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    国立戒壇論の誤りについて

 
一、序論

  (
国立戒壇が大聖人の御正意であるか否か

 しかして、ここでどうしても解決しておかなければならない問題がある。それは、国立戒壇の問題である。本宗内においても、一時期、本門の戒壇のことを国立戒壇と呼称したことがあった。
 しかし、広宣流布の現実の段階に入った今、はたして、国立戒壇が、大聖人の御正意であるか否か、現時においてなおかつ国立戒壇論を主張することが正当なのか、誤謬であるのか、大聖人の仏法の本質論、現代の国家に対する認識の上から検討されなくてはならない。

 ところで、この点については、すでに昭和四十五年五月三日、東京日大講堂における創価学会総会の席上で、法主日達上人猊下は甚深の御胸中より、左の如く宣言せられている。

 「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて、国立戒壇という名称を使っていたこともありました。しかし日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提一の本尊此の国に立つべし』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に国立戒壇などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には国立戒壇という名称が一般的には理解し易かったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では、国立戒壇という名称は世間の疑惑を招くし、かえって布教の邪魔にもなるため、今後本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします。」(以下省略)

 この猊下のお言葉にすべて明らかであると思う。大聖人の仏法が、一閻浮提の宗教であるという本質論、国立戒壇という名称をかつて使用した背景、その名称を永久に廃棄するとの宣言が、この短いお言葉の中に含まれている。 
 この鳳詔を拝し、かつまた訓諭にもとづき、将来にいさきかも疑義が生ぜざるよう、猊下に逐次御指南を仰ぎつつ、茲に一論を上梓する次第である。



 “大聖人の仏法の本質論”というのであれば、すでに日淳師がこう述べられていました。「法華本門の大戒は(略)広く此の妙法が受持されまして国家的に戒壇が建立せられるその戒壇を、本門の戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によつて明白であります」(日蓮大聖人の教義)、「戒と申しますれば個人の行動の規律でありますが、此に於ては国家的の戒壇が戒法になるのであります」(同)と。

 『
一閻浮提一の本尊此の国に立つべし』を以てして、「決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません」とする論理のスリ替えは、「聖人の仏法が個人の救済のみを目標にしたものなら其でも良からうが、しかし三大秘法は国立戒壇を大関節とする、閻浮同帰を目標にする。国立戒壇は、閻浮同帰への前提だ。国立戒壇の前提は、異体同心である」(「富士門徒の沿革と教義」、松本佐一郎著)の明晰な論の前には、一言もないことでありましょう。

                          ( 平成十四年十二月二十四日、櫻川 記 )


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