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    国立戒壇論の誤りについて

 
六、三大秘法抄の戒壇の文意

  (
日寛上人の“根源”を 日達上人は“事の戒壇”と

 次に根源の文字そのものが義理の戒壇に当ることは絶対にありえない。従ってこの「根源」の二字は「枝流」の二字を簡ぶと共に、「義理、戒壇」の四字をも簡んでいる。
 すなわちこの文は、本門戒壇本尊の所住の処は根源であって、義理の戒壇でないことを明されたのであり、その区別を示されたのである。

 しからば 何故に義理の戒壇の一連の文相中に、義の戒壇でない「根源」について示されたかといえば、これは一閻浮提の山寺等の義理の戒壇と対当関連して表示する意味があるから、その便宜に随われたのである。
 文になずんで意義を見失ってはならない。

 以上述べたごとく、本門戒壇本尊所往し給う処は、日寛上人の通途の御説明による義ないし義理の戒壇には含まれないことが明らかとなった。この大御本尊の所住を日寛上人は根源と表現あそばされたが、今日達上人は現在の時に臨んで事の戒壇なりと御指南あそばしたのである。
 これに対し諸寺諸山並びに檀信徒各位の奉安し守護する御本尊は、義の戒壇に当るのである。

 かかる根本の事の戒壇ある故にこそ、その霊場を踏み奉るともがらは、無始の罪障忽ちに消滅し、妙法受持の功徳と確信を深めうるのである。かくて五十展転の随喜による折伏教化を盛んにして、遂に三大秘法抄の王仏冥合の事相を顕現するに至らんことは必然である。随って三大秘法抄の事相の事の戒壇は、根本の法体の事の戒壇まします放であることを見失ってはならない。これを忘れて事相の戒壇のみを論ずるものは、遠きを見て足元を忘れ、高きを見て先ず昇ることを忘れるに等しいのである。
 訓諭の「現時における事の戒壇」が国立戒壇でないのは勿論であるが、三大秘法抄の事の戒壇もこれを国立と見ることは、仏法の如実の展開上誤りであり、前来論ずる通りである。

 最後に「
三国並に一閻浮提の人、懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王帝釈等も来下して踏給うべき戒壇なり」の文は、戒壇の意義内容および世界平和論を展開されたものである。本門戒壇は、日本、中国、インドの三国のみならず、全世界の民衆が、ここに集って、金剛宝器戒、防非止悪拾悪持善を誓い、過去遠々劫の宿命を転換し、そこから、世界平和、仏国土を現出していくとの御意と拝する。
 大聖人の仏法は、一国のためのものではない。全世界の人々のためのものである。大事なことは、本門戒壇が何のために建てられるか、という意義内容である。この御文によれば本門戒壇は、全世界の人々の幸福と平和の実現のために建立すべきであり、全人類に開かれたものである。

 もし「勅宣並に御教書」という当時の時代背景を考慮された御文に固執し、大聖大の仏法の本質、そして仏法の全体観、また時代観を見失い、戒壇の目的自体をも失うならば、いたずらに、大聖人の仏法を「死す」所行となろう。現代において、いかにしたら戒壇の意義を実現させることができるか、これが、大聖人の末弟が最も心をくだくべき課題なのである。



 阿部教学部長は、“根源の文字そのものが”と、レトリックを重ねて「文字そのもの」を強調しては、“義理の戒壇に当ることは絶対にありえない”と誑惑を続け、加えて、“「根源」の二字は「枝流」の二字を簡ぶと共に、「義理・戒壇」の四字をも簡んでいる”と、短絡の論理を展開します。
 こうして、“すなわちこの文は、本門戒壇本尊の所住の処は根源であって、義理の戒壇でないことを明されたのであり、その区別を示されたのである”と、結論付けるのでした。

 では、 「広宣流布以前」の 「本門戒壇の本尊所住の処」は “義の戒壇”たるの明文を、ここに示しておきましょう。
 これ 阿部教学部長が、“本門戒壇本尊は根源であるから義理の戒壇ではないとして、戒壇本尊の所住と義理の戒壇とをはっきり区別された文”と云い、“寛師のあの厖大の著書の中で、おそらく一ヶ所でもあったら教えていただきたい。まず絶対ないと私は思う」(大日蓮、昭和49年8月号)と述べた威勢のイイ啖呵に対する、浅井会長からの懇切な教示でありました。

1) 法華取要抄文段に云く 「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処は即ち是れ義理・事の戒壇に当るなり。経に云く『当に知るべし、是の処は即ち是れ道場』とは是れなり。天台云く『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』等云々。故に当山は本門戒壇の霊地なり」と。
 「当山」とは、本門戒壇の大御本尊まします大石寺のことである。この大石寺を「
義理の戒壇」と明らかに仰せられているではないか。

  2) 寿量品談義に云く 「
未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇之れ無しと雖も、すでに本門戒壇の御本尊存す上は、其の住処は即ち戒壇なり」と。
 「
事の戒壇は未だ無し」とした上で「其の住処は即ち戒壇」と仰せられるのは、“義理(道理)において事の戒壇”という意である。なにゆえ義理・事の戒壇に当るのかといえば「本門戒壇の御本尊存す上は」とある。文意全く 取要抄文段と同じ。

  3) 依義判文抄に云く 「
南条抄に云く 『教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し、日蓮が肉団の胸中に秘し隠し持てり、--- 斯かる不思議なる法華経の行者の住処なれば、争か霊山浄土に劣るべき --−』云々。応に知るべし、『教主釈尊の一大事の秘法』とは、即ち是れ本門の本尊なり。『日蓮が肉団の胸中』とは、即ち本尊所住の処、これ義の戒壇なり。--− 『斯かる不思議なる法華経の行者の住処』等とは、所修は即ち本門の題目なり、住処と云うは題目修行の処、即ち義の戒壇なり」と。

 「
教主釈尊の一大事の秘法」とは、本門戒壇の大御本尊の御事である。ゆえに文底秘沈抄には「『教主釈尊の一大事の秘法』とは、結要付属の正体・蓮祖出世の本懐・三大秘法の随一・本門の本尊の御事なり。是れ則ち釈尊塵点劫以来心中深秘の大法の故に『一大事』と云うなり。然るに三大秘法随一の本門戒壇の本尊は今富士山の下に在り」と、されば「日蓮が肉団の胸中」とは本門戒壇の大御本尊所住の処である。日寛上人はこの処を「これ義の戒壇なり」と明確に仰せられているではないか。
 また 「
斯かる不思議なる法華経の行者の住処」をまた「義の戒壇」とされている。「法華経の行者」とは即日蓮大聖人、そして日蓮大聖人の御当体は即本門戒壇の大御本尊、その「住処」をまた「義の戒壇」と仰せられているではないか。以上、明文・白義あたかも天日のごとし。阿部教学部長、もっていかんとなす』 (正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む)と。

 「三国並に一閻浮提の人」 以下は、惑義の反芻でありました。

                          ( 平成十五年四月二十四日、櫻川 記 )


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