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ここで山崎氏がいう、『 浅井らの云う如く、“言論問題のときの攻撃をかわすため、にわかに正本堂を建てて御遺命の戒壇といつわり”という宣伝がそれこそいつわりであることは明らかです』とは、それこそいつわりであることはもはや明らかです。 山崎氏自身また 『 昭和四十五年の言論問題のとき、国会で「創価学会は、国立戒壇建立ということを目的としており、(略) これは憲法の政教分離の原則に違反するのではないか」という趣旨の質問が行なわれた。これにもとづいて、所轄官庁である東京都宗務課より創価学会に照会がなされた。これに対する創価学会側の回答は、「現在、建設中の正本堂が、日蓮大聖人御遣命の事の戒壇であり、これは、信者の浄財による民衆立であって、国家権力とは関係ない。したがって、国立戒壇とか国教化といった意図はまったくない」という趣旨だった』 (盗聴教団) ...と述べている通りです。 では 「言論問題のときの攻撃をかわすため」、どのように山崎氏が宗門を威圧し圧力をかけたかといえば、 『 なかば威圧と、理論闘争と、そして、「ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう」という脅しで、創価学会への同調を迫った。私も弁護士という立場で会議に出席し、早瀬総監、阿部教学部長ら宗務員役僧に対し、「いま、正本堂の意義を“御遺命の戒壇”とかかわりなし、としてしまったら、正本堂の御供養金を返還せよ、という要求や訴訟が全国的におこり、創価学会も、また日蓮正宗もつぶれてしまう。詐欺で訴えられる」と強調した。 そして、ついに押し切り、四月二十八日、時の御法主上人より、「正本堂は、一期弘法抄、三大秘法抄の意義をふくむ現時における事の戒壇なり。広宣流布の暁には、本門寺の戒壇堂となるべき大殿堂なり」との訓諭(法主が発令する、宗内最高形式の布令)を出させることに成功した 』 (盗聴教団)ということでした。 山崎氏こそ、『日達上人は、もともと、正本堂を御遺命の戒壇と断定すること(将来そうなるということもふくめて)を大変しぶっておられた』 (盗聴教団)と承知しつつ、細井師をして無理やり強引に正本堂を御遺命の事の戒壇との誑惑をなさしめた当事者であったことでした。勿論、池田大作・創価学会会長・法華講総講頭の厳命によって..。 またここで山崎氏は、 『浅井父子も、当時の元妙信講員も知った上で御供養に参加しているのです。それも、当時、法華講連合会との間のトラブルからいろいろ宇余曲折を経た上で受理されました』と、恥知らずにもすべての事情を知った上で無慚な誹謗をなすのでした。 そも正本堂の建立寄進計画発表の当初は 「正本堂の建立は、事実上、本山における広宣流布の体制としてはこれが最後なのであります。したがって、あとは本門戒壇堂の建立だけを待つばかりになります」( 池田会長、昭和三十九年五月三日 )と、明確に御遺命の事の戒壇・本門戒壇堂と正本堂は区別されていたことでした。 そして昭和四十年には、「藏の宝に執着することなく...」との訓諭に従い創価学会員も法華講員も、そして法華講の一員たる妙信講員また訓諭に付された通達の「大聖人の御遺命にして..」の文語に不審の念を懐きつつも、純信・赤誠の御供養を申し上げたことでした。 しかして池田氏の命によって法華講連合会から妙信講を潰すべく、松本能師への指導教師辞任の強要、教学部の廃止、機関誌・顕正新聞の廃止、青年部の連合会への所属強制、あげくは正本堂御供養金受領拒否等、手段の限りが尽くされたのでした。 妙信講はただ折伏弘通につとめ、ふりかかる理不尽ないやがらせ・強要を獅子の子の「千尋の谷の試練」と耐え、ひたすら忍従の時期をおくったのでした。 さて昭和四十四年一月、妙信講に五年ぶりの本山登山がかない、講員七百名が渇仰の登山を果たした際、法華講連合会・平沢委員長から「いま総本山に建設中の正本堂こそ、大聖人が三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命されたところの事の戒壇である」との御遺命破壊の講演を直に聞くに及んで、「若し正法尽きんと欲すること有らん時、当に是くの如く受持し擁護すべし」(立正安国論)の大聖人のご制誡を畏れ、昭和四十五年三月 妙信講は七千世帯達成の御奉公のあかしを以て 「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を提出、創価学会の強烈なる御遺命破壊・歪曲の威圧・圧力から猊座をお護りすべく、諌暁に立ち上がったことでした。 昭和五十年当時ならいざ知らず。今日に於いていまだに、「当時の元妙信講員も御供養に参加」などと筋違いの誹謗をなす、あたかも山崎師団の末裔の輩の心底、恥ずべく懼るべしでありましょう。 戻る 次 |
「 冨士大石寺顕正会の基礎知識 」サイト運営責任者 櫻川 忠 |
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