦場に到達」であり、顕正会はついに「御照覧直下の戦い」「最後の戦い」の段階に入りました。ところが平成18年には、到達したその「大聖人のお待ちあそばす大法戦場」が「急ぎ駆け付けよう」と軽やかに変化し、蜃気楼のように遠ざかってしまいました。平成21年・平成22年でも、同様のことが言われます。
 これは些細な揚げ足取りではなく、本質的・構造的な問題に起因しています。浅井昭衛氏がもし、化城喩品(法華経)の「方便力」を念頭に置いているなら、明確な確信犯と云えるでしょうし、もし「化城」だとしてもさすがに数回が限度でしょう。この「方便」の問題については、別途論じることにしましょう。

 さて、浅井会長の「年頭の辞」の構文・構造は、概ね共通するパターンを有しています。
 1)創価学会の法義違背を糾し、池田大作氏の野望を阻止した、自身の過去(40年前)の栄光。元会員の間では、「武勇伝」と呼ばれます。
 2)犯罪多発や地震・異常気象の脅威、経済危機や国際情勢等の時事問題に結びつけ、「日本は必ず亡びる」「残された時間は、あと○○年」と、恐怖感・切迫感の植え込み。
 3)広宣流布・国立戒壇建立で、すべての脅威・難題が手品のように解消・解決する、という短絡と幻想。

 年の初めにあたって浅井会長は昨年を総括し、新年の指針を格調高く「年頭の辞」に示します。しかし、その内容を時系列に一覧すると、どのように「あと○○年」が後退して行くか、一目瞭然です。
 「あと○○年で司法試験に合格する」とか「あと○○年で上場会社の社長になる」等と、大言壮語を繰り返しその「○○年」をどこまでも先延ばししている人が身近にいたら、どうでしょう。
 身内・家族がそうだったら当人の将来が心配でしょうし、同級生や同僚だったら可哀想だしあまり関わりたくないかもしれません。政治家や大臣だったら、野党やマスコミの批判は免れないでしょう。ではそれが「宗教家」だったら、同じようなことが許されるのでしょうか。
 顕正会員諸氏には、「あと○○年」や「朝露のごときはかない人生をこの大仏事に」という言葉に隠された、本当の意味をよく考えていただきたいと思います。

 平成10年の年頭の辞では「一千万をめざし」と述べ、平成12年には「一千万は必ず成る」としていたが、巨大地震到来で誇大妄想にさらに拍車がかかりました。
 妄想とは非合理的な思い込みであり、根拠が薄弱であるにもかかわらず、確信が異常に強固であることや、経験・検証・説得によって訂正不能であり、内容が非現実的であることが特徴とされています。
 現在の百五十万ですら幻想であり、実態が伴わない化城であることを、浅井会長はよく知っているでしょう。
 すべて重々承知の上で、三百万や一千万や六千万という実現不可能な妄想に耽溺し、浅井会長は会員を騙し続けています。

 平成25年の年頭の辞では、「日本に残された時間は少ない」と述べています。浅井昭衛会長の年齢は81歳、「残された時間が少ない」のが浅井氏自身であることは、誰の眼にも明らかです。
 巨大地震・原発災害・国家破産・他国侵逼の「四つの大難」が眼前となったまさにその時、浅井昭衛氏にはもう「残された時間」がありません。会長の論法を適用すれば、それが「御仏意」ということになるでしょう。

 平成26年の「年頭の辞」、着目させていただきましょう。

                                          櫻川 忠


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