迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
1月1日
 宗門、「大日蓮」1月号。堀米日淳師、「この元朝勤行とても、宗勢が発展した今日思いつきで執行されたというのでは勿論なく、二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて、国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」と。(「日淳上人全集」下巻 )
1月1日
 妙信講、浅井甚兵衛講頭「年頭の辞」、「茲に我日蓮正宗の信者のみ大御本尊の御力用により民族を救う真の国士たる事を自覚しなければならない。特に我妙信講々員は御法主上人猊下の命に従い亡国の癌である謗法者の折伏を強化し以って大聖人様の御報恩に答へ奉りたい。宗祖は立正安国論の結文に「先ず生前を安じ更に没後を扶けんのみ」と、今生も未来も折伏の功徳により根底より幸せになるぞと仰せられて居る。本年は講員各位に於ては一人が必ず一世帯を折伏する事を念願としたい」と。
 浅井昭衛青年部長、「信心が凡ての根幹」との青年部総会の講演を「講報」に掲載。
「私が未だ学生であつた頃に三谷素啓という方の書いた"立正安国論精釈"を読みました。その中には大聖人様の仏法哲学が説かれてあつて、普通宗教というと夢の様な世界を描いているものですが、東洋の宗教というのは現実的きわまるものであつて、その宇宙観生命観また政治に対する見解とかあらゆる凡ての一人が考えられぬ以上の事を説いてあつて、かくすればかくなるのだと云う方程式が如実に過去の歴史において示され、だから日本も見なさいと大聖人様がお教え下さっておられる。
 それを見た時に仏語実不虚の云う事は決して観念的な夢でない、事実において、その事が行われなかったから、行われなかった事の結果が自分達の生活の中に出て来るんだと、この事を深く感じたことがあつた。もし安国論に説かれてある様な宇宙観が事実で本当であるならば、この流布に目分の人生の凡てをかけても悔いはない、これを知った自分は幸せなんだと感激した事をまざまざ憶えております。
 大聖人様が最後の御理想として説かれたのが王仏冥合国立戒且ということです。しかしながら仏法というものが世間では理解されておりません。信心しなくたつて大石寺の御本尊を拝まなくとも生活はしていかれるじゃないか、国は政治を行っているではないか、これが常識になっています。仏法という生活の根本原理がどういう影響を及ぼすかが理解出来ないのです。政沿家経済学者、事業者、科学者等がそれぞれ分野において研究していけば幸福になるであろうと思っている。しかしそれは必ず行き詰まる時が必ず来る。政治の技術、経済の技術、暮しの術を探求し切っても最後に自分の生命の不思議という事に行き詰まってしまう。こういう時に仏法の生命原理によって得た福運プフス技術の研究 これが相まつて本当の幸福が得られる。
 王法と仏法が冥合した時に平和が得られる、この事は今の人間にはわからない。しかしこれも訳る時が必ず米る、余りにも大きな深い革命なるが故に、最も根本的な解決なるが故にです、訳るには永い時間がかかる。ですから大聖人様が七百年前に御本尊を建立あそばされて、理論の上から体験の上から完壁をきわめながら大聖人様がお亡くなりになる時に、時をまつべきのみ時(ママ)の戒法と申すはこれなりと仰せられたのは、余りに深きが故に余りに根本なる故に、これを理解するのに何百年かの歳月を要すると大聖人様がお見抜きになったからだと思います」と。(「講報」第3号 )
(※ このとき、浅井昭衛青年部長は27歳、この講演はその後の浅井昭衛会長の思想展開を考察する上で、多くの示唆に富んでいる。小生の所感は、所詮「立正安国論精釈」(三谷素啓)の域を出ていない、というところである。
 それにしても、若き浅井昭衛青年部長はよい顔立ちをしている。若き池田大作総務も 若き阿部信雄師も、精悍で将来を嘱望すべきに足る "如是相"をしていた。櫻川 忠 )
1月1日  創価学会、池田大作総務、「国立戒壇の建立と学会員の前途
国立の戒壇建立は、全民衆の要望によって成就されるものであることを忘れてはならない。… 国立戒壇建立の際には、大御本尊様が奉安殿より正本堂へお出ましになることは必定。… 国立競技場・国立美術館・国立公園等もすべて国民の要望であり、国民のものである。宗教にあっても、最高の宗教が国民の幸福のために、国立戒壇として建立されることは必然」と。(「会長講演集」第四巻
 池田大作総務、「大白蓮華」1月号に「立宗ここに703年を過ぎ、仏命たる富士山に本門寺の戒壇の建立は未だならず。『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ、残された唯一つの大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」。
1月1日  キューバ革命、カストロらの指導でバティスタ独裁政権を打倒し、社会主義政権を樹立した。
1月10日
 宗門、法華講支部組織許可制施行。(「大日蓮」第156号 )
1月11日
 妙信講、登山会(総本山)。350名が参加。
1月16日  創価学会、石田次男、文化部員に任命さる。
「池田は術策をめぐらして一歩、また一歩と石田の影響力を削いで行く。まず夏頃から石田が聖教新聞に登場する度合はめっきり減った。次いで秋には『折伏教典』から石田の書いた第一章生命論が戸田の講演と入替えられた。翌年草々、石田潰しは頂点を迎える。… 石田次男は文化部員に任命されたが、それは石田の、参議院議員選挙への出馬と、前線からの離脱 ―― 無力な名誉集団への繰入れを意味した。彼は早くもこの時点で会長候補としての資格を失ったのである」(『堕ちた庶民の神』溝口敦 )
1月18日
 妙信講、青年部会。浅井昭衛青年部長、「国立戒壇めざす一粒の種」と講演。
「大聖人様が最後の御理想として説かれたのが、王仏冥合国立戒壇ということです。… 余りに深きが故に、余りに根本なるが故に、これを 理解するのに何百年かの歳月を要すると思し召されたからだと思います。… ここに講中として認可があり、妙信講は立ち上りました。 妙信講は小なりといえども、総ての素質を具えた一粒の種として誕生したのです」
3月13日
 妙信講、初の初級講習会開催。
4月2日  創価学会、池田大作総務。「会長先生の一周忌を迎えて」と題して、「三祖日目上人様の、老齢の御身をいとわず国家諌暁あそばされた、粛然・襟を正す御最後をしのび、広宣流布に向かって・国立戒壇に向かって、身命を惜しまず前進を続けなくてはならぬ」、「先生の墓前に、『勅使門が開きました。広宣流布が終わりました』と、御報告できる日を楽しみに」(「会長講演集」第四巻 )と。
4月5日
 妙信講、機関紙「顕正新聞」第1号発刊
4月20日  創価学会、京都大学法学部在学中の山崎正友(22才)、妙霑寺(岡山市)で授戒をうけ入信。
「この頃の私は、3年近くに及ぶ慢性腎炎の療養のため、長期休学中で、入退院を繰り返し、憔悴しきっていた。(中略)そんな折、母・兄・叔母、そして近所の学会員から、折伏の波状攻撃を受けた。(中略)『お前を幸せにしようとしているこの親心がわからぬのなら、もう我が子と思わない。勝手に死んでいったらよい』 涙ながらに迫る母に負けて、義理で入信を承知した」(『あの頃のこと』山崎正友 「慧妙」2000年11月1日号 )
4月30日  第4回統一地方選挙、創価学会は市区議会に287人立候補、261人当選。東京・区議会は76人全員当選。この結果、全国で合計293人の創価学会地方議会議員が誕生した。
5月3日  創価学会、第20回本部総会開催(両国日本大学講堂)、2万5千名参加。
 池田大作総務、「勝ってカブトの緒をしめよ」と題し、「大聖人様の至上命令である国立戒壇建立のためには、関所ともいうべき、どうしても通らなければならないのが創価学会の選挙なのでございます」と。(「会長講演集」第四巻
5月5日
 妙信講、本部企画室を設置。浅井昭衛、青年部長兼務で本部企画室主任に就任。木内純一郎、室員に就任。
5月10日
 妙信講、第5回総会(妙縁寺)。9百世帯突破。「快晴に恵まれた、第5回妙信講総会は、去る5月10日(日)午後2時半から墨田区吾妻橋の妙縁寺で盛大に行われた。… 松本尊師からお祝いの言葉と三大秘法抄の一節についての法話を頂いた。さらに高山副講頭の喜びの挨拶は、妙信講の誇りと情熱をもって御法主猊下の御期待に応えようと結ばれた。最後講頭さんより別項の通り講演され御法主猊下の慈愛にこたえ、より厳しい広宣流布への精進に新たなる自覚を持って前進するのみと、一同の奮起を促した。こうして午後5時30分、総会は無事終了した」(「顕正新聞」第3号
5月20日
 宗門、寺族同心会第1回大会開催(総本山)。(「大日蓮」第160号 )
5月28/29日
 妙信講、六巻抄講義(三重秘伝抄)、約2百名が聴講。
5月 日  創価学会、登山会のバス輸送のため、大富士開発(株)設立。
6月2日  第5回参議院議員通常選挙、創価学会候補者 6名( 全国区5、地方区1 )全員当選。創価学会の参議院議員は合計9名に、得票総数 2,855,000票。
 全国区;原島宏治、石田次男、中尾辰義、小平芳平、牛田寛。東京地方区;柏原ヤス。
6月19日  日米安全保障条約改定。5月20日に岸内閣は衆議院で強行採決、反対運動が続く中6月19日に成立した。
6月30日  創価学会、池田大作総務が(総務のまま)理事に就任。
「石田を潰し先輩を抑え、自分一人が会長候補に残り、断然有利な態勢を構築した上、さらに34年6月30日の機構改革で自派として育てゝ来た青年部を大躍進させることにより、事実上、創価学会を乗取ってしまった。この時の改革機構で池田は手下の北條浩、森田一哉、竜年光を引連れて理事になった」(武田了円著、『悪魔の邪望』)
7月3日  創価学会、男子部幹部会開催、池田大作総務「第三文明」を提唱。
「いま必要なのは第三文明です。… 精神文明の世の中も、また物質文明の世の中ももの足らぬ。… 色心不二の哲学が必要な時代である。最高の文化が広宣流布であると会長先生が仰せになったこともあります。最高の文化とは何か、第三文明です。… いまだかつてない、全人類が根底から要求しているところの "新社会主義" こそ、王仏冥合の思想であると、わたくしは信ずるんでございます」(「聖教新聞」7月10日号 )
7月15/16日
 妙信講、六巻抄講義(三重秘伝抄)。
7月19日
 妙信講、男女合同部会開催。浅井昭衛青年部長、「十年後に焦点合わせて学習を」と題して講演。
「妙信講は再建以来、1万世帯を目標に戦っております。妙信講の進軍の目的はただ一つ、大聖人様が七百年前に日興上人に御遺命された本門戒壇建立というそのことに、私たちの力のあるままに全力を挙げて御奉公していこう、… ただそれだけを目的にしておるのであります。そして4百数十世帯を以て再建した講中が満2年を経て今日、約1千世帯に達しました。しかし現在の状態から見ると、目標の1万世帯までにはあと十年はかかると思われます。… 十年と言うと馬鹿に長い気がするが、焦っては駄目です。十年の歳月は要するに、人材を鍛え上げる養成の時期なんです。…
 青年部員は非常に皆、職業に忙しい。だがそれだけを至上として、信心が大事だということを忘れてしまったら駄目だ。いかなる職業についても構わない。しかし、大聖人の眷属であるわたくしたちは、商売で大金を儲けるのが人生の目的ではない。社会的地位を得るなんていうのが大目的ではない。… 信心第一の清浄な気持ちで見るならば、必ず自分の持って生まれた使命がわかってくる。この使命に向かって、勇猛精進していく者が、本当の青年部員です。十年後を目指して、お互いに一人も落伍せぬよう、しっかりやって行こうではありませんか」(「顕正新聞」 第5号
(※ 「あと十年」「十年後を目指して」等のフレーズは、浅井昭衛会長の常套句であるが、その片鱗がここに見て取れる。十年後の昭和44年はというと、登山停止・講中解散危機の "試練と忍従" の時期で、世帯数はすでに7千に達していた。翌年の、正本堂誑惑問題への "御遺命守護" 決起は、目前となっていた。櫻川 忠 )
7月21日  経済白書発表、この年は過去最高の景気で「岩戸景気」と名付けられた。
8月1日  創価学会、池田大作総務。「今後7年の戦い」と題して、「国立戒壇建立の関所ともいうべき、今度の参院選における大勝利」、「会長先生は、巻頭言に『国立戒壇の必要性を理解させるためには、一般大衆の支持を受け、言論界の理解を根本とすべき…』とおおせられていたではないか」(「会長講演集」第四巻 )と。
8月9日  創価学会、夏期講習会。池田大作総務、『創価学会の歴史と確信』と題して「御法主上人様の深い御構想で、やがては正本堂と、どういう名前になるかわかりませんが……そこへ奉安殿の御本尊様がおでましになるのです。そのときが広宣流布の姿、儀式なのです。そんなに遠くないような気もいたしますが、仏智はかりがたしです」(「会長講演集」第四巻 )と。
(※ この変節を捉えて、「先の1月1日の発言においては、正本堂へ大御本尊がお出ましになるのは『国立戒壇建立の時』と言っていたものを、ここでは逆に『正本堂へ大御本尊がおでましになる』その時が“広宣流布”との考えに変っている。そしてその時期も、「そんなに遠くないような気がする」と述べているのである。ここに創価学会における、戒壇建立の時期と条件に関する微妙な変化が看取される」(「正本堂に関する御指南の真意」)と、後に宗門が "微妙な批判" をする。櫻川 忠 )
8月22/23日
 妙信講、夏期登山会。3百数十名が参加、宿坊は久成坊。
8月30日
 宗門、細井精道総監著『日蓮本仏論』刊行。
9月21/22日
 妙信講、六巻抄講義、三重秘伝抄を終了。
10月15日  創価学会、学生部第1回弁論大会。池田大作総務、「3、4年前・立正佼成会の庭野日敬が、国会に招喚されていろいろ調べられたことがある。このとき会長先生は、ニッコリ笑って『こっちへくればちょうどいいな、このときこそ立正安国論叫びたい』と、申しておられました。大事なときに叫ぶことこそ、わたくしは本当の雄弁ではないかと思う」(「会長講演集」第四巻 )と。
10月18日
 妙信講、嵐の中に青年部第1回結集大会開催(板橋産業会館)。226名参加、「誓願目標見事完遂 場内を揺るがす若人の獅子吼」
「この日、台風18号北上の余波を受けた天候は、朝から肌寒く雨が降り続くという悪条件であったが、過去数々の苦難を試練として乗り切ってきた青年部の情熱が全てを上回り、誓願180名結集を大きく破る大成果を上げ、その実力を内外に示して、ここに記念すべき第一歩を飾った」
 浅井昭衛青年部長講演、「背水の陣の勝利 広宣流布に参加する資格を得たり
「おおげさな云い方かもしれませんが、今日の結集大会に私は青年部の今後のすべてをかけていました。もしも今日、この結集が失敗してしまったならば青年部は明日からもうやる資格はない、解散だ ! これは前々から幹部に言っておった事なんですが、ハッタリで言っていたんじゃないのです。… 遂に今日、皆さんの本当の信心でもって見事、意義ある最初の戦いが勝てた。これでもって、広宣流布に進軍する資格ができたんだという事を、皆様の前にはっきりと宣言いたします !(拍手起る)…
 今、各々が御本尊様の鏡に照らして命に感じてかくあるべしと使命を発見できるならば、未だ若輩にして浅学たるわたくしたちであってもひとたび妙信講の船に乗って行くならば、もれなく広宣流布の最後の一戦に参加して、相違なく成仏の境涯に到達するものと私は深く確信するものです。以上」(「顕正新聞」第7号
11月1日
 妙信講、御会式大法要奉修。恒例の妙信講御会式は、1千世帯折伏達成への誓いを持って、11月1日午後2時から吾妻橋妙縁寺に約4百名の講員が参加して盛大に行われた。(「顕正新聞」第7号
11月10日
 妙信講、青年部を対象に御書の「学習会」を開始。(「顕正新聞」第7号
11月16日
 宗門、堀米日淳師 丑寅の刻に細井精道総監に御相承。
11月16日  創価学会、小泉理事長・池田大作総務が日淳師宅に呼ばれる。柿沼広澄庶務部長と早瀬道応教学部長が同席。淳師、「今度常在寺に、あとをまかせることにしたから、よろしく」「戸田先生には、私よりもっと長生きしていただきたかった。あべこべになってしまいました」と。
11月17日
 宗門、堀米日淳師逝去。(「顕正新聞」第8号
11月21日
 宗門、細井日達師 能化となる。柿沼広澄師 総監就任。(「院達」第678号 )
11月23日
 宗門、中島日彰師、上人号免許。
12月2日
 宗門、御座替り式奉修。細井日達総監、第六十六代貫首に登座。
「後に日達上人猊下は、御登座された頃のこととして、側近であり肉親でもあった僧侶に、次のように漏らされた」
「登座直後に池田大作がやってきて、私に、けんか腰で怒鳴り散らした。"俺や学会をなめるとただではおかんぞ"と、さんざん脅していった。私は、法主であるのに、こんな若僧から何で頭ごなしにやられなくてはならぬのかと思うと、口惜しくて涙の出る思いだった」(『あの頃のこと』山崎正友 「慧妙」2002年6月1日号 )
12月23日  創価学会、117万世帯。
12月25日
 宗門、千葉県君津郡 顕徳寺・本乗寺・本顕寺、安房郡 遠本寺、帰一入仏式奉修。

                前年   一覧    翌年