冨士大石寺顕正会の基礎知識

本門戒壇についての日蓮大聖人の御指南

 

立正安国論


 「汝早く信仰の寸心を改めて、速に実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊(やぶ)れんや。国に衰微無く土に破壊(はえ)無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞(ことば)此の言、信ずべく崇(あが)むべし」
 本論は立宗より七年目、始めてなされた国主諌暁の書である。ここに仏国実現の原理が、破邪、立正、安国(仏国実現)と示されている。
 「汝早く信仰の寸心を改め」とは破邪。一切の謗法・邪法を捨てることである。「速に実乗の一善に帰せよ」とは立正。文は権実相対に約して念仏・真言・禅・律等の邪法に対して法華経を「正」とされているが、その元意(根本の意)は、法華経本門寿量品・文底の大法、すなわち本門戒壇の大御本尊を「正」とされている。ゆえに「実乗の一善に帰せよ」とは“本門戒壇を建立すべし”の意である。
 立正安国論には、他国侵逼を断言された重大な御予言がある。大慈大悲の下種の御本仏を、もし一国こぞって怨み、流罪・死罪にすれば、諸天はこの御本仏を守護せんとして必ず隣国をしてこの国を責めしめる。大聖人はかねてこのことを知り給うゆえに、他国侵逼を断言し給うたのである。
 そしてこの御予言が寸分も違わず適中したということは、大聖人こそ久遠元初の自受用身・末法下種の本仏であられることの証明であると同時に、日蓮大聖人に帰依して本門戒壇を建立すれば、国は必ず安泰になることを表わしている。すなわち罰を以て仏国の功徳を示し給うたのである。
 

一期弘法付嘱書


 「日蓮一期(いちご)の弘法(ぐほう)、白蓮阿闍梨(びゃくれんあじゃり)日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富土山に本門寺の戒壇を建立(こんりゅう)せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂(い)うは是れなり。就中(なかんずく)我が門弟等此の状を守るべきなり」
 御入減近き弘安五年九月、大聖人は一代の御化導を括(くく)られて、日興上人に付嘱・遺命あそばされた。それがこの「一期弘法付嘱書」である。
 「日蓮一期の弘法」とは、大聖人の出世の御本懐・一期の大事である本門戒壇の大御本尊の御事である。この大御本尊を日興上人に付嘱して本門弘通の大導師に任じ、広宣流布の時いたれば本門戒壇を建立すべしと御遺命されたのがこの付嘱書である。最も重大の御文と拝さなくてはいけない。
 ゆえに「我が門弟等此の状を守るべきなり」とある。御遺命に背く者は仏弟子ではないのである。
 

三大秘法抄


 「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下(くだ)して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可(べ)き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提(いちえんぶだい)の人(にん)・懺悔滅罪(ざんげめつざい)の戒法のみならず、大梵天王(だいぼんてんのう)・帝釈(たいしゃく)等も来下(らいげ)して踏み給うべき戒壇なり」
 一期弘法付嘱書の助証として同年四月、門下の有力な檀越(だんのつ)・太田金吾に与えられたのが、この三大秘法抄である。本門戒壇建立の御遺命について、もし日興上人以外の誰人も知らなければ、減後においてさまざまな問題が生ずる。よって滅後を慮(おもんぱか)って書き留め給うたのである。ゆえに末文に次の仰せを拝する。
 「予年来(としごろ)己心(こしん)に秘すと雖も、此の法門を書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟(ゆいてい)等定めて無慈悲の讒言(ざんげん)を加うべし。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存する間、貴辺に対し書き遺し候。一見の後は秘して他見(たけん)有るべからず、口外も詮なし」と。
 「予年来己心に秘す」の仰せのごとく、一代の御書四百余篇の中において本門戒壇について御教示されたのは、御入滅の年に著わされた一期弘法付嘱書とこの三大秘法抄だけである。
 それは、本門戒壇の法門が一般門下の理解をはるかに超える甚深(じんじん)の法義であるうえ、国家レベルにおいて一切の邪法を捨てて三大秘法を受持することがいかに大難事であることか。このゆえに深く己心に秘し給い、太田殿に示されたのちもなお「一見の後は秘して他見あるべからず、口外も詮なし」と厳しくいさめ給うのである。
 まさしく本抄こそ、広布の前夜、本門戒壇について異議を生じた時のために、留め置き給うたものと深く拝すべきである。
 

三大秘法抄の文意(1)


 さて、この三大秘法抄において、本門戒壇がいかなる時、いかなる手続をもって、いかなる場所に建てられるべきかという大事が、初めて明示されている。
 すなわち「時」については「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と定められ、「手続」については「勅宣並びに御教書を申し下して」と定められ、「場所」については「霊山浄土に似たらん最勝の地」と御教示下されている。
 では大事な御文であるから、一文づつ文意を拝していこう。
 「王法」とは、国家そのもの、あるいは国家に具わる統治主権、国家権力等の意である。したがって「王法仏法に冥じ、仏法王法に合して」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、日蓮大聖人の仏法こそ唯一の成仏の大法・国家安泰の秘法と認識決裁し、これを尊崇守護することである。
 王法と仏法はなぜ冥合すべきなのかといえば、目的が同じだからである。国家の目的は、外敵から国土を防衛し、国民の生命・財産を守り安寧をもたらすところにある。そしてこれを実現する根本の原理・方法が、仏様の説かれた仏法である。ゆえに王法と仏法は、本来相互に生かし生かされる関係にある。
 このことを四十九院申状には「夫れ仏法は王法の崇尊に依って威を増し、王法は仏法の擁護に依って長久す」と仰せられる。
 では、王法と仏法が冥合する姿とは、具体的にはどのようなものか。それを示されたのが次文である「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法凍寒の未来に移さん時」と。すなわち、日本国の国主たる天皇も、国政を司る大臣も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、この大御本尊を守護するためには身命も惜しまぬという、あたかも有徳王・覚徳比丘の故事のごとき大護法心が、末法濁悪の未来日本国にみなぎつた時、と仰せられる。
 これが戒壇建立の「時」である。大聖人は未来日本国に、かかる姿が必ず事相となることを断言しておられるのである。
 「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、戒壇建立の手続である。「勅宣」とは天皇の詔勅。「御教書」とは当時幕府の令書、今日では閣議の決定・国会の議決がこれに当ろう。すなわち「勅宣・御教書」とは、国家意志の公式表明ということである。
 日本における国家意志の表明は、古来より「勅宣・御教書」の形態を以てなされている。敗戦後の今日においても、憲法改正・法律・政令および条約公布などの重要な国家意志の表明は、内閣の助言と承認により天皇がこれを国事行為として行なつている。これ今日に踏襲されている「勅宣・御教書」といえよう。
 いわんや広宣流布し憲法が改正された暁には、本門戒壇建立は国事中の国事として、国主たる天皇・行政府の大臣の連署により国家意志が表明されることは自明である。
 

三大秘法抄の文意(2)


 大聖人は、なぜに戒壇建立の必要手続として「国家意志の表明」を定め給うたのであろうか。
 謹んで聖意を案ずるに、戒壇建立の目的は仏国の実現にある。仏国の実現は国家次元での三大秘法受持がなければ叶わない。一個人、一信徒団体、あるいは宗門だけで建てても仏国は実現しない。ここに広宣流布のとき、一国の総意を公式に国家意志として表明し、しかる後に建立すべしと、厳重に定め置かれたのである。
 この「勅宣・御教書」の定めのゆえに、富士大石寺の先師上人は御遺命の本門戒壇を「国立戒壇」と呼称されてきたのである。
 「霊山浄土に似たらん最勝の地」とは、一期弘法付嘱書を拝見すれば「富士山」たることは明白である。そして富士山の中には南麓の景勝の地「天生原」と、日興上人は定められている。
 以上のごとく三大秘法抄を拝すれば、まさしく御遺命の戒壇とは「広宣流布の暁に、国家意志の表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇」ということになる。
 この時、日本国の魂は御本仏の当体たる本門戒壇の大御本尊となる。御本仏を魂とする国はまさしく仏国ではないか。
 次に「時を待つべきのみ」とは制試である。広宣流布以前に建てることを固く禁じ給うとともに、「広宣流布は大地を的とする」の御確信が、この御文にはこめられている。
 「事の戒法と申すは是れなり」とは、国立戒壇の建立がそのまま事の戒法に当るということ。戒とは防非止悪(非行を防ぎ、悪行を止める)の意である。すなわち国立戒壇を建立すれば、本門戒壇の大御本尊の妙用により、国家そのものが防非止悪の当体となる。そのとき国家権力は、内には人民を虐げず、外に他国を害せず、内外に慈悲の働きとなる。
 そしてこの仏国に生ずる国民もまた、一人ひとりが自ずと持戒の徳用を発揮する。すなわち世間の道徳や小乗の戒律は他律的であるが、本門の大戒は御本尊を信ずることにより、自然と我が身が防非止悪・自利々他の当体となるのである。
 このとき、貪・瞋・痴の三毒にまみれ凶悪犯罪で満ちている現今の社会は、その様相を一変する。
 「三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり」とは、本門戒壇の功徳の広大を示し給うものである。この国立戒壇は日本のためだけではない、中国・インドおよび全世界の人々の懺悔滅罪の戒法でもある。
 いや人間界だけではない、その利益は天界の衆生にまで及ぶ。ゆえに「大梵天王・帝釈等」もこの本門戒壇に来下し、日本および全世界を守護するのである。このとき、国土から三災七難は消滅し、人々は三大秘法を行じて自受法楽し、この地球は事の寂光土となる。
 日蓮大聖人の究菟の本願はここにあられる。ゆえに別して日興上人に、総じては門下一同に、この国立戒壇の建立を御遺命あそばされたのである。

       (  「日蓮大聖人の仏法」、冨士大石寺顕正会発行、浅井昭衞著、第九章より  )


FirstUpload 10/01/06-14:55 : LastUpdate 10/01/07-17:47

Copyright © 冨士大石寺顕正会の基礎知識る All Rights Reserved. Script by Petit CMS Designed by info-cache.com