|
破邪新聞 昭和五十年一月二十四日号 (第4号)
特集 妙信講 デマと歪曲の数々
特集9 白を黒といいくるめる横紙やぶり
『 また九月八日には、都内末寺での号外配布の命下り、私も二十名の支部員と共に大宣寺に行き、その前で二時間御遺命の正論を叫び号外を配布しました。
ここでも道理での反論は一人もなく、ただ「出ていってくれ」の一点張り、最後に出て来た御僧侶に「正本堂が御遺命の戒壇なのか、なぜ国立戒壇がいけないのだ」と問い糺すに一言もなく、ついに、「私は妙信講の主張が正しいと思う」と明言しました。
そこで「在家の妙信講が身も財も抛って御遺命を守らんとしている時、御僧侶こそなぜ御遺命守護に立たないのか」というと、首をうなだれるだけでした』。
以上、顕正新聞 昭和四十九年十月十日号二面、“大阪にも響く御遺命の正義”と題する小石川支部神野武美の確信発表。
このわ記事ですと、九月八日大宣寺において最後に応対に出た僧侶が、元妙信講の神野武美に対し“国立戒壇は正しい”と認めたということになっています。
記者は、真髄を糺すべく大宣寺を訪問し、関係者に取材しました。当日応待に出た僧侶はすぐ判明しました、それは、記者もよく知っている博学の青年僧でしたが、冒頭にかかげた記事の件については、憤まんやる方ないといった表情で次のように述べました。
「およそ、日蓮正宗の僧侶であるならば、間違っても御法主上人猊下に敵対する元妙信講に同調などするわけがないでしょう。“首をうなだれていた”などとは、まっ赤なウソで、白を黒というが如きデッチ上げです。猊下からも先輩からも元妙信講の連中は何をいっても事実を曲げられるから相手にしない方がよいと忠告されていました。それでまじめに話しても仕方がないのではないか、とも思いましたが私は同じ青年の立場で元妙信講の青年が誤った指導者のためおろかな考えに染っているといっても純粋な動機で行動しているであろうと善意に考え、何とか迷いをさましてあげたいとの気持からきちんと話して上げました。それを逆手にとり正気の沙汰とも思えぬ捏造をして、私のみならず大宣寺の名誉までも傷つけるとは、あいた口もふさがりません。彼等の論法では、一寸でも口をきいたら、それは“謝った”ことになり、水平線以下に視線を落したら、即ち“うなだれた”ことになります。これでいくら議論しても無駄であることがよくわかりました。こんな横紙やぶりな者に、何で仏法を論じる資格がありますか」。
これをみても、彼らの云う法論とは、顕正新聞にデタラメを書くためのきっかけづくり にしかすぎないことは明らかです。
|
双方の主張はともかくとして、こうして「白を黒といいくるめる横紙やぶり 」とは、山崎氏にふさわしいことでしょう。
「 間違っても御法主上人猊下に敵対する元妙信講に同調などするわけがないでしょう」という僧侶こそ多かったことでしょう。
しかして、『宗内からも、妙信講に同情する声が上がり、宗務院をつき上げはじめた。 「果たして、正本堂を御遺命の戒壇堂と言い切ってよいのか。七百年釆の国立戒壇諭を捨ててよいのか」と、批判の声が挙がってきた』(盗聴教団)と、後に語ったのは山崎氏自身であったことでした。
理不尽な妙信講への解散処分・松本能師への擯出処分に、「私は妙信講の主張が正しいと思う」と、心中思う僧侶また少なくなかったことでした。
それにしても、『「日本国中に日蓮大聖人の教えが広まり、時の権力者が帰依したとき国家意思によって戒壇を建立する、そのときが広宣流布である」という教義は、日蓮正宗の教義の中で最重要なものであった」(盗聴教団)と百も承知しつつ、学会側代表の一人として「このまま“国立戒壇”を言っていると憲法違反で、国の弾圧を受ける」(同)と宗門を説得して押切った当事者こそ山崎氏であったことでした。
猊下の御本意・御内意を聞き奉り、その日蓮正宗の最重要の教義・御遺命を死守せんとする、わずか一万世帯の妙信講に対し、潤沢な資金を以て謀略・暴力・デマ・中傷・諜報・訴訟・破壊等の“戦争”と称する工作を仕掛け、「猊下に弓を引く」と喧伝することこそ「白を黒といいくるめる横紙やぶり 」でなくて何でありましょうか。
戻る 次
|