冨士大石寺顕正会の基礎知識

一、仏法とは何か

 

成仏という無上幸福


 仏法とは、生命の真実の相を知ることにより、「成仏」という永遠に崩れぬ幸福境界を得る実践法である。
 “生命の真実の相を知る”とはどういうことか。今日、科学の分野においても、生命に対するさまざまな解明が行われているが、これらは未だ部分の解明にすぎない。仏法でいう生命の実相を知るとは、空間的には我らの生命を生み出した大宇宙との関係より我が生命の本質を見究め、また時間的には、三世永遠の時間より我が生命を見つめることである。
 かくて、大宇宙と一体にして無始無終なる我が生命の実相を把握した時、「成仏」という無上の幸福境界を得るのである。このことを日蓮大聖人は「およそ成仏とは、我が身を知って仏に成るとは申すなり」(十二因縁御書)と仰せられている。
 しかし、智恵浅き我ら凡夫がいかに力むとも、このように三世と法界を尽くして生命の真実の相を見究めるなどということは、できるわけがない。それでは、「成仏」という幸福境界は凡夫には得られないのであろうか。
 ここに仏様の大慈悲の御化導がある。仏とは、キリスト教における神のような、想像上の仮空の存在ではない、歴史上に実在する覚者である。仏と我ら凡夫との違いは、智恵と慈悲の深さ・広さにある。仏とは、大智恵を以て生命の極理を覚り、まず御自身が唯一人成仏の境界を証得された。この仏様の思いは、“何としても一切大衆をこの幸福境界に導き入れたい”との念願だけである。かくて大慈悲を以て一切大衆に教えられた成仏への実践法が、すなわち仏法なのである。

 仏とは日蓮大聖人

 では、末法(釈迦仏滅後二千年以降の時代)の今日、世界の人類を「成仏」へと導いて下さる仏様とは何方かといえば、日蓮大聖人こそ末法唯一人の仏であられる。
 ここで、日蓮大聖人が仏であられることを少々説明すれば、大聖人は御年三十二歳の時、透徹した御智恵を以て自身の生命を観ぜられ、我が生命には大宇宙のあらゆる存在(十界三千の諸法)が本来具っており、我が身は即大宇宙(法界)であることを知り給うた。この生命の極理が「一念三千」であり、大聖人はこれを「南無妙法蓮華経」と名づけられた。
 これより大聖人は自ら「南無妙法蓮華経」と唱えられ、他人にもこれを勧め給うた。当時の日本では、国中に念仏・真言・禅・律等の邪法がはびこり、国主を始めとして全民衆がこれを信じていた。その中にあって大聖人は“諸宗は成仏の法ではなく、かえって人を不幸にする邪法である。成仏の法は南無妙法蓮華経以外にはない”と、声も惜しまず大慈悲を以て教えられた。
 邪法の輩は大聖人を憎み、その命を奪わんとして国主に讒言した。ここに大聖人御年五十歳の時、ついに国家権力による死刑が執行されることになった。
 文永八年九月十二日の深夜、数百人の武装兵士が取り囲む刑場・竜の口の砂浜に、大聖人は静かにお坐りになった。首切りの役人が太刀を持って後ろに立つ、そして大聖人の御頸を刎ねんとした刹那、思議を絶することが起きた。
 突如として、満月のような光り物が海のかなたより現われ、光りわたったのである。その強烈な光に、太刀取りは目がくらんでその場に倒れ伏し、警護の兵士たちもあるいは逃げ出し、あるいはうずくまってしまった。
 その中でただ大聖人だけが「頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」(種々御振舞御書)と凜然と叫ばれた。しかし誰一人として近寄る者とてない。すべての者が怖じ恐れ、大地にうずくまってしまったのである。まさに国家権力が、大聖人の御威徳の前にひれ伏したのであった。
 このような不思議な光景が、果して人類の史上にあったであろうか。誰人も壊すことのできない境界とは、このようなものである。キリストは磔になって横死しているが、「聖人は横死せず」(神国王御書)といって、仏に横死はない。凡夫の悪に押し切られて殺されるような境界で、一切衆生が救えるわけがない。
 国家権力が大聖人を殺さんとして、かえってその御威徳の前にひれ伏した厳然たる事実こそ、日蓮大聖人が仏であられることの確証である。
 大聖人の一代の御化導において、この竜の口の大現象こそ、大聖人が“法界を自身と開く”すなわち我が身即大宇宙という成仏の大境界を、事実の上に証得されたことを示すものである。
 ゆえに大聖人はその後、流罪の地佐渡において、この大法悦を「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう」(最蓮房御返事)、「無作三身の仏果を成就」(義浄房御書)、「夫れ一身に十法界を具す」 「故に成道の時、この本理に称うて、一身一念法界に遍し」(観心本尊抄)等と仰せられている。すなわち御年三十二歳からの身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、御自身の生命が宇宙大の生命に広がり達する悠々たる成仏の大境界、誰人も壊すことのできない無上の幸福境界を、ここに証得し給うたのである。
 

成仏への実践法


 さて、仏様の大慈悲は、御自身が得られたこの成仏の境界に、なんとかして一切衆生を導き入れんとするところにある。
 その方法とはどのようなものか。
 哲学的な思索によって悟りを得ることであろうか。智恵は浅く三毒は強い末法の大衆が、観念思惟の力で悟りなど得られるわけもない。
 ここに日蓮大聖人は大慈悲を起こし、御自身が覚られた生命の極理・一念三千を、文字を以って一幅の御本尊に顕わし、一切衆生に授与し給うたのである。
 「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」(観心本尊抄)との仰せはこのことである。
 末法の我ら凡夫は、ただこの御本尊を信じ「南無妙法蓮華経」と唱えれば、たとえ智恵はなくとも、その意味合いはわからなくても、御本尊の仏力・法力により自ずと生命の極理を知るに当り、自然と成仏の幸福境界を得ることができるのである。
 たとえば、赤児が母乳の栄養を知らなくとも飲めば自然と成長し、病人が名医の薬の成分を知らずとも服せば病を治するのと同じである。
 実に、御本尊こそ日蓮大聖人の大慈悲の結晶である。まさに有智・無智をえらばず、御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えることなら、誰人にもできる。この信心口唱の法術こそ、末法の御本仏が全人類に教えて下さった成仏への実践法である。
 ゆえに報恩抄には「日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智・無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と
唱うべし」と仰せられている。
 

御本尊を信じ唱えるとなぜ幸せになるか

 
 仏界が湧現

 御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えると、どうして幸せになるのであろうか。一言にして云えば、我ら凡夫の生命に仏界が湧現(ゆげん)するからにほかならない。
 私たちの生命には「十界互具」(じゅっかいごぐ)といって、地獄界から仏界に至るまでの十界が、素質として誰にも具(そなわ)っている。そしてこの十界は、外界の縁にふれて、その中のどれか一つが現われる。たとえば脅迫状を見て恐怖を感ずるのは、地獄の縁にふれて地獄界が現われるのである。同じように、餓鬼の縁にふれれば餓鬼界が現われる。
 では、仏界を現ずる縁とは何かといえば、それが御本尊である。御本尊は文字を以て顕わされた仏様の御生命である。決して単なる文字ではない、文字の全体がそのまま日蓮大聖人の御生命なのである。
 ゆえに大聖人は「日蓮が魂を墨(すみ)にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。――日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(経王殿御返事)と仰せられている。
 また日寛上人は「御本尊の全体、本有無作(ほんぬむさ)の一念三千の生身(しょうしん)の御仏なり。謹んで文字および木画(もくえ)と謂(おも)うことなかれ」(観心本尊抄文段)と御指南されている。まさに御本尊は御本仏大聖人の生命そのものなのである。
 いま、この御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱えるならば、仏界たる御本尊を縁として、我ら凡夫の生命にも仏界が湧現する。仏界が湧現すれば生命力は強くなり、また諸天善神はその人を守護するようになる。
 もし生命力が強くなれば、いかなる人生の苦難も自ら乗り越えることができ、また諸天善神が守護すれば、環境がその人を守る働きに変わってくる。よって幸せになるのである。
 

仏界湧現の文証


 信心口唱によって仏界が湧現するということを、大聖人の御指南に拝してみよう。
 「但一向に南無妙法蓮華経と唱へさすべし、名は必ず体にいたる徳あり」(十章抄)。私たちの唱え奉る題目は、御本尊の名前である。名を唱え奉ることにより、体である御本尊に通じ、我が生命に仏界が湧現するのである。
 また「口に妙法をよび奉れば、我が身の仏性もよばれて必ず顕われ給う」(法華初心成仏抄)と。
 また「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う。始めはしらねども、漸く月重なれば心の仏夢に見え、悦ばしき心漸く出来し候べし」(松野殿女房御返事)
 ――南無妙法蓮華経と、御本尊を信じ唱えれば、凡夫の心に釈迦仏(本因妙の釈迦仏すなわち日蓮大聖人)が宿る。始めはそのことがよくわからないが、自覚できるにつれ、歓喜の心が湧いてくる――と。
 さらに日女御前御返事には「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ、只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」。――この御本尊を、自分を離れたよそにあると思ってはいけない。ただ我ら御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱える者の、胸の中の肉団に、御本尊はおわしますのである――と。
 すなわち信心口唱により、御本尊が我が身に住する、我が身が御本尊と一体になると仰せられる。なんと有難いことではないか。即身成仏とはこれである。
 

現当二世の大利益


 この信心をする者は必ず成仏する。
 成仏する証拠として、まず現世において宿命が変わって幸せになる。そして臨終には成仏の相(第四章参照)を顕わし、死後の生命も守られ、さらに生々世々三大秘法と離れることなく大福徳の人と生れる。
 このように現世の幸せだけでなく、死後の未来も救われることを「現世安穏・後生善処」という。“成仏という永遠に崩れぬ幸福境界”とは、この現当二世(現世と来世)にわたる大利益をいうのである。
 仏法を中途半端に理解している者が、よくしたり顔して現世の利益を否定するのを耳にするが、とんでもないことである。現世に功徳がない仏法が、どうして後生の救いとなるだろうか。力ある日蓮大聖人の仏法は、現当二世の利益を必ず頂くのである。
 まず、“現世に幸せになる”ということについて、大聖人は上野殿に次のように仰せられている。「『亦、現世に於いて其の福報を得ん』の勅宣、『当に今世に於いて現の果報を得べし』の鳳詔、南条の七郎殿にかぎりてむなしかるべしや。 --- 現世に大果報をまねかん事疑いあるべからず」(南条殿御返事)と。
 また撰時抄には「 亦於現世得其福報の八字、当於今世得現果報の八字、已上十六字の文むなしくして日蓮今生に大果報なくば、如来の金言は提婆が虚言に同じく、多宝の証明は倶伽梨が妄語に異ならじ、――されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命もおしまず修行して、此の度仏法を心みよ」とまで仰せられている。
 さらに「法華経の行者は、信心に退転なく身に詐りの親み無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥に後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」(祈祷経送状)と。
 大聖人の仰せのままに強き信心に立つ者には、後生だけではなく、今生にも宿命転換し必ず大果報を得るのである。
 また日女御前御返事には、現世の幸福、死後の守護について「かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸をまねき、後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に燈の如く、険難の処に強力を得たるが如く、彼こへまはり、此へより、日女御前をかこみまほり給うべきなり」と。
 以て、現当二世にわたる大利益を確信すべきである。
 

法は不知を許さず


  「罰」というと、人の悪行に対して仏が下す懲らしめや制裁のようにとられがちだが、そうではない。罰とは、法に背くことにより自ら招く不幸あるいは不利益のことである。
 ゆえに法があれば、背けば必ず罰がある。そして、法には大小・浅深があるから、罰もそれに応じて大小・浅深がある。たとえば、国家の法律などは人為的な浅い法であるが、背けばそれなりの報いがあり、また自然の摂理に反して不摂生をしたり、栄養が偏れば、病気を招く。また殺人・強盗等を犯せば、たとえ国法の網をのがれることはできても、必ずその報いを得る。
 これらの罰は誰が与えたものでもなく、すべて自ら招いたものである。そして背く法が深くなるにしたがって、その反動たる罰も大きくなる。この道理を兄弟抄には「くぶしをもて虚空を打つはくぶし痛からず、石を打つはくぶし痛し。悪人を殺すは罪あさし、善人を殺すは罪ふかし。或は他人を殺すはくぶしをもって泥を打つがごとし、夫母を殺すはくぶしもて石を打つがごとし。鹿をほうる犬は頭われず、師子を吠る犬は腸くさる。日月をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打ちし提婆は大地われて入りにき。所対によりて罪の軽重はありけるなり」と。
 仏法はあらゆる法の中で最も深く根底の法である。すなわち生命・生活の根本の法則、三世にわたる根底の生活法である。よって仏法に背けば、他のいかなる法に背くよりも大きな罰を受ける。
 そして“法は不知を許さず”という。意識するとしないとにかかわらず、知るとしらないとにかかわらず、仏法に背けば大罰を招くのである。
 

謗法の罰


 では、仏法に背く罰はいかなるものか。仏法の利益が現当二世であるように、罰も現世と来世にわたる。聖人御難事に「始めは事なきやうにて、終にほろびざるは候はず」とお示しのように、たとえ始めは罰がないように見えても、ついには身を亡ぼし、死後には地獄の大苦を味うのである。
 これらの罰について大聖人は「総罰・別罰・顕罰・冥罰」の四種を挙げておられる。すなわち総罰とは、一国全体が総じて受ける罰、たとえば大聖人御在世の他国侵逼がこれである。別罰とは、各個々人が別して受ける罰。顕罰とは、誰の目にもはっきりとわかる罰、たとえば熱原法難において大進房・三位房が落馬して悶死し、平左衛門が一族ともに誅戮されたようなものである。また冥罰とは、いつとはなしにじりじりと身を亡ぼす罰である。
 さらに死後の罰としては、法華経譬喩品に「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれている。このように謗法の罰は現身に身を亡ぼし、後生には無間地獄に堕ちるのである。
 謹んで御本尊を拝見すれば、右の肩には「若悩乱者頭破七分」(若し悩乱する者は頭七分に破る)とあり、また左の肩には「有供養者福過十号」(供養すること有らん者は福十号に過ぐ)と書されている。この御文こそ、御本尊を誹謗する者には大罰があり、讃嘆する者には大利益のあることを、厳然と示し給うたものである。

         (  日蓮大聖人の仏法、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第一章より  )



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