冨士大石寺顕正会の基礎知識

二、日蓮大聖人の御化導の大綱

 

御誕生と出家


 日蓮大聖人は釈尊滅後二千百七十一年に当る貞応元年(一二二二)二月十六日、安房国(千葉県)長狭郡東条の郷小湊に御誕生あそばされた。父を三国の太夫、母を梅菊女と申し上げる。
 十二歳にして仏法を学ぶ志を立てられ、ほど近くの清澄寺に登られた。この頃、御幼少の大聖人の御胸中には、仏法上の大きな疑問が胚胎していた。
 それは、当時日本国に十宗・八宗といわれる仏教の諸宗があり、そのいずれもが“我が宗こそ勝れたり、我が経こそ第一なり”と自讃していることであった。たとえば国に国主が二人いれば必ず国は乱れる、国主は一人でなければならない。これと同じように、一切経の中で王ともいうべき経は一つしかあり得ない、釈尊の本懐とする経はただ一つであるべきである。その最勝の経とは何かという疑問。
 また、仏法を行ずれば幸福になるべきなのに、承久の乱において、天台・真言の秘法を尽くして祈祷をした後鳥羽上皇等の三上皇が、何の祈りもせぬ臣下の北条義時に敗れて島流しになった現証。さらに“念仏往生”などといいながら、念仏宗の指導者たちが、ことごとくその臨終に悪相を現じていること。これらの現証が何によってもたらされたかという疑問であった。
 これらの大疑を解き、成仏の唯一の法を見出さんと、大聖人は御年十八歳、四方に経典・論釈を探るべく、諸国遊学の途につかれた。まず鎌倉に上り、ついで比叡山・京都・奈良等をめぐって一切経を閲読し、また諸宗の義を一々に確認された。
 かくて血の滲むような御修学二十年。一切経における勝劣・浅深、また諸宗の誤りは、一点の曇りもなく明白となった。
 そして末法の一切衆生の成仏の大法は、法華経本門寿量品の文底に秘沈された南無妙法蓮華経、すなわち久遠元初の自受用身の御証得、とりも直さず末法御出現の日蓮大聖人がお覚りになられた生命の極理であることを、深く深く知り給うた。
 

立宗宣言


 ここに大聖人は建長五年四月二十八日、故郷の清澄山の山頂に立ち、おりから太平洋上にゆらゆらとのぼる旭日に向い「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と、始めて本門の題目を唱え出された。これが立宗宣言である。時に御年三十二歳であられた。
 これより大聖人は政都・鎌倉に出で給い、“諸宗は無得道・堕地獄の根源、南無妙法蓮華経のみ成仏の法なり”と、声も惜まず折伏をあそばされた。
 大聖人の熱誠の御説法と御威徳にふれ、帰依入信する人々は次第に数を増した。しかしそれに伴い、念仏・真言・禅・律等の邪宗からの怨嫉も日ごとに高まり、鎌倉中に大聖人への悪口罵詈が渦まいた。
 

立正安国論


 立宗より四年目の正嘉元年、鎌倉地方に前代未聞の大地震が起きた。そしてこれより年々、激しい異常気象が続き、大飢饉・大流行病は地を覆い、ために鎌倉は屍で満ちあふれるという惨状を呈した。
 この打ち続く国土の災難を凝視せられた大聖人は、国主を諌暁して一国を救わんと、文応元年七月十六日立正安国論をしたためられた。
 その意に云わく “この災難は三大秘法に背くゆえに起きたものであり、もしこの謗法を止めなければ、必ず将来他国より侵略される大難を受けるであろう”と。
 すなわち未だ萌しもない時に、「他国侵逼の大難」を断定あそばされたのである。仏でなくて、どうしてこのような予言をなし得ようか。
 

法難


 しかし国主はこの大慈悲の諌暁を黙殺した。この立正安国論奏上を機に、邪宗の輩の怨嫉はいよいよ燃えさかり、これより大聖人の御身に、身命におよぶ法難が波のごとく襲いかかって来たのであった。
 文応元年八月二十七日には、念仏者数千人が夜陰に乗じて松葉ヶ谷草庵を襲撃し、大聖人を殺害せんとした。
 また弘長元年五月十二日には伊豆の国へ流罪。さらに文永元年十一月十一日には、念仏者として大聖人を憎んでいた地頭・東条景信が、小松原で軍勢を引きつれて大聖人を襲撃し、大聖人の右の御額に四寸(十二センチ)の傷を負わせ奉った。
 

十一通申状


 このように、一国あげて大聖人を憎み迫害するうちに、文永五年正月、蒙古国より、我が国を襲うべき旨の国書が到来した。九ヶ年前の立正安国論の御予言がここに事実となって来たのである。幕府はただ周章狼狽するのみであった。
 もしこのまま過ぎゆくならば、謗法の失により 「 此の国の人々、今生には一同に修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり 」(曽谷二郎入道殿御返事)ということになる。大聖人が最も憂え、そして不憫とおぼされていたのはこの事であった。
 ここに大聖人は、北条時宗・平左衛門等の幕府の首脳、および良観・道隆等の諸宗代表に書状を送り、仏法の邪正を一気に決すべく、公場対決を迫られた。これが十一通申状である。
 良観(律宗)・道隆(禅宗)等は、仏法に無智な民衆をたぶらかし、当時一国に生き仏のごとく崇められていた邪僧である。もとより彼等に、大聖人との法義上の対決などできるわけがない。
 追いつめられた彼等は、讒言を構えて、大聖人を殺害することを幕府の権力者に密かに訴え出た。この讒言を聞き入れたのが、当時幕府の実力者・平左衛門であった。
 

発迹顕本


 文永八年九月十二日、平左衛門は数百人の武装兵士を率いて、怒涛のごとく大聖人の草庵に押し寄せた。泰然自若として坐し給う大聖人のそばに、平左衛門の郎従・少輔房という者が走りより、大聖人が懐中されていた法華経第五の巻を取り出し、これを杖として、恐れ多くも大聖人の御顔を三たび打ち奉った。その他の兵士も庵室の中で法華経の巻物を打ち散らし、あるいは足にふみ、あるいは身にまとう等の狼藉を働いた。
 この狂態をじっと御覧になっておられた大聖人は、大音声を以て 「あら面白や、平左衛門尉が物に狂うを見よ。とのばら、但今ぞ日本の柱を倒す」(種々御振舞御書) と叱咤あそばされた。平左衛門は顔面蒼白になり、棒のごとくその場に立ちすくんだ。兵士共は“逮捕される大聖人こそ臆すべきなのに、これは一体いかなることか”と、一様に顔色を失った。
 平左衛門は、逮捕した大聖人を裁判にもかけず、その日のうちに竜の口で斬首しようと決めていた。
 この日、十二日の深夜、馬上の人となった大聖人は、多数の警護の兵士に取り囲まれて、竜の口の刑場へと向われた。途中、急を聞いた四条金吾が駆けつけ、馬の轡をとってお供する。この四条金吾は“大聖人に万一のことあれば、追い腹切って御供せん”と決意していた強信の鎌倉武士である。
 やがて一行は刑場に着いた。暗闇の中に大勢の兵士が屯(たむろ)して騒いでいる。これを見て四条金吾は「只今なり」と泣き伏した。大聖人は 「不覚のとのばらかな、これほどの悦びをば笑へかし、いかに約束をば違へらるるぞ」と仰せられた。
 やがて大聖人は頸の座に着き、静かに合掌し給うた。時はまさに丑の刻(午前二時頃)。太刀取り越智の三郎は傍に立ち、大刀を振りかざした。
 この時、大奇瑞が起きた。「江の島のかたより、月のごとく光りたる物、まりのやうにて、辰巳のかたより戌亥のかたへ光りわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物の光り月夜のやうにて、人人の面もみな見ゆ。太刀取目くらみ倒れ臥し、兵共おぢ怖れ、興さめて一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくまれるもあり」 ――― 突如として巨大なる光り物が、江の島の方角から出現したのである。
 太刀取り越智の三郎は眼がくらんでその場に倒れ伏し、取り囲んでいた兵士どもも恐怖のあまり一斉に逃げ出し、ある者は馬から下りてかしこまり、ある者は馬上にうずくまってしまった。
 もう頸を切るどころではない。一人として大聖人のそばに寄る者もない。その中で、ひとり砂浜に坐られた大聖人は厳然と叫ばれた。「いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ、近く打ちよれや、打ちよれや」
 しかし誰一人近寄る者とてない。大聖人は再び高声で叫ばれた。「夜あけば、いかに、いかに。頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」と。
 響くは凜々たる大聖人の御声のみ。返事をする者とてない。皆ひれ伏してしまったのである。―― 何たる厳粛、何たる不思議、かかる光景が人類史上にあったであろうか。まさに国家権力が、一人の大聖人の御頸を切ることができず、その御威徳の前にひれ伏してしまったのであった。
 この竜の口の大法難は、大聖人の一代御化導の上に極めて重大な意義を持っている。それは、この竜の口の大現証こそ、大聖人が久遠元初の自受用身・末法下種の本仏として、成道を遂げられたことを示すものである。
 すなわち立宗以来の身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、「法界を自身と開く」――宇宙即我が身――という御本仏の大境界を、事実の上に証得あそばしたのである。
 大聖人の名字凡夫の御身の当体が、そのまま久遠元初の自受用身と成り給う。これを末法下種仏の「発迹顕本」という。時に聖寿五十歳であられた。
 

佐渡流罪


 この大法難ののち、幕府は大聖人を佐渡へ流罪した。この北海の孤島で大聖人を待ち受けていたのは、邪僧・土民の憎悪のまなざしと、飢えと、寒さであった。しかしこれらも、大聖人の大法悦を妨げることはできなかった。
 「我等は流人なれども、心身共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう 」(最蓮房御返事)と。
 生きて帰ることの出来ないといわれる流罪の地・佐渡において、このような歓喜法悦を味わっておられるのは、劫初以来大聖人御一人であられよう。誰人も壊すことのできない絶対幸福、御本仏の大境界とは、かくのごときものであろうか。
 さて、釈尊は勧持品に上行菩薩の受ける大難を「悪口罵詈」(悪口をいわれ罵られる)、「及加刀杖」(刀で切られ杖で打たれる)、「数数見擯出」(しばしば流罪になる)等と予言証明したが、立宗より佐渡に至るまでの大聖人の御振舞を拝見すれば、この経文に一々符合している。
 「悪口罵詈」は説明の要もない。「及加刀杖」のうち「杖」は、少輔房が法華経第五の巻で大聖人の御顔を打ち奉ったこと、また「刀」は小松原と竜の口の大難。「数数見擯出」は伊豆と佐渡の両度の流罪である。
 釈尊滅後二千二百余年の間、全世界の中で、この勧持品の経文を身に読まれた御方は他にはない。まさに日蓮大聖人こそ釈尊が予言した上行菩薩その人であられること、疑わんとしてなお信ぜざるを得ないであろう。
 ここに佐渡における大聖人は、外用(経文の説相に準じた外面的御立場)は、上行菩薩、そして内証(真実の深い御立場)においては久遠元初の自受用身として、いよいよ三大秘法の御法門をお述べあそばすのである。
 「法門の事は、佐渡の国へながされ候いし已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。―― 去る文永八年九月十二日の夜、竜の口にて頸をはねられんとせし時よりのち、ふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけると思うて、佐渡の国より弟子どもに内内申す法門あり 」(三沢抄)と。
 佐渡において著わされた重要御書は数多い。その中にまず開目抄において大聖人は、末法の全人類を救うご本仏として、その鉄石・不退の御決意を、次のように述べられている。
 「詮ずるところは天も捨て給え、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責めを堪えざるゆへ。久遠・大通の者の三・五の塵を経る、悪知識に値うゆへなり。善に付け悪につけ、法華経をすつるは地獄の業なるべし。本と願を立つ。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生を期せよ、夫母の頸を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難風の前の塵なるべし。我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず 」と。
 まことに、全人類を救済せんとのこの三大誓願を拝せば、御本仏の鉄石のごとき御決意と無限の大慈悲が身にせまり、ただ身震いをおぼえるのみである。そして巻末に至り 「 日蓮は日本国の諸人に主・師・父母なり 」と結ばれている。まさしく大聖人こそ末法下種の主・師・親すなわち全人類救済の御本仏なることが、ここに明示されている。
 次いで観心本尊抄においては「 一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う 」と仰せられ、御本尊の深き御内容について、御説明されている。
 そして佐渡以後、御本尊を書き顕わされ、強信の弟子等に授与し給うておられるのである。
 

立正安国論の予言適中


 大聖人を流罪に処し奉っているうちに、蒙古の動きは不穏さを増してきた。これに怯えた幕府、ことに執権の北条時宗は一分の改悔を生じ、大聖人の流罪を許した。まさに諸天の働きである。
 鎌倉に帰られた大聖人は、文永十一年四月八日、殿中において平左衛門と対面された。国家権力者に対する第三度の諌暁である。
 権威を恐れず、いささかも諂わず、ただ国を救わんと直諌あそばす大聖人に、平左衛門は以前とは打って変った態度で、蒙古襲来の時期について尋ねた。「 いつごろか寄せ候べき 」(撰時抄)
 大聖人は答えられた。「 経文にはいつとは見へ候はねども、天の御気色いかり少なからず、急に見へて候。よも今年は過ごし候はじ 」(撰時抄)と。
 三度諌めてなお正法を用いぬ幕府を見て、大聖人は鎌倉を去り、身延へ入山された。十四年前の立正安国論に経文を引いて云く 「 聖人去らん時は七難必ず起らん 」と。
 果たせるかな、その年の秋十月、大蒙古の軍船は海を蔽って襲来した。立正安国論の御予言は、寸分も違わず適中したのである。御本仏にあらずして、どうしてこのような符合があり得ようか。
 この兼知未萌、また大難を忍受し給う忍難慈勝、さらに竜の口における絶大威力、凡夫のおよぶべからざる御本仏の御徳を、深く拝し奉らなくてはならない。
 

熱原の法難


 大聖人が身延に入山されてより、若き日興上人の猛然たる折伏が、富士南麓にくりひろげられた。この弘教により、弘安元年熱原地方に、神四郎・弥五郎・弥六郎という農民の三兄弟が入信した。この三人は宿縁のもよおすところ、日興上人の説法を聴聞するや、直ちに熱烈な信心に立ち、次々と入信する農民と共に「 法華講衆 」と名乗った。法華講衆の折伏弘通が進むにつれ、地元滝泉寺の邪僧・行智を中心とした激しい怨嫉が巻きおこった。彼等は幕府の権力者・平左衛門と連絡を取りつつ、法華講衆の潰滅を策した。
 ここに門下の信徒が受けた法難としては今までにない「 熱原の大法難 」が起きた。弘安二年九月、官憲と結託した謗法者らは、日秀(日興上人の弟子)の田の稲刈りを手伝っていた法華講衆の一同を、あろうことか“他人の稲を盗んだ”として捕縛し、直ちに鎌倉へ押送したのであった。
 この法華講衆を鎌倉で待ち構えていたのは、平左衛門であった。彼は大聖人の御威徳にはとうてい歯の立たぬことを知っていたが、その無念を、いま己の権威で法華講衆を退転せしめ、晴らそうとしていたのである。
 神四郎ら二十人は、平左衛門の私邸の庭に引き据えられた。平左衛門は法華講衆を睨めまわし、居丈高に申し渡した。「 汝等、法華経を捨てて念仏を唱えよ。そして謝罪状を書け。さすれば郷里に帰さん、さもなければ頸を刎ねるであろう 」と。
 一も二もなく農民らは恐れ畏み、命乞いをするとばかり彼は思った。――だが平左衛門の卑しき想像は完全に覆った。
 神四郎・弥五郎・弥六郎を中心とする二十人は、自若として臆することなく、一死を賭して「 南無妙法蓮華経 」と唱え、以て答えに替えたのであった。
 法華講衆の死をも恐れぬ気魄に、平左衛門は顔色を失った。この時彼の脳裏に浮んだのは、文永八年九月十二日、自ら兵を率いて大聖人を逮捕せんと庵室を襲った時の、大聖人の師子王のごとき御気魄であったに違いない。
 気圧された思いはやがて憤怒に変った。彼はかたわらに控えていた次男の飯沼判官に命じ、蟇目の矢を射させた。蟇目の矢とは、くりぬいた桐材をやじりとした鏑矢である。射ると「ヒュー、ヒュー」と音がする。彼は権威を恐れぬ農民をこの蟇目で威し、退転させようと試みたのである。
 飯沼判官の放つ矢は容赦なく、一人一人を嘖む。そのたびに平左衛門は「 念仏を唱えよ 」と威し責めた。しかし、一人として退する者はなかった。かえって一矢当るごとに唱題の声は庭内に高まった。法華講衆はただ「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜まず」の大信心に住していたのであった。
 あまりのことに平左衛門は驚き、蟇目を中止させた。そしてのち、神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を引き出し、――ついにその頸を刎ねたのであった。
 

出世の本懐


 法華講衆の身を案じ、幕府を直諌せんと鎌倉まで出向いていた日興上人は、直ちにこのことを身延の大聖人に急報申し上げた。
 大聖人は深く深く御感あそばされ、神四郎等法華講衆を「願主」として、御一代の最大事・出世の本懐たる「 本門戒壇の大御本尊 」を建立あそばされた。時に弘安二年十月十二日、聖寿五十八歳であられた。
 思うに、法華講衆の振舞は、とうてい凡夫のなせるわざではない。名もなき農民が天下の権威も恐れず、仏法のためには身命も惜しまなかったのは、ただ大聖人の師子王心によく同心し奉ったがゆえである。「 師子王は百獣に怖ぢず、師子の子又かくのごとし 」(聖人御難事)とはこれである。
 名もなき農民が、それも一人・二人ではない、集団として大聖人の師子王心に同心し奉る。この異体同心こそ、未来事の広宣流布の瑞相、国立戒壇建立の先序でなくて何であろうか。
 ここにおいて大聖人は、神四郎等法華講衆を「本門戒壇の大御本尊」の願主とし給うたのである。
 この熱原の法華講衆は弘安元年の入信、この大法難までわずか一年であった。しかも未だ大聖人にお値いする機会も得ていない。しかるに大聖人の御意に叶う御奉公を貫き通したこと、その宿縁の深厚さに、ただ驚かざるを得ない。
 御本仏がいよいよ出世の本懐を遂げんとおぼされた弘安年中に至って、血脈付法の人日興上人の弘通により、しかも戒壇建立の地の富士南麓において、かかる不惜身命の集団が忽然と出現したことは、まさに御本仏の仏力の然らしむるところと、嘆ずるのみである。
 さて、弘安二年の「 本門戒壇の大御本尊 」は、大聖人の出世の本懐であられる。
 ゆえに聖人御難事には「 去ぬる建長五年四月二十八日 --- 午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年弘安二年なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其の中の大難申す計りなし、先々に申すが如し。余は二十七年なり、其の間の大難は各々かつしろしめせり 」と。
 釈尊・天台・伝教等三聖が出世の本懐を遂げられた年数と対比しつつ、「 余は二十七年なり 」と仰せられている。すなわち末法の御本仏日蓮大聖人は、立宗より二十七年目の弘安二年に「 本門戒壇の大御本尊 」を建立せられ、ここに出世の本懐を遂げ給うたのである。
 佐渡以後、大聖人は強信・有縁の弟子に御本尊を授与されているが、これらの御本尊は「一機一縁」といって、個人に授与されたものである。
 弘安二年の「 本門戒壇の大御本尊 」は、末法の全人類に総じて授与し給うた大御本尊で、広宣流布の暁には本門戒壇に奉安さるべき御本尊なるゆえ、「 本門戒壇の大御本尊 」と申し上げるのである。この大御本尊こそ、久遠元初の自受用身・日蓮大聖人の御当体であられる。
 三大秘法のうち、本門の題目は立宗の時唱え出されたが、その本門の題目の実体こそこの「 本門戒壇の大御本尊 」であられる。そして、この大御本尊を一国一同に信じ奉る時、本門戒壇が建立されるのである。
 

付嘱


 弘安五年九月、御入滅近きをおぼされた大聖人は、師弟不二・一体の境界の日興上人に、この戒壇の大御本尊を付嘱され滅後の大導師に任じ給うと共に、仏国実現のため本門戒壇の建立を御遺命あそばした。その御付嘱状が次の 「一期弘法付嘱書 」である。
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。弘安五年壬午九月 日  日蓮 在御判  血脈の次第 日蓮 日興 」
 この御付嘱状に、付嘱の法体たる戒壇の大御本尊と、血脈と、国立戒壇の御遺命は赫々明々である。
 

御入滅


 ここに一切の化導を終えられた大聖人は、御入滅の地を武州池上の衛門大夫宗仲の邸に選ばれ、同年九月八日、九ヶ年御在住の身延を出山され、同十八日池上邸に御到着された。
 御逗留を伝え聞いて遠近より参集した門下一同に対し、大聖人は最後の御説法として立正安国論を講じ給うた。この御説法こそ、仏国実現すなわち広宣流布・国立戒壇建立を、総じて門下一同に御遺命あそばしたものである。
 そして弘安五年十月十三日辰の刻、日興上人以下の僧俗はべり奉るなか、大聖人は安詳として御入滅あそばされた。時に聖寿六十一歳。
 この時、大地は震動し、庭には時ならぬ桜の花が咲き乱れたという。天地法界も、御本仏の入滅を悲しみ奉ったのである。
 ここに一代の御化導を拝し、その大慈大悲の御振舞を偲びまいらせれば、誰か紅涙頬に伝わらざる。この深恩は、御遺命達成への捨身の御奉公によってのみ、その万が一をも報ずることができるのである。

    ( 「日蓮大聖人の仏法」、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第七章より  )


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