迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
昭和33年 (1958)   _
1月1日
 宗門、早瀬道應主管「昨年に於て来るべきものは来終つて、あとは整理整頓するばかりだ。無駄は止め、エネルギーを最も有効に使つて、真剣に幸福を掴む年である」(「法之道」1月7日号 )」
1月15日
 宗門、堀米日淳管長 浅井甚兵衛・昭衛父子を本山に呼び、妙縁寺所属「法華講支部妙信講」を認証。「今まで法華講というのは墓檀家のように言われてきたが、法華講とは熱原の法華講衆を鑑として、闘う法華講となって御奉公しなさい。まず三千の弘通を成し遂げてごらんなさい」と
1月 日
 妙信講、総登山。265名参加。
1月25日
 妙信講、第3回総会。(妙縁寺)
2月1日  創価学会、池田大作参謀室長。「広布途上の大講堂建設の意義」と題し、「われらが究極の目的である、国立戒壇建立に思いをいたすとき」(「会長講演集」第四巻 )と。
2月11日  創価学会、戸田城聖会長、満58歳の誕生祝いで在京の大幹部にあいさつ。「会長就任以来7年になるが、私は7年目ごとに難に逢っている。今度の病魔も打ち破ったのだから、もう7年また会長としてがんばるから一つよろしく頼む。…『源深ければ流れ遠し』の通りで、要するに学会の振興は会長自身がしっかりしなければならん。… 明日から以前と同じように本部へ行って指揮をとる」と。(「聖教新聞」2月14日号 )
3月1日
 宗門、総本山本門大講堂落慶大法要奉修。創価学会の建立寄進による。
 戸田城聖会長、「これは、私一代のうちにできればありがたいと思っていたことですが、まだ死にそうもない時代にできましたので、これから法主様からお酒をくださるそうですから、… ちょっとからだを悪くしましてね、このごろはからだのほうがいうことをきかないのだけれども、飲むほうは前と同じに飲めるから… きょうはじゅうぶんに飲んで、… 」等と挨拶。
「この講堂は工期1年3ヶ月を要し、工費4億円は創価学会員の寄付で賄われていた。創価学会員はその日から3月いっぱい慶祝登山することになっており、戸田は本山で滞在しながら指揮を採った」(『悪魔の邪望』武田了円 )
3月1日  創価学会、人間革命、架空の"エレベーター後継指名"
「「さあ、これで、私の仕事は終わった。私はいつ死んでもいいと思っている。伸一、あとはお前だ。頼むぞ」伸一の体に電撃が走った。伸一は、緊張した面持ちで戸田を凝視した。2人の眼と眼が光った。「はい!」 自らを鼓舞する、深い決意を秘めた声であった」(「人間革命」第12巻 )
 (※ 小説では、戸田城聖会長は他の弟子の見守る中で、「あとはお前だ。頼むぞ」と "後継指名"したことになっている。それでは何故に、創価学会は2年間もの間、会長職が空位だったのか。戸田城聖会長は、石田次男を後継に考えていたと、数々の証言がある。櫻川 忠 )
3月16日  創価学会、青年部6千人が総登山。大講堂前で、『広宣流布の模擬試験』と称した記念式典を挙行。岸信介首相は不参加、戸田会長これに落胆。首相の代理として、首相夫人と令嬢・令息、娘婿の安倍晋太郎、南条徳男等が列席。
「その16日の行事がすんで、戸田先生は急速に衰弱された。翌日か翌々日に、宿舎になっている理境坊の二階の一室で、枕もとに最高議決機関の理事、参謀室のメンバーが集まった。理事は、原島、小泉、辻、柏原ヤス、馬場勝種、それに参謀室の4人が戸田先生を囲み、辻が口火を切って、『三代会長はだれにするんですか』と聞いた。先生は起き上がられて『それはおまえたちが決めるんだ』とはっきり言われました」(月刊「Asahi」龍年光 91年4月号 )
3月29日  創価学会、池田大作参謀室長。青年部を指揮して的場正順師を潤井川に投げ込む。
「(創価学会)青年部員たちが、小僧さんたちに、煙草や日用品を買いに行かせるなど私用を頼み、そのお礼として菓子をやったりソバ代を出してやったりしていたらしい。所化・小僧さんたちの親代わりとして指導する立場にあった「所化頭」の的場正順師(当時33歳)は、これを知り、再三にわたって青年部に抗議していた。青年部と的場師の感情的対立は、星野を通じて、逐一、池田に報告されていた。池田はこれをもとに、一騒動起こすために総本山にやってきたのだ」(『日蓮正宗の敵・池田創価学会を解散させよ』龍年光 )
「池田は重篤の戸田先生を理境坊に見舞うこともなく、いきなり「これから所化頭の的場を徹底的にやっつける。彼は大変素行が悪い、小僧さんをいじめる、こんなことではこれから学会員の子弟は僧侶に志願しなくなってしまう。だから断固として粛正するのだ」と言って、大石寺の内事部に押し掛け、「的場を出せ」と怒鳴り散らし、3時間後に、出てきた的場師を六壷において大勢で吊るし上げたのです。その後、的場師を潤井川の川原へと連行していき、自ら裸になった的場師を青年部員に担ぎ上げさせて冷たい水の中に頭を何回も押し込ませたのです。午前8時に始まり午後5時に終わった一連の暴行事件の指揮をとった池田の形相は、これまで誰にも見せなかった険悪なものでした」(『フォーラム21』龍年光 平成15年2月15日 )
「真相は、当時、大坊に宿泊し、所化さんと同じように寝起きしていた青年部員達が、所化頭から、所化さんと同じく、旧軍隊のしごきのような待遇を受け、"俺達の部隊(男子部の部隊では、旧軍隊並みのスパルタ式教育やしごきが行なわれていた)よりひどい !!"と幹部に訴え、この報告を受けた池田大作が、"可痩い子分をいじめられた仇討ち"をやったのだ」(『内外一致の妙法』 石田次男著 )
3月30日
 宗門、戸田城聖会長を法華講総講頭に任命。
4月1日  創価学会、戸田城聖会長、日本大学属病院に入院。
「戸田先生は、本山で最後を迎えるつもりでおられたが、一切の行事が終了したので小泉理事長がお願いして、3月31日下山し、日大病院へ入院して頂くことになった。理境坊へ駆けつけてこられた奥様に、「あなたたちは何ですか、戸田がこんな状態になるまで、こんな寒い所に置いておくなんて!」と、涙声で叱られたのを私は覚えている」(『有徳王』龍年光 )
4月2日  創価学会、戸田城聖会長 日本大学属病院で逝去。堀米日淳師、大宣院法護日城大居士の戒名を授く。
「昭和33年4月2日、戸田城聖氏は、東京都内、日大病院で死去した。死因は、肝硬変による心不だった。享年58歳。戦後、またたく間に巨大教団を作り上げた風雲児は、妻のみに看取られ、孤独な死を迎えたのである。本人は、「俺には、まだまだ使命があるから、当分死ぬはずはない」と言い続け、医師の注意も聞かず、大酒を飲み続けた。その結果、肝臓を壊してしまい、自らの生命を縮めてしまった感がある。(中略)58歳といえば男盛りであり、"早死に"の感は否めないから、会員の間の動揺も少なくなかった」(「慧妙」2002年6月1日号 )
4月3日
 宗門、堀米日淳管長、戸田宅で読経唱題。
「御法主堀米日淳上人は、戸田先生の訃報を聞かれ直ちに下山され、午前2時頃の富士駅発の列車で上京され目黒の戸田先生の自宅に、4月3日午前5時頃到着された。二階の居間の御本尊様の前に安置されていた戸田先生の御遺体に、ねんごろに読経唱題された後、辞去された」(『有徳王』龍年光 )
4月3日  創価学会、本部幹部会(豊島公会堂)。池田大作参謀室長、「迫撃の手をゆるめるな!」と題して、「どのように今度は会長先生に御恩返しをしたらばいいか」、「ただひとつ創価学会の目的である国立戒壇の建立、不開門を開いて、会長先生に、このように戦ってまいりましたという、御報告をする以外に、なにもない」と。(「会長講演集」第三巻
「ポスト戸田の創価学会において、池田大作氏は会長位獲得のため、さまざまな工作を展開した。その方策の一つが、戸田会長の遺命たる国立戒壇実現を強調することで古参幹部との差別化を図り、自分こそが戸田会長の跡を継ぐ者だと示すことであった。他の主要幹部と較べると、池田氏の国立戒壇への言及は、当時群を抜いている。この戦略はみごとに実を結んだ。そして池田氏は、会長に就任して一年ほどで、国立戒壇の語を口にしなくなった。池田大作氏にとって国立戒壇の宣揚は、創価学会内でポスト戸田の地位を獲得するための、手段の一つに過ぎなかったのである。戸田会長が熱願した国立戒壇の実現を、本気で遂行しようとしていた妙信講とのねじれは、ここから始まることになる」(「迷走する顕正会を斬る」櫻川忠 )
4月8日
 宗門、常在寺にて、堀米日淳管長の大導師で戸田家の葬儀。
4月10日  創価学会、男子部幹部会(豊島公会堂)。池田大作参謀室長、「青年部こそ昭和の高杉・久坂」と題して、「会長先生は『二十数年にして戒壇建立を実現する』という確信を甲されたことがございます。会長就任いらい七年にして、厳然たる化儀の広宣流布への盤石なる基礎は、おつくりくださっております。そして青年部にもあらゆる立場から訓練、薫陶をくだされてこられました。あと残されたのは二十数年です」と。(「会長講演集」第三巻
4月20日  創価学会、堀米日淳管長の大導師で、青山葬儀場にて戸田城聖会長の葬儀。25万人が参列、岸信介総理大臣、松永文部大臣も参列。
「戸田死後、池田の打った最初の手は戸田の葬式を取仕切ることであった。本来なら牧口門下の長老、または、学会全体の暗黙の了解事項となっていた後継者の石田に委ねるのが筋であったが、池田が参謀室長の肩書を利用してしゃしゃり出、25万人の葬儀参列者に自分という人間を印象付けた」(『悪魔の邪望』武田了円 )
4月28日
 妙信講、青年部結成式を開催(音羽・本部)、 青年部長に浅井昭衛が就任。
「この頃、浅井青年部長は心労から体調をくずし、床に伏せる日々が続いていた」(「迷走する顕正会を斬る」櫻川忠 )
4月 日  創価学会、池田大作参謀室長、遺品を預かるとして戸田城聖宅から、品々を持ち出す。
「恩師戸田先生逝去直後、御本葬から10日も経たないうちに、池田氏は戸田家へ赴いて、香典4千万円の方は渡さずに、幾子奥様から、戸田先生の御遺品を持ち出し、そのうちの一つとして先生御所持の刀を借り出した。奥様の御意向を踏みにじって、築地支部幹事の吉崎区議を使って、その他いろいろ戸田家の私物を持ち出した。池田の意志ではなくて、小泉筆頭理事の意向、と称して、「戸田会長の御遺品は学会として大切に永久保存させていただきたいので、曲げて御承諾ください。お願いします」と、懇願という形、お願いという形で、強引に談じ込み、いやおうなく承服を克ち取ったのである。吉崎区議を指揮者とする運び出し実行部隊は、トラックで運び出した」(『内外一致の妙法 ―― この在るべからざるもの』石田次男 )
「無遠慮に上がりこみ、まるで家探しでもするように二代会長の遺産を洗いざらい調べ上げ、本部へ持ち返ったのである。戸田会長の遺品のなかに、三代会長を本命視された石田次男に有利な材料があるのではないか、とおそれたこと。また自分に有利になる材料を見つけ出そう、という池田の魂胆が隠されていた」(『池田大作の素顔』藤原行正 )
「あこぎはそれにとどまらなかった。戸田先生の葬儀に寄せられた4千万円余りの香典さえ、遺族には渡さず、創価学会が独り占め。幾子未亡人らの再三の抗議で、四十九日法要をすませてのち、ほんの一部が返されたのみ、という」(『現代』80年7月号 内藤国夫 )
5月1日  創価学会、「大白蓮華」。池田大作参謀室長、「先生の御遺命となった国立戒壇建立に向かって、怒涛のごとく大進軍せねばならない」、「会長戸田城聖先生の遺弟として、われらの目的たる、信・行・学に励んで、各自の幸福を築き、さらに国立戒壇建立の大偉業を、りっぱに果そうではないか」と。(「会長講演集」第三巻
5月3日  創価学会、第18回本部総会開催(両国日本大学講堂)、2万5千名参加。
 池田大作参謀室長「すなわち昭和5年から12年まで第一の鐘とするならば、12年から19年、これ第二の鐘ともいえると思います。そして昭和19年より昭和26年、第三の鐘ともいえます。また、昭和26年から昭和33年、これ第四の鐘であり、次の七年が第五の鐘であり、次の七年が第六の鐘であり、次の21目が第七の鐘であると信ずるものでございます」(「会長講演集」第三巻
 原島理事、「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ1人もいない」。
 小泉理事長、「会長という職は当分おかないつもりであります」。(「聖教新聞」5月9日号 )
 細井総監、「先程来大幹部の方、役員の方、又皆様方が相い応じて心も一つにし明日への誓を新たにされましたことは、全く霊山一会儼然未散と申すべきであると思うのであります。… 六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法蓮華経を弘通致しますという誓いをされたのでございます。その方々が今ここにでてこられることは、これはもう霊山会の約束でございます。その方々を(戸田)会長先生が末法に先達となって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち妙法蓮華経の五字七字を75万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」「宗門も及ばずながら皆様方といよいよ相呼応致しまして、会長先生のあの大きな仕事に報いて一生懸命にやるつもりでおります」と。
「本部幹部会の空気は、会長代行の形で小泉が戸田体制を引継ぎ、そのあと和泉理事がワンポイントでつないで、戸田会長の7回忌法要のあと石田が3代会長に就任するというもの」(「池田大作の素顔」藤原行正 )
5月11日
 妙信講、第4回総会。(妙縁寺)
5月18日  創価学会、第1回男子部九州総会(久留米市公会堂)。池田大作参謀室長、「国立戒壇建立をもしかできなければ、日本の国は永久に属国とし、永久に日本民族は滅びる」、「国立戒壇を建立するならば、仏法の加護によって日本の国には原子爆弾は落ちなく、日本民族は必ず繁栄する」(「会長講演集」第三巻 )と。
6月30日  創価学会、6月度本部幹部会。総務・庶務部・出版部を新設。池田大作参謀室長、新設の「総務」に就任。ただし、この時点での総務の権限は曖昧で、参謀室の昇格程度に周囲では了解されていた。
「同年6月30日、本部幹部会は機構改革を発表した。総務、庶務部、出版が新設され、池田は総務に任命された。この役職は当初、池田の発案で職務権限そのものが曖昧なまゝ設置され、大体は参謀室長を本部に格上げしたもの、くらいに漠然と認識されていた。だがこれは恐るべき狙いを秘めた、池田大作畢生の妙手だったのである。極論すれば、池田の生涯を通じ、観賞に値いする言動はたったこれ一つしかないと断言していいくらいである」(『悪魔の邪望』武田了円 )
7月14日  イラク革命勃発、イラク共和国成立。王政が倒され、国王ファイサル2世は処刑された。
8月5日
8月7日  創価学会、男子部幹部会(品川公会堂)。池田大作参謀室長「広宣流布は、不思議にも本門戒壇の大御本尊様を弘安二年十月十二日に御建立あそばされてから、ちょうど七百年、いまから21年目にあたるのです。大客殿のことも正本堂の建立のこと、会長先生が申されたぜんぶを実現できるように、準備は着々すすんでおります」(「会長講演集」第三巻
8月23日  台湾海峡危機、中華人民共和国・人民解放軍が金門・馬祖砲撃激化。
8月23~24日
 妙信講、第一回夏季登山。(総本山)
9月1日  創価学会、「大白蓮華」9月号。池田大作総務。「創価学会は、日本の国をとるのでもなければ、政治団体でもなければ、…あくまでも国立戒壇の建立が目的なのである」、「三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布、すなわち国立戒壇の建立が目的なのです」と。
11月9日  創価学会、第19回本部総会。
12月7日  創価学会、第7回男子部総会(両国日本大学講堂)、3万名参加。池田大作総務、「国立戒壇の建立は日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的でございます」、「国立戒壇は日本一国のものではない。大聖人様の仏法は一閻浮提総与の大御本尊様である。全世界にわたっての宗教であります。日本の国立戒壇の建立ということは、全世界の国立戒壇に通じていくと、私は信ずる」と。(「会長講演集」第三巻
12月25日  創価学会、105万世帯。
 

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