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        御遺命守護の大闘争の足跡
                              編集部
     五、御遺命守護の歴史と精神

        (
妙信講の諌暁と二度の訂正

 妙信講は昭和三十二年八月三日、時の御法主・日淳上人の御命により出発した日蓮正宗の講中である。日淳上人は御認承のおり「
法華講とは墓檀家のことではない。御在世の熱原の法華講に源を発するものである。妙信講は斗う法華講となり御奉公せよ」と仰せられた。かくて今に至るまで悪戦苦斗の十七年、その大法弘通は本年六月でついに一万二千世常に達した。

 そして日蓮正宗の講中として、大聖人の御法が政治・選挙のために曲げられるのを見て黙すあたわず、昭和四十四年謗法同座の「聖人展」以来、身を捨てて学会と宗務当局の違法を諌めて来た。その連々たる諌暁は実に五年に及んでいる。
 昭和四十五年三月には「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を上書、宗務院は寂として声なく、もったいなくも猊下には妙信請の代表を本山に招かれ「この書は宗開両祖の正義、本宗の伝統そのものである」とまでの御印可を給わった。その後、妙信講は学会と討論を重ね、二度と歪曲せざる旨の確認書を認めさせ猊下のもとに納め奉り、一往の結着を見た。

 だが学会は陰では依然として改めず違約をしていることが判明した。よって昭和四十七年春、直接池田会長に対し「正本堂に就き池組会長に糺し訴う」を送ったのであった。
 池田会長は返答なく、かわって宗務院が対応し、四十七年五月には妙信講に対し「解散・除名」という非道の脅迫まで為して来たが、道理には勝ち得ず、かえって宗務院の早瀬総監と阿部教学部長は自ら責任をとって辞表を猊下に提出したのであった。
 その後、さらに学会代表と論判を重ね、ついに昭和四十七年十月三日には「聖教新聞」誌上に歪曲の訂正文を公表することで結着した。 

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