迷走する顕正会を斬る


淺井昭衞会長の足跡と変節

    顕正会年表 (私家版)


      
昭和41年 (1966)         _
1月1日
 宗門、松本日仁師(妙信講指導教師)「新年を迎えて」
「故に吾々宗祖大聖人の弟子たり檀那たる者は如上の御指導を御指導通り素直に受けきって、本当に身命をなげうって、広宣流布達成の為に自行化他の両行に向って努力邁進せねばならぬのであります。 つきましては此の昭和41年の新たなる新年を迎えたるを機として、本年度の折伏目標であります五千世帯折伏達成に講中の内外からどのような迫害があろうとも、これに屈する事なく忍辱の鎧を着て一致団結以て所期の目的を完遂しようではありませんか。一言申し上げて新年の御挨拶と致します」(「冨士」第29号 )
1月1日
 妙信講、「建設の年」。
 浅井甚兵衛講頭、「昭和41年の元旦にあたり、妙信講員一人一人が決意も新たに五千の法城建設に勇猛精進せられんことを祈ってやまないのであります。「一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ。」の御聖訓を拝し、いよいよ信心強盛に励み信行に打ち込んでもらいたい」
 浅井昭衛本部長、「先生は特に本年の目標・五千世帯を指して「法城」と云われた。妙信講は再建八年を経ている。その間、数々の魔障を打ち破り、三千で土台を固め、四千で黎明を迎え、本年ここに屹然として法城が築かれんとしている。… 妙信講には力もない、故に豪華な有形の城は持っべくもない、また欲しくもない。だが、信心の鉄の絆で結ばれた人材の城がある。この城は天魔も砕けぬ法城である。法城の石垣となり、堀となる人材とは何か、即ち、一に御本尊の絶対の力を知り奉り、二に妙信講の精神に徹する者である。これが使命を果す妙信講の五千法城の成員たる人材である。妙信講は安逸を貪ぼる講中ではない。大事な時に御奉公申し上げるべく生れ、育ち、鍛えられて来た信心一本の講中である。人材また雲の如く涌き出でぬ筈はない。先生指導の下、意義重大なる本年の斗いを全うさせて頂く為、唯々大御本尊に祈念申し上げようではないか」(「冨士」第29号 )
 [解説 浅井昭衛]「試練の嵐吹き荒れた昭和40年はやっと過ぎ新年を迎えた。千尋の谷に突き落された師子の子が必死にはい上るように、まず五千法城を築かんと、大地をはうような折伏弘通が開始された。「妙信講は安逸を貪ぼる講中ではない。大事な時に御奉公申し上げるべく生れ、育ち、鍛えられて来た信心一本の講中である。人材また雲の如く涌き出でぬ筈はない」とはこの時の確信であった。事実この頃より人材が続々と涌き出てきた。今日活躍の幹部の中にも昭和41年入信の士が多く見られる」(「冨士」第181号 )
1月1日  鳳書院、「創価学会の思想」〈第1-2〉発刊。
1月1日  鳳書院、「創価学会の思想 労働運動と宗教,仏法と人間性社会主義」〈第3〉発刊。
1月1日  法性寺、窪田哲城(著)「日蓮聖人の本懐 ― 日蓮正宗創価学会批判」発刊。
1月5日  創価学会、『折伏教典』改訂11版を発行。
「戒壇とは、広宣流布の暁に本門戒壇の大御本尊を正式にご安置申し上げる本門の戒壇、事の戒壇である。それまでは大御本尊のいらっしゃるところが義の戒壇である』と。
 従来の『国立戒壇』の語は、すべて『本門戒壇』に置き換えられた。
1月15日
 宗門、椎名日澄宗務支院長「七百年来の尊き御遺命が、時来りて今こそ霊峰富士の麓に堂々と建立されるのであります」と。(「大日蓮」1月号 )
1月23日
 妙信講、研修部試験合格者発表。昇格試験19名、登用試験28名。研修部の陣容は、三級部員33名、研修部員134名、総数167名となった。
 研修部試験(三級昇格)の優秀答案を「冨士」に掲載。「三大秘法禀承事」を範囲とした全十問の内、戒壇に関する二問の優秀答案は優秀者の氏名を記すのみで掲載されなかった。
[問題六] 本門戒壇を明かし給う御文を挙げ之を説明せよ。答案を略す。
[問題七] 王仏冥合における王法を論ぜよ。答案を略す。(「冨士」第30号 )
(※ 優秀答案省略理由は、正本堂建立御供養趣意書の「実質的な戒壇建立」、院達の「大聖人の御遺命…門下最大の願業である戒壇建立」と、見解が異なるからであろう。櫻川 忠 )
1月25日
 妙信講、1月度総幹部会開催。「身体をぶつけた折伏弘通を」
 1月度折伏成果は20世帯、総世帯は4,257世帯となった。(「冨士」第31号 )
1月30日
 妙信講、研修部入部式開催。
1月 日  創価学会、各宗加盟の「宗教センター」に加入申し込む。
(※ 仏教、神道、新宗教、キリスト教の各宗が加盟 )
2月1日  創価学会、『大白蓮華』2月号。主師親の三徳と池田大作会長を結びつけた「講師筆記試験優秀答案」を掲載。
「主徳 眷属をまもる力。…全日本を、そして、世界を守る池田先生のみ、現在において主徳をそなえてらっしゃる」、「師徳 眷属を指導する力。…私たちの師匠池田先生のみ師徳具備でいらっしゃる」、「親徳 眷属を慈愛する力。 …身命を惜しまず、われわれ学会員のしあわせを願ってくださる池田先生こそ、親徳具備でいらっしゃる」
「主師親の三徳とは仏のみが具えている徳であり、日蓮正宗の教義ではそれは、御本仏日蓮大聖人以外にはありえないのである。この模範解答は、まさに池田本仏論の動かぬ証拠であり、しかもこれが、創価学会の教学理論誌結である「大白蓮華」に公然と掲載され、しかも教学試験の"模範解答"として推賞されているのである。この例でもわかるとおり、池田大作は巧妙に首脳達を動かし、メディア・口コミ等を使って、"池田本仏論"を会内に浸透させていった。
 池田大作は、さらに言った。「三大秘法のうち、題目と御本尊は、御在世において大聖人が建立された。戒壇の建立だけは果たすことができず、将来の弟子達にゆだねられた。戒壇建立のためには、広宣流布しなくてはならない。題目、本尊の建立より、はるかに大事業なのだ」。そして、その御遺命の戒壇たる正本堂を自分が建立したのだから、俺こそ真の末法の本仏であり、日蓮大聖人以上の存在だ、と言いたいのである。池田大作は、かくて「正本堂こそ御遺命の事の戒壇だ」として、その建立者たる自分を仏法史上の頂点に立つ存在として意義づけようと、夢中になったのであった。これが、"池田本仏化"の基本ストーリーである」(「あの頃のこと」第二十一回 山崎正友「慧妙」第228号 )
2月15日
 妙信講、研修部。「立正安国論」講義開始。
2月25日
 妙信講、2月度総幹部会開催。「獅子王の戦いで3月も力強い前進」
 2月度折伏成果は37世帯、総世帯は4,294世帯となった。(「冨士」第31号 )
2月27日  創価学会、理事長に和泉覚が就任。
3月6日  新宗教新聞社、「創価学会犯罪白書」刊行。
3月25日
 妙信講、3月度総幹部会開催。「五千の成否をかけた4月の前進」
 3月度折伏成果は42世帯、総世帯は4,336世帯となった。(「冨士」第33号 )
3月26日
 宗門、法華講全国連合会。自主運営方針を打ち出す。
4月4日
 妙信講、松本日仁師校訂、妙信講研修部編纂「日蓮大聖人御書十大部」刊行。
4月15日  創価学会、小説『人間革命』第2巻。「戸田は、いつか牧口という一人の不世出の教育者に、『主』『師』『親』を見出し、終生献身をもって、純真に仕えたのである」
4月23日
 宗門、関東関西両布教区懇談会。「総講頭のもとに大法華講の実現を期する」と要望。
4月28日
 宗門、富士学林。細井日達監修「昭和新定日蓮大聖人御書」第1巻刊行。
5月1日
 妙信講、4月度総幹部会開催。「5月は総会めざして指導の徹底」
 4月度折伏成果は122世帯、総世帯は4,458世帯となった。(「冨士」第34号 )
(※ 小生の入信はこのときで、4月度の折伏成果締切最終日、妙縁寺で松本日仁師より御授戒を受けた。思想・宗教に無縁のぼ~っとした高校1年生が、友人宅で浅井昭衛青年部長に鍛えられた男子部幹部に囲まれ「やってみなければ判らないだろう」の言葉に撃沈、気弱な青年は入信を拒否する手立てを持たなかった。櫻川 忠 )
5月3日  創価学会、第29回本部総会開催。
 池田大作会長、「猊下より、僧侶より、われわれが敬われるなどということは、とんでもないことです。… 信者には信者の道があります。これは皆さんも忘れてはいけません」
「昭和54年から11年目の昭和65年 … この年を目標にして、広布流布の大総仕上げにかかりたい。こう決意している次第であります。なお、この年になりますと、それまでに参議院の選挙は8回になります。また、衆議院の選挙も、最低7回ぐらいはあるでしょう。したがって、公明党も、その時までにはひじょうに力がつくのではないかと考えます。
 また折伏も、一千万の基盤は、… 昭和54年にでき上がれば、65年までには、さらに4、5百万世帯ぐらいはいくのではないかと考えられます。… 一千万世帯になれば、いまの日本の世帯数は、二千四百万世帯ぐらいですから、ゆうに半分以上を占めることになります。そうなれば、釈尊の"舎衛の三億"の方程式は、事実上まちがいなし、それ以上の結果になることは明らかです」と、大石寺開創七百年に言及。(「聖教新聞」5月4日号 )
 阿部信雄教学部長、広宣流布の条件として三大秘法抄を引き「いよいよその時が到来した事を、だんじてはばからぬものでございます」と。
 細井日達管長、「六難九易を身をもって行ない、末法の広宣流布を実現しておるのも学会であります」、「法華講の真の精神は、いまの学会員にあるのであります」と。
5月8日  創価学会、本部幹部会で国立戒壇放棄の機関決定
「今後、国立戒壇という言葉は使わない」との発議が承認された。同時に「正本堂は、天皇帰依や国会議決によらない『民衆立』である」と、戸田城聖会長の主張であった国会議決による戒壇建立路線は正式に否定された。
(※ 名称放棄だけでなく、本門戒壇の意義の変更である。「正本堂=御遺命の本門戒壇」と「国立戒壇放棄」は、表裏一体・ワンセットであることが知られる。後に宗門は、創価学会のこの機関決定に追随した。櫻川 忠 )
6月1日  創価学会、池田大作著『指導メモ』刊行。『師弟』の項に、「たとえ師匠が地獄に落ちようと、師匠のそばへ行くと決めていた。(略)それが師弟相対だ」と。
6月5日
 妙信講、第11回総会開催(神田共立講堂)、2千余名が参集。
 浅井昭衛本部長、「捨て身の信心に立たん」と講演。
「この妙信講は信心の力だけで立っております。昔から金で立つ者は金で亡び、権力で立つ者は権力で亡びる … 妙信講は幸か不幸か … 権力もない、金もない。… 妙信講は信心の講中であります。九ヶ年前に時の御法主日淳上人猊下より命を受けて、先生が真にお役に立つ講中を作るのだと、捨身の信心を以て築いてこられた講中であります」
 浅井甚兵衛講頭、「仏法で真の国の繁栄 折伏は日本民族を救う大善行」と講演。
 松本日仁師、「かくの如く盛大に此の総会が開かれた状況を、御本山に在します猊下に逐一御報告申し上げます」と挨拶。(「冨士」第35号 )
6月11日
 宗門、大石寺五重塔、文部大臣により重要文化財に指定される。
6月16日
 妙信講、6月度男子部班長会開催。「したたかな善人となれ」
 浅井昭衛青年部長「この濁り切ったどぶ泥の中で活躍する者は、ただのお人好し善男善女であっては、どうして勇猛なる斗いが出来ようか。… 如何なる悪党とも四つに組んで、それを信心の力で降していく、信心の智慧でもって魔を魔と見破ってつんざいていく、そして最後には御本尊様に信伏随従させていくという力をもたなければならない。大聖人様に対しては赤子の如く無邪気きわまるひれ伏した信心を続けると共に、一度末法濁悪の悪党を相手には、したたかなる善人になって斗ってもらいたい! 」(「冨士」第35号 )
6月25日
 妙信講、6月度総幹部会開催。「一挙に179名の幹部登用」
7月 日  創価学会、正本堂建設に関連して墓苑を増設するため、大石寺名義で静岡県富士宮市・上井出の土地約67万平方メートルを購入。(富士桜自然墓地公園)
7月3日  創価学会、池田大作会長の「日蓮大聖人御書十大部講義」の第1巻として、『立正安国論講義』を刊行。
「広宣流布 王仏冥合の達成、本門戒壇の建立 人類三千年の夢は、創価学会の前進によって虚妄でないことが明らかにされ』、「国権の最高機関たる衆議院に、三大秘法の仏法を奉じした真の民衆の代表を送り出すことこそ、現代の国家諌暁」、「正本堂建立こそ、日蓮大聖人の御遺命たる本門戒壇建立の具体化であり、宗門七百年来待望の壮挙」、「日蓮大聖人御建立の三大秘法は、われわれ創価学会員の手による正本堂建立をもって完全に終了する」、「この正本堂は、実質上、日蓮大聖人御遺命の本門戒壇になる。したがって、正本堂御供養をもって、奉安殿、大講堂、大客殿と、戸田前会長の時代から続けられた、学会総力を結集しての御供養は終わったことになる」、「本門の戒壇を建立せよとの御遺命も、目前にひかえた正本堂の建立によって事実上、達成される段階となった。七百年来の念願であり、久遠元初以来の壮挙
(※ もはや言いたい放題である。「久遠元初以来の壮挙」とは慢心の窮み、何という高上がりの言辞であろうか。これだけの大言を発した人は、他に例を見ない。櫻川 忠 )
 細井日達管長「この立正安国論講義は、会長池田先生の畢生の大講義の一つであると信じて序となす」と、その『序』に記す。
(※ 池田大作会長の "本門戒壇建の御遺命達成、久遠元初以来の壮挙" との惑義を、細井日達管長はかくも絶賛している。宗門僧侶も法華講全国連合会もこれに呼応、根檀家はそもそも戒壇問題に関心がない。
 600万世帯の会員数、355億円贈呈の金力、御書全集の発刊、小樽問答の主導、御書講義集発刊、活溌な海外布教、衆参両院・地方議会に地歩を固める公明党、強力な弁護士団等々、創価学会の宗門に対する圧倒的優位は多岐に渡っていた。池田大作会長にとって、久遠元初以来の壮挙を果たし折伏の「大賢王」となること、このとき一点の曇りもなかった。
 誰人が、この池田大作会長の暴走を、止め得ただろうか..。はからずも、「お山を護る」ため雌伏していた講中、妙信講の存在があった。櫻川 忠)
7月 日
 宗門、内事部通知。「正本堂建設のため総本山墓地移転」
8月8日  中華人民共和国、プロレタリア文化大革命を採択。毛沢東が文化大革命を指揮、紅衛兵が各地で実権を掌握し破壊活動を行った。毛沢東が自身の権力を守るため、政敵を排除する政治的な権力闘争であったが、日本のマスコミ各社はこれを賛美した。毛沢東が死去した後 1976年10月に、華国鋒政権は文化大革命を推進した四人組を逮捕し、終幕をむかえた。
8月25日
 妙信講、8月度総幹部会開催(拓殖大学)、「いよいよ法城実現の時を迎う」
 8月度折伏成果は124世帯、総世帯数は4,596世帯となり、五千法城にあと404世帯と迫る。
9月1日
 宗門、東京都墨田区に法華講「富士会館」建立、創価学会の寄進による。
9月25日
 宗門、台風24号被害。丑寅勤行中、客殿東側ガラス大戸七枚大破、数十名負傷。
9月25日
 妙信講、9月度総幹部会開催(拓殖大学)、「10月に雌雄を決する大法戦」
 9月度折伏成果は107世帯、総世帯数は4,703世帯、五千法城にあと297世帯と迫った。
9月25日  創価学会、本部幹部会を開催。海外で、創価学会が政治団体とみられることを受け、摩擦を回避するため海外法人の名称を『日蓮正宗』と改め、政治活動を行わないことを決定。
10月25日
 妙信講、10月度総幹部会開催(拓殖大学)、「妙信講の興廃を賭す大法戦」
 10月度折伏成果は138世帯、総世帯数は4,841世帯、五千法城にあと159世帯となった。
11月25日
 妙信講、11月度総幹部会開催(拓殖大学)。「五千の法城遂に11月に達成」
 11月度折伏成果は214世帯、総世帯数は5,055世帯となった。「この瞬間を待った一同はどっと沸き返り、その喜びを万雷の拍手にかえた」
 浅井昭衛本部長「五千法城は御仏意である。"この11月に興廃を賭して戦いぬきます"、こういう事を天下に向かって宣言し、もしもできなかったら使命を達する資格がない。… 大聖人様の御命令のまま、明年からこの法城を根城として、本来の使命を声を大にして叫んでいこう」と。(「冨士」第40号 )
 [解説 浅井昭衛]「正本堂の御供養が突き返されて以来、予期していたように連合会は幹部を動員して、鬼の首でも取ったように妙信講の中傷に狂奔した。「妙信講の御供養は本山に届いていない」「お前達はだまされているのだ」と。中にはご丁寧にも、電話番号を見せ「これを廻せば本山の僧侶が出るから確認してみろ」などと云って妙信講員を威し歩く悪質な連合会幹部もいた。その番号を調べさせたところ、塔中の東之坊であった。
 これらの中傷を聞く妙信講員はどれほど無念であり、くやしかったであろう。このような中で、五千達成をめざして黙々と折伏が続けられたのである。最も苛酷な試練に折伏で打ち勝つなら、もう妙信講の法城は天魔も砕けない。これがこの時の思いであった。「五千法城」の意義はまさにここにあった。十一月と目標を定め、全講中火の玉のごとき弘通が展開された。そして所期の月に、所期のごとく法城は成った。その月の総幹部会は拓大教室で行われた。恥しいことだが、私は講演の途中、幾たびか絶句した。五千世帯が出来たから嬉しかったのではない。連合会の悪罵中傷に耳もかさず、一言も説明しないのに妙信講を信じてくれた同志の心が、ただただ有り難かったのである」(「冨士」第181号 )
11月27日  創価学会、600万世帯。
12月 日  創価学会、池田大作会長、小説『人間革命』 第3巻を聖教新聞に連載。
「この若い革命家の『妙法への帰命』という理念は、具体的な実践でいうならば、稀有の師匠への帰命、すなわち『戸田城聖への帰命』でなければならぬことを、彼は知ったのである」
12月18日
 妙信講、五千法城達成幹部大会開催(安田生命ホール)。席上、全支部の名称変更の本部通達、浅井昭衛本部長「妙信講は諌暁団体」と初めて宣言。
「宿願五千法城実現の中に迎えた妙信講幹部大会は、さる12月18日(日)夜、新宿の安田生命ホールに松本尊能師の御臨席を仰ぎ、講頭先生の下、5百余名の精鋭幹部が参集して盛大に開かれた。… 4年後の一万達成の必勝を誓い、力強い第一歩をふみ出した」
 浅井昭衛本部長「私共大石寺の生粋の法華講中が七百年来の伝統を持つて、仏法のあり方、そして国家のあるべき姿を、身を捨てて強盛にいいつのっていくならば、この五千の叫びが国に影響しない筈がない、この生命がけの諫暁団体として新たに進んで行こう、これが妙信講の成さねばならぬ使命であります」
 浅井甚兵衛講頭「いよいよ広宣流布の御役に立つ講中として来る昭和45年を目指し、一万世帯を折伏して御奉公する事を決定した」(「冨士」第41号 )
 

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