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    国立戒壇論の誤りについて

 
七、結 論

 以上において国立戒壇の名称や意味するところを、各方面から検討を加えたのである。

 しかるに今日以降の宗門においてこの名称が必要であるという理由は全然発見出来ない。かえって宗門の前進を塞ぐものであると思われる。
 国立戒壇の名称自体明治以後のものであり宗門古来の法義ではない。また法義の本質からいえば必要ないものであり、現在では非常な誤解を生ずる。とくに法主上人みずから以後この名称は用いないことを宣言あそばされている。

 いまだにこの見解に執着しているものがあるとすれば、猊下の御指南を拝し、一刻も早く執見を捨てるべきである。
 そして輝かしい広宣流布への大道である正本堂の建立に向って異体同心の聖訓を体し、僧俗全体が一致団結して邁進することが肝要であろう。(完)



 阿部教学部長は “国立戒壇の名称・意味”を検討し、“宗門の前進を塞ぐ”し“宗門古来の法義ではない”し“、現在では非常な誤解を生ずる”と「結論」します。
 “宗門古来の法義ではない”については、すでにその誑惑の論理を指摘したので、ここでは“現在では非常な誤解を生ずる”について見ておきましょう。

 昭和四十五年五月三日までは、“国立戒壇の名称も・意義”も、宗門の公論であったことは、いかな邪智の阿部教学部長と雖も否定できない事実でしょう。
 日淳師は、「国家的に戒壇が建立せられるその戒壇を、本門の戒壇と仰せられましたことは、三大秘法抄によつて明白」(日蓮大聖人の教義)とされ、細井管長も登座に際し「国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命であり、本誌大白蓮華の使命であることを忘れてはならない」(大白蓮華、昭和三十五年一月)と明言し、池田会長また 「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(奉安殿建立の意義、昭和三十一年四月)と述べ、以後・連綿として声を大にして宗門・内外に訴えて来たのでした。

 それがどうして、昭和四十五年五月三日というある“時点”を境にして、“現在では非常な誤解を生ずる”ということになるのでしょうか。
 池田会長が言論問題を自ら引き起こして国会で追求され、“現在では非常な誤解を生ずる”ことを恐れ、国会証人喚問を逃れる為に政府からの照会に「正本堂が本門戒壇」と偽りの回答したのが、昭和四十五年四月二十三日でした。それを正当化するために宗門に激しい圧力を加え、その威圧に宗門が屈したのでありました。

 もし“現在では非常な誤解を生ずる”なら、戸田会長のごとくにその誤解を解くべく努めるのが、“
日蓮大聖人の弟子・日興が遺弟・日目の末流”たる宗門の役目であり・使命でありましょう。
 “現在では非常な誤解を生ずる”から“国立戒壇の名称も・意義”も放棄・捨去るするというのでは、「
日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし、我等はやはらかに法華経を弘むべし」(佐渡御書)の人であって、五老僧が幕府の権威を怖じ懼れて、“天台沙門”と名乗ったこと と異なりません。

 “非常な誤解”という<他義>に怖じ・畏れ・屈し・迎合して、三大秘法抄をズタズタに歪曲し尽くし、自ら進んで“邪義”を構えた臆病・阿諛の阿部教学部長は、「
日蓮一度もしりぞく心なし。しかりといえども、弟子等・檀那等の中に臆病のもの」(辧殿御消息)に中り、「是の人は、仏法中の怨なり」(阿仏房尼御前御返事)にして、「外道悪人は 如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし、師子身中の虫の師子を食む等云云」(佐渡御書)のお叱りを蒙ることでしょう。
 そしてまた “怖畏・懺悔の発露”いささかも無きこと、「
涅槃経に云く 『若し四重を犯し五逆罪を作り、自ら定めて是くの如き重事を犯すと知り、而も心に初より怖畏・懺悔無くして肯て発露せず』。此くの如き等の文は、謗法の者は自他共に子細を知らざる故に、重罪を成して国を破し仏法を破するなり」(災難対治抄)に、中りましょう。

 さて、「
今・日蓮が弟子等も・亦是くの如し、或は信じ・或は伏し、或は随い・或は従う。但だ名のみ之を仮りて、心中に染まざる信心薄き者」(顕立正意抄)とは、余人ではありません。まさしく、「国立戒壇論の誤りについて」なる<悪書>をものした、”信心薄き” 阿部教学部長に中ることでしょう。
 加えて、「
但だ名のみ之を仮りて」 正系門家の貫首の座を汚し続ける阿部管長、こころを鎮めてこの”聖語”を、よくよく耳に留むるべきでありましょう。「是を免れんと欲せば、各薬王・楽法の如く臂を焼き・皮を剥ぎ、雪山国王等の如く身を投げ心を仕えよ、若し爾らずんば 五体を地に投げ・身に汗を流せ」(同)と。

 これを以て、阿部教学部長の「結論」に対する、わたしの”結論”といたしましょう。「
身の為に之を申さず」(安国論御勘由来)と。

                          ( 平成十五年四月二十七日、櫻川 記 )


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